第5章 すばらしき新世界
43 目覚め
その部屋は壁から天井、そして床にいたるまですべてがくすんでいた。窓のようなものはなく、人工の照明だけがその中を照らしている。その光は部屋を満たすには十分でなく、まるで影の中にその一部を浮かび上がらせているかのよう。
部屋の中には部屋に劣らずくすんだベッドが置かれており、ひとりの若い女が横たわっている。年格好は十代なかば。意識はない。その体からは何本ものコードが伸びており監視装置のようなものに繋がっている。まわりでは二、三人の看護師が忙しく動き回り、ひとりが装置の示す女の状態に目をやった。
そのとき装置の表示に変化が現れた。看護師は若い女の顔を見、女が目を覚ましたことを見て取った。
「ドクター、早く来てください。ベッド番号5番の患者さんの意識が戻りました」
意識を取り戻した若い女は看護師のその声をぼんやりと聞いていた。女は自分がどこにいるのか理解できなかった。しかしやがてまわりの様子や「ドクター」「患者さん」という単語から、女は自分がどこかの病院の治療室にいるのだろうと思った。“ずいぶん薄汚れた病院ね”とも思った。
“あれは夢だったのかな”、とその若い女は思った。どうやら幸いにも自分は死んだわけではなく単に意識不明だっただけのようだけど、そうするとどこまでが現実でどこからが夢だったのかな。
白衣を着たドクターが治療室に入ってきた。ドクターはペンライトのようなものを手に取ると、女の両目を片方ずつ照らしてのぞき込んだ。
「気分はどうかしら」
ドクターは女の表情から目を離さずに尋ねた。
「はい、悪くはないです」
「どこか痛いところは」
「すこし頭がぼおっとしますが、どこも痛みはありません」
「そう。では自分の名前が言えるかしら」
「コデラ・ミオ」
「年齢を聞いてもいいかしら」
「十四才、かな」
「そう。じゃあミオさん、あなたは意識を失う前にどういったことが起こったのか覚えている」
「わかりません」
「えっ」
「わかりません。なんだか長い夢から覚めたような心地で。頭というか心の中にぽっかり大きな穴ができてしまったような……」
ドクターの顔にさっと緊張の色が走った。
「ミオさん、私が誰かわかる」
「お医者さん、ですよね」
「『航路』という言葉に聞き覚えは」
「コウロ? お香の香炉ですか。それとも製鉄所の」
ドクターが顔を上げるのとまわりの看護師たちに指示を飛ばすのが同時だった。
「大至急脳の断層撮影を準備。それからエリカ司令に連絡して。すぐに医務室まで来てくださいって。テツヤ君にはまだ知らせないほうがいいわ」
ミオのベッドがある部屋から少し離れた医務室で、ドクターとエリカは深刻そうな顔をして向かい合っていた。
「記憶障害?」
エリカは動揺を悟られまいとしながら尋ねた。
「ええ。どうやら航路時代の記憶がすっぽりと抜け落ちているようなのです。それ以前の記憶に問題はないようで、脳の断層撮影の画像にも異常は見られません。また精神や身体機能の異常なども現在のところ確認されていません」
恐れていたことが現実となってしまったのだ。確かにミオのチップは破壊されたことが確認できた。しかしその代償として、ミオは航路時代の記憶をすべて失ってしまったのかもしれなかった。
エリカが問いかける。
「ドクターの考えは」
「なんとも言えません。チップを破壊したショックで該当の記憶に関係する脳細胞群が傷つけられたのだとしたら、記憶が戻る可能性は限りなく低いでしょう。しかし過重なストレスなどが一時的な記憶障害を引き起こすこともあります。チップ破壊による影響がそのどちらなのかは今の時点で判断することはできません。希望を述べてもいいのであれば、脳の画像に異常が見られないことから、私としては一時的なほうの可能性に賭けたいとは思いますが」
ドクターは希望を述べているにもかかわらず、その口調は明らかに重かった。エリカは尋ねた。
「どうすればそれがわかる」
「時間、でしょうね。数日から、場合によっては数週間。脳のダメージが自然に回復するのを待つしか方法はありません。神経系の再生を促す薬はここにはありませんし」
「数週間、か。そのあいだテツヤ君にミオ君の症状を隠し通すのは難しそうだな」
「折を見て話したほうがいいでしょう。もし万が一記憶が戻る可能性を断念せざるを得なくなったとしても、それまでに現実を受け入れる準備ができます」
そのときふたりの思いも寄らない方向から声がした。
「『現実を受け入れる』ってどういうことですか」
ドクターとエリカは声がした方向を振り返った。哲也がそこにいた。目が見開かれ、体全体がわなわなと震えていた。
「テツヤ君、いつ入ってきた」
「ミオに何かあったんですね。エリカ司令が医務室に呼ばれたと聞いてピンときました」
「いやテツヤ君、まだそうと決まったわけでは……」
言葉を濁すエリカをドクターが制した。
「きちんと言ったほうがいいでしょう。テツヤ君、ミオは今航路時代の記憶を思い出すことができないの。ただ脳の検査の結果なんかを見る限り、記憶が戻る可能性はあるわ。ただそれにはしばらくかかりそうなの。早くて数日、遅ければ数週間、あるいはもっと……」
「ミオの記憶が……、戻ってないんですか」
「ええ。でも大丈夫、きっと戻るわ。私もそのために全力を尽くす。だからテツヤ君も信じてあげて」
ドクターの言葉に哲也は何かをじっと考えるようだったが、やがて言った。
「ミオに会わせてください。お願いします」
ミオはベッドの上に半身を起こして座っていた。ベッドの上半身側が椅子の背もたれのように立ち上げられ、彼女はそれにもたれかかっていた。ベッドの下半身側はわずかに山形に折れ曲がり、脚はそこに膝が乗るように投げ出されていた。小さな移動式のテーブルが彼女の手元に置かれていた。
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