2 イシダ・レイラ

 ■


 幸いにも哲也の体へのダメージはそう大したものではなかった。一通りの検査が終わると、彼はその日のうちにICU(集中治療室)から一般病棟へと移された。


 心配していた「チップ」に関する話題は、あの時以来出ることはなかった。二百年前の時代から来た彼に支払い能力があるわけないことが理解されたのだろうと哲也は考えた。

 「信号」のほうは未だに意味不明だったが、哲也はそれについてはもう気にしていなかった。彼が幽霊でないことは疑いようのない事実。それに見たところどこも悪いところはない。ならば大したことじゃないに決まってるはずだった。


 そして数日後には退院の日を迎えたのだ。

 前日まで退院後の生活についての説明はなにもなかった。しかし彼ひとりをなんのサポートもなく見ず知らずの“二百年後の世界”に放り出すことはないだろうという点だけはすべての医師と看護師のあいだで意見の一致をみていた。

 だから普段とは違う時間に看護師が急いで彼の病室に入ってきたとき、哲也は「来るべきものが来た」ことがすぐにわかった。


「テツヤ君、お迎えの人が来たわ」

「やっと来ましたか。で、何人来たんです」

「ひとりよ」

「えっ、たったひとりですか。そんなんで二百年のブランクが埋められるのかな」

「さあ、そのあたりは私にはわからないけど。でもその人、かなりのやり手みたいよ。今から覚悟しておくことね」


 看護師はいたずらっぽく笑った。その表情の意味するものが何か、哲也は途端に不安がこみ上げてくるのを感じた。


「まあ、説明するのにも会ってもらってからのほうが早いわね。あら、どうやら来たようだわ。どうぞ、入って」


 看護師の言葉に続いて入り口にひとりの若い女性の姿が現れた。


「えっ」


 哲也は思わずポカンとした表情になった。てっきり男性が来るものだと思っていたのだ。まさか女性だとは。しかも“若い”女性なんだとは。


 病室に入ってきた女性は二十才前後に見えた。すらりとした身体の線にすらりとした長い金髪。かといって面立ちは外国人のようでもない。

 背の高さは哲也と同じくらいか。恐ろしく姿勢がいい。その姿勢の良さと高めの身長とから、哲也は彼女がどこかのモデルなのかとも思った。しかしモデルにありがちの派手な感じはない。冷たささえ感じさせる表情の中に浮かぶのは鮮やかな紅の唇と厳しさの漂う目。

 短い袖の上着にショートパンツ。それらから伸びる腕と脚はあくまでも白く、透き通るようだ。

 すらりとした躰からすると腕や脚はややサイズがある。しかしたるみはなく、むしろ引き締まった印象だ。その印象はおそらく、腕や脚が動くたびにその皮膚の下に見て取れる強靱な筋肉から来るのだろう。

 しかし何より哲也の視線を惹きつけたのは胸だった。すべてにおいて引き締まった印象を与える彼女において、それは唯一異彩を放つ存在だった。


“クールビューティー”


 哲也の彼女に抱いた第一印象がそれだった。

 彼女は颯爽とした歩みで哲也のほうへやってくると、看護師の横にすくっと立った。哲也は彼女の全身から強烈なオーラが放たれているように感じた。

 看護師が紹介する。


「テツヤ君、こちらはイシダ・レイラさん。レイラさん、こちらがタケモト・テツヤ君よ」

「おはようテツヤ君。私がイシダ・レイラだ。これから私が君をサポートすることになる。よろしく」

「い、いや、こちらこそよろしくお願いします」


 哲也はどぎまぎしながら答えた。そのどぎまぎはレイラの絵に描いたような美女ぶりだけが原因だけではなかった。彼女の口調、自信に満ちあふれたようなその口調、威圧感さえも感じられるその口調に圧倒され始めていたからでもあった。


“なんだこの人。俺より多分年上だろうけど部下とかがいる身分なんだろうか。もしかして体育会系かな。ものすごく自分に自信を持ってるって感じがするぞ。ひょっとすると『自分にも他人にも厳しい人』なのかも。だとすると俺の苦手なタイプだぞ。ぜひお近づきになりたいくらいな美人なのに”


 哲也の思考が顔に現れたのだろうか、すかさずレイラから言葉が飛ぶ。


「何か私に言いたいことでもあるのかな」

「い、いえ……。ただ、何とお呼びしたらいいのかな、って」


 まるで思考を読まれたかのようで哲也は心の中で思わず震え上がった。


「私の呼び方か。そうだな、『レイラさん』と呼ぶのがいいだろう。三つほど違うだけでも、やはり上下関係はきっちりさせておかないとな」

「えっ、三つって……。俺が今十六だから、レイラさんもしかしてじゅうき……」


 その言葉は最後まで言われなかった。哲也があっと思ったときにはレイラの姿は彼の真横にあった。彼の頭に激痛が走った。レイラの強烈なヘッドロックがその正体だ。


「なんだって。十九よりもっと歳がいっているように見えるとでも。それに二十一世紀では女性に年齢の話をすることが失礼に当たるって習わないのか」

「痛いです、ごめんなさい。歳がいっているように見えるなんて言ってませんから。痛い痛い」


 悲鳴を上げながら哲也は気づかれないように顔をレイラの体のほうへ押しつけた。柔らかいふくらみが頬に感じられた。こんな巨乳に触れるのは生まれて初めてだった。痛いのは嫌だが、今しばらく至福の時を……、という願いが哲也の脳裏をかすめた。


 願いは叶えられなかった。哲也の謝罪の言葉を聞いたレイラは腕をあっさり放してしまったのだ。彼は顔をレイラの胸からあわてて離した。


「よろしい。以後注意するように」


 それだけ言うとレイラは哲也のそばから離れた。


 哲也はホッと胸をなで下ろした。どうやら胸に顔を押しつけたことはバレていないようだった。安堵して目線を上げると、そこには思わず助けに入ろうと手を伸ばしかけたままの看護師の姿が見えた。


「君も隅に置けん男のようだな」


 レイラの声が響いた。哲也はハッとして彼女のほうへ振り向いた。


「私を堪能したと思ったら、次の瞬間にはもう目線はほかの女性に向いている。いやはや、どうして世の男どもはどいつもこいつもこうなのか」


 吐き出すようなレイラの口調に思わず哲也は心の底から縮みあがった。


“やべっ、バレてる……”


 サッと引きつる哲也の顔。それを見てレイラはフフンと笑った。


「もう退院の手続きはすっかりすんだ。そろそろ行くとしようか」

「えっ、行くって、どこへ」

「決まってるだろ。テツヤ君がこれから住むところへ、だ」


 レイラは彼の腕をつかむと容赦なく引っ張った。

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