第46話 決着



 八年前。

 出会ったばかりの少女は、上から見下ろしながらこう言った。



「ねえ、アンタ――私の弟子になりなさい」



 そう言われた時、シオンはノータイムで答えた。


「嫌だよ」


 まだ幼いころの、情緒もまともに発達していない頃だった。


 特にシオンは、外の世界を殆ど知らず、引きこもりがちな小学生時代だったので、同年代よりも自我が弱かった。

 人に言われたことはたいてい素直に聞いていたし、それに疑問を覚えることもなかった。


 それなのに、アヤネの言葉には、拒絶をした。


 その後、結局シオンは、いろんなことをアヤネから教わった。

 魔法だけじゃない。あらゆる知識をアヤネから教えてもらい、知恵をつけた。効率的な勉強法、効果的な思考法――それらは非常に偏ってはいたが、天才から行われる英才教育だった。


 シオンは今でも、自分のことを凡人だと思っている。

 今の自分が高い性能を発揮できるのは、すべては環境のおかげだ。学習できる環境にあった。学習を意欲的にできる環境にあった。学習を無駄なく吸収できる環境にあった。そして、それを与えてくれる人がいた。

 そのどれか一つでも欠けていたら、きっと今の自分はなかっただろう。


 そして、その要因は、全て他者から与えられたものだ。

 自分から望んで手にしたものでは、決してなかった。


 そこに、シオンの意志はなかったのだ。


 けれど。

 一つだけ、シオンが望んだことがある。


 弟子になれと言われたあの日。


 結果的に彼女に教えを請うことになったが、一年も経つ頃には、教わるだけではなくなった。いっぱいいっぱいではあったが、彼女の隣に立って何かを為すことが出来た。彼女は自分のことを弟子扱いしたが、シオンは決してそれを認めなかった。


 それは――

 その感情は、きっと、彼が望んだ唯一のものだった。



 ※ ※ ※



 全身が揺らぐ感覚とともに、視界がブレる。

 前のめりになっていた身体が急に停止して、シオンは目を白黒させる。

 全身を襲う虚脱感に思わず倒れそうになるが、足を踏み出してかろうじてバランスをとった。


「な――んっ」


 青いベールで覆われていたはずの景色が、彼方まで透き通っていた。

 広い競技場を囲む観客席に、沢山の生徒が敷き詰めている。周りがガヤガヤとうるさく、耳が痛い。


 先程アヤネにもがれたはずの左腕はしっかりと存在した。代わりに、自由に動いていた右腕の感覚がない。だらりと下げられた右腕は、もはや自分の腕ではなく、鏡の因子を持つ義手でしかない。魔力を通すべき鏡が割れた今、それはただの物体だった。


 そこまで確認して、ようやくシオンは、霊子庭園が解除されたことを悟った。


「……っ! アヤ!」


 競技台に教師が駆け上ってくるのを横に感じながら、シオンは目の前に視線を向ける。


 そこには、車椅子から崩れ落ち、地面に倒れて気を失っているアヤネの姿があった。


 霊子庭園の強引な解除によって、二人は無理やり生身に戻されていた。

 けれども、シオンは意識を保っていて、アヤネは気を失っている。これは、つまり――


 崩れ落ちそうになる足を必死で支えながら、シオンはその事実を受け止めようとする。


 その時。

 アヤネが、目を覚ました。



※ ※ ※



 それは、夢を見るには短すぎるブラックアウトだった。


 霊子体から生身に戻る一瞬の失神。まどろみよりも遥かに短い意識の消失の中、アヤネは、幻影を追っていた。


 目の前を少年が走っている。

 その背中を追っていた。

 少し前まで、その背中は自分の後ろにいたはずなのに。いつの間にか、追い抜かれてしまった。それどころか、手が届かない場所にまで遠ざかってしまっている。


 待って、と言った。

 行かないでと、懇願した。

 それなのに、その背中はどんどん先に行く。


 いつの間にか、追うための足が動かなくなっていた。その場に座り込んだアヤネは、絶望を覚えながら、遥か彼方に消えた背中を見る。


 ――もう、何回も見た悪夢。


 五年前、霊子災害『インクブス・レースの呪殺夢中』によって見せられた悪夢は、未だにアヤネをさいなんでいる。

 それはやがて、四年前の事故を引き起こし、そして、その悪夢を現実のものとしてしまった。


 漠然とした恐怖は、いつしか、事実となってしまった――









 そして。

 久我アヤネは、目を覚ました。




「――あ、れ」


 まず、地面の冷たさに気づいた。

 石造りの競技台は、冬の気温によって驚くほど冷えている。


 痛いほどの冷たさに触覚が刺激され、次第に意識が覚醒していく。

 次に聴覚が回復し、会場の歓声が強く耳朶を叩いた。視界に意識を回せるようになったときには、競技台に教師たちが登ってくる姿が見えた。


 アヤネは上半身だけ起こして、ぼんやりと周囲を見渡す。


 その視線は、やがて目の前にいる一人の少年に向けられる。


「……あ」


 久能シオンが、右腕をだらりとさげて、立っていた。彼はこちらを気遣わしげな目で見つめていた。

 ふらついてはいるが、その足はしっかりと地面を踏みしめている。



 そこでようやく、霊子庭園が解除されたことに気づいた。



 解除の瞬間を覚えていない。

 ずっと外で教師たちがハッキングを仕掛けていたのは意識していたし、最後に大きな衝撃があったのも覚えている。

 けれども、生身に戻る瞬間の違和感はなかった。気づいたときには、アヤネは地面に転がっていた。


 それが意味することは一つ。

 霊子庭園が解除される直前で、アヤネは意識をなくしたのだ。



「あ、ぁあ、ああ……」



 その事実を自覚した途端。

 アヤネの中で、感情の糸が、ぷっつりと切れた。



「う……、ぁあ、あああああああっ!!」



 アヤネは突然叫びだすと、残された僅かな魔力を全て脚部に送る。

 魔力に覆われた脚部が赤く染まり、『赤い靴』が起動する。エネルギーの奔流が電流のように駆け巡り、現実世界の大気を震撼させた。



 アヤネは赤く染まった足で地面を蹴ると、一直線にシオンに突撃した。



「やだ、やだぁあああああ!」


 悲鳴のような叫び声を上げながら、彼女はシオンに掴みかかると、そのまま一緒に地面に転がり込む。

 そのときには魔力が尽きて『赤い靴』は解除されたが、すでにアヤネは、シオンを仰向けに組み伏せていた。


 マウントポジションを取ったアヤネは、子供じみた奇声を上げながら、がむしゃらにシオンを殴りつける。


 突然のことに目を丸くしたシオンだったが、アヤネに殴られた瞬間、すぐさま反撃に移った。

 鬼気迫るアヤネの猛攻に怯むことなく、シオンは彼女の身体を押し返しながら殴り返す。


 そのまま二人は、転がるようにして、互いの顔を殴り合った。


「あぁ、あ、うわぁああああっ!」

「ぐ、う、おぉおおおおおおっ!」


 けたたましい金切声と、雄叫びじみた絶叫がこだまする。

 そこでようやく、周囲の教師たちが二人のもとにたどり着いた。


「や、やめなさい! 二人共!」

「おい、押さえつけろ!」


 西園寺教諭の一言で、教師たちがそれぞれシオンとアヤネを引き離しにかかる。

 しかし二人は、組み伏せにかかる教師たちに構わず、互いを殴り合うのをやめようとしない。


 両腕を掴まれて、無理やり引き離されながらも、二人は敵意を収めようとせず、相手に掴みかかろうと暴れるのを止めなかった。


 我を忘れて殴り合った二人は、互いに顔を真っ赤に腫らしていた。まぶたが切れ、鼻血を流し、口元から血があふれる。ボロボロの状態でありながら、彼らは互いを睨むのをやめない。少しでも教師たちの拘束がゆるめば、その瞬間に飛びかからんばかりだった。


「私は、負けてない!」


 二人の教師に押さえつけられたアヤネは、それを振り払えないとわかりながら、懸命に上半身を動かしつつ、悲痛な叫び声を上げた。


「負けてない! 負けるわけがない! 嫌だ。負けたなんて嘘だ。そんなの絶対ウソだあああああああ! だって私は、私は! まだ終わってなんてない!」


 支離滅裂なことを言っていると自覚しながら、アヤネは言葉を止めることが出来ない。


「負けでいいなんて、上から目線で勝ち誇るな! あ、アンタは! アンタは、私がいなきゃ、何も出来ないくせに! それなのに、なんで上から見下ろしてるの! 駄目、駄目なの。アンタに負けちゃ駄目なの。だって、だって私は――」


 がむしゃらに、子供のように癇癪を起こして暴れながら、彼女は。


 久我アヤネは、悲痛な叫びでも上げるかのように、その一言を放った。




「だって、シオンは私の弟子だから!」




 ――いつの間にか、前を走っている背中。

 それに追いすがる自分を脳裏に映しながら、アヤネは、涙を流しながら絶叫する。


「負けない! アンタには負けない! 師匠が負ける訳にはいかない。私はずっと、アンタの前にいなきゃいけないの! だから勝負しろ! まだ戦える。だから、だから――」

「前言撤回だ、アヤ」


 無様に喚き散らすアヤネに対して、シオンは冷静につぶやいた。


 彼もまた、教師三人がかりで身体を押さえつけられている。

 しかし、アヤネに比べれば、幾分か落ち着いているようだった。ようやく頭に上っていた血が下がったのか、彼は思い詰めたような表情で、まっすぐにアヤネを見ていた。


 落ち着いた瞳で、彼は淡々と言う。


「今のアヤには、負けてなんて、やらない」

「うるさい! うるさい、うるさい! 負けるもんか、アンタなんかに、私が、負けるなんて、そんなの――」

「よく聞け、アヤ」


 ズイッと、羽交い締めにしている教師ごと、シオンは前に踏み込みながら言う。



「僕は、お前の弟子なんかじゃない」

「―――ッ」



 シオンの言葉に、怯えたようにアヤネが息を呑む。

 そんな彼女に、シオンははっきりと、その一言を告げた。



「僕の勝ちだ。アヤ」



 その言葉に、ストンと、アヤネの身体から力が抜けた。


 分かっていた。


 この試合、互角のように見えたが、内容を掘り下げていくと、終始リードしていたのはシオンの方だった。アヤネの猛攻の全てが対処され、逆に追い詰めてきた。主導権を握られた戦いに、勝ち目など無かった。

 その事実を認めることで、アヤネは己の敗北を悟った。


「わた……私、……」


 急に力を抜いたため、地面に倒れ込みそうになるのを、慌てて教師たちが支える。そんな中、彼女は呆然とした顔で、かろうじて顔を上げた。


 目の前に、知らない少年がいる。


「う、ぁ、ぁあ……」


 八年前、かけがえのない出会いがあった。

 四年前、唯一の理解者と決別した。

 そして、今――アヤネはようやく、彼と真正面から向き合った。


 涙腺から涙が溢れ、口からは嗚咽がこぼれる。

 それを止めることは、今の彼女には不可能だった。


「うわぁぁぁああああっ!!」


 泣き声が、会場中に響き渡った。


 子供のように泣きじゃくりながら、アヤネは喉が潰れるのも構わずに、思いっきり泣きわめいた。

 まるで産まれたばかりの赤子が、自身の感情を理解することができず、がむしゃらに気持ちを主張するかのように。


「うわぁああああん、ぁあ、うわああああああああっ!」


 彼女は体力が尽きて気を失うまで、思いっきり泣きじゃくった。




 ※ ※ ※




 後日判定。

 久我アヤネVS久能シオン


 勝者・久能シオン






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