狐ノ巫女 ~現代妖狐奇譚~

赤魂緋鯉

第1話 狐ノ巫女


 ある田舎町の外れに、古めかしい小さな神社が建っている。丘の上にある、それに続く参道の石段には、ずらりと鳥居が並んで紅いトンネルを作っていた。

 その先にある社の横に、拝殿と渡り廊下で繋がった社務所兼住居が建っている。その純和風建築の家の廊下を、バタバタと騒がしい足音を立てて長い金髪の少女が駆けていく。その頭部と臀部の上から、同じ色あいの狐の耳と尻尾が生えていた。

舞姫まいひめ! 朝じゃ! 起きるのじゃ!」

「ぐえっ」

 布団に頭まで入れて寝ている、舞姫、と呼ばれた少女は、ふすまを勢いよく開けて入ってきた妖狐に飛びかかられ、脚と頭が少し浮き上がった。

「なにすんの!」

 フライングボディープレスをきめた妖狐は見かけの上では幼いが、実年齢は実に500歳を越えている。

「痛いぞ!」

 布団を勢いよくはぐられたせいで、彼女は床を転がって火鉢に頭をぶつけた。

「まだ四時じゃん、久遠くおん……」

 抗議の目を無視してそう言った舞姫は、また布団に入ってしまった。

「五時も四時大して変わらんじゃろ!」

「十分大きいんだけど……。あとうるさいから出てって」

 とりつく島もなく、むげにあしらわれた久遠は、しばらく舞姫の身体を揺すっていたが、

「ええい、かくなる上は!」

 無視してくる彼女の顔に、自らの尻尾を乗せてワサワサ動かす。

「ちょっ! やめて、口に入る!」

 尻尾を振り払って、舞姫は飛び起きた。

「みたか! これが神の力じゃ!」

「毛の力じゃん……」

 これ以上無視しても煩わしいだけなので、彼女は取りあえず久遠の頭を撫でておいた。

「えっへっへっ」

 一応、久遠はこの神社の本尊なのだが、ハタハタと尻尾を振っている彼女には、威厳という物が全くない。

「まだちょっと早いなあ……」

 撫で回し終えると、舞姫は寝間着を脱いで、久遠が着ているのと同じ、赤い袴の巫女装束に着替え始める。

「うむ、しかしでっかいのう」

 彼女の下着の間から覗く豊かな谷間を凝視して、久遠は腕を組んで頷きながらそう言う。

「本当は久遠のほうが大きいじゃん」

「自分の乳なんぞ見てもつまらんわ」

 じゃから揉ませろ! と突っ込んで来た久遠の頭に、舞姫はチョップを入れる。

「痛いぞ!」

「あー、寒い寒い……」

 黒いヒートファクトを着た彼女は、その上から巫女服を纏った。

「よし」

 年季の入った竹箒で、境内の石畳を掃いていく。

 遅れて出てきた久遠が、彼女の後をついて回る。ちなみに、拝殿の横にある平屋の住宅は、社務所兼、二人の住居になっている。

「久遠。そう言えば、人来てるのここ?」

「おう、来とるぞ」

「氏子の人以外も?」

「つ、月に二、三人は来るわい!」

「来てないんじゃん」

「0でないからええんじゃ!」

 ブーブー言いながらつきまとう久遠。埒が明かないので、

「はいはい。そうだねー」

 舞姫の方から折れて、適当に返事を返す。

わらべ扱いしおってからに……」

 拗ねた久遠は、賽銭箱の上であぐらをかいた。

「さてと、ご飯作らなきゃ」

 それをガン無視して家に入った舞姫は、久遠に閉め出しを喰らわせた。

「儂が悪かった! じゃから入れてくれええええ」

 玄関の引き戸を連打する彼女の、情けない声が周囲の森林にこだました。


「今朝は悪い事をしてしもうたな……」

 ちゃぶ台を挟んで、反対側に座る舞姫にそう言ってから、久遠は味噌汁をズズズと啜った。

「反省してるの?」

「うむ、無論じゃ」

 納豆が乗った白飯をかき込む久遠。

「食べるのやめてから謝ってもらえない?」

 舞姫は卵焼きを口の中に入れた。

「しかし、舞姫の作る味噌汁は旨いのう」

「話を逸らさないの」

 バッサリ切り捨てた舞姫だが、至福の表情彼女は少し得意げな顔をしていた。

 朝食を終えて、セーラー服に着替えて歯を磨く舞姫に、

「今日も学校とやらに行ってしまうのかや?」

 久遠がひょっこりとのぞき込んで訊ねる。

「何を今更」

 当たり前でしょ、と答えてから舞姫はうがいをし、口をタオルで拭った。

「舞姫が行ってる間、儂暇なんじゃがな」

「境内走り回ってれば?」

「儂は犬か!」

 タイを絞めて髪を束ね、適当な事を言う彼女に久遠は憤慨する。

「それじゃ留守番お願いね?」

 難色を示す久遠を無視して、玄関に置いてあった鞄を手に持って、舞姫は学校へと行ってしまった。


「うーむ、つまらぬ……」

 暇を持て余す久遠は、本殿の床をゴロゴロと転がって唸る。古めかしい外見とは違い、中は畳敷きの現代的な部屋になっている。

「……! そうじゃ!」

 ガバッ、と起き上がってから、

「管狐よ、舞姫の様子を見に行くのじゃ!」

 彼女は式神の管狐を呼び出し、そう指示を出す。管狐は本殿の扉をすり抜け、飛び出していった。

「さてと」

 しばし間を空けてから、久遠は中央に座って瞼を閉じた。

「おっ、おったおった」

 窓際の席にいる舞姫はノートを眺め、シャーペンを手に難しそうな顔をしている。

「……なにやら、狭い所に押し込められておるなあ」

 寝ていたり、スマートフォンをかまっていたりする生徒がいて、全体的に退屈そうな空気が教室内に流れている。

「これでは暇つぶしにならんのう」

 ピンと立っていた久遠の耳が、垂れて横になる。

「どこぞで逢い引きでもしとらんのか」

 人気の無いところを虱潰しに探したが、「そういうこと」をやっている人はどこにも居なかった。

「貞操観念がしっかりしすぎじゃ」

 ああ、つまらぬ、と文句を言いつつ、舞姫の観察に戻ると、ちょうど授業が終った所で、彼女は教科書をしまっていた。その後、机の横につり下がっているトートバックを引っつかんで、教室から出て行った。

「確かアレには体操着が入っておったな」

 管狐に舞姫を追尾させ、更衣室前で隠れて待ち構えさせる。

「お」

 しばらくしてから、他の生徒に混じって舞姫が出てきた。女子生徒達は校庭へと向かい、その後を管狐は天井を通って尾行する。

 屋外に出ると、彼女らに見つからないよう、高い位置をキープしつつ観察を始める。

「む?」

 始めてから一分も経たない内に、境内に何者かの気配を感じ、久遠は顔をしかめて目を開ける。

「式だけ飛ばしてくるとは、いったい何様のつもりじゃ」

 とても不愉快そうな様子で、本殿から拝殿の方に行くと、白い式神が宙に浮いていた。

『久しいな、九尾狐』

 紙製のそれからは、仰々しく低い声が発せられた。

「誰じゃ、お主?」

『おや、やけに小さくなったではないか』

 声の主は、質問に答えずに喋り続ける。

「質問に答えい!」

 苛ついている久遠は、狐火を出して式神を燃やそうとする。

『これならば思い出せるであろう』

 式神がそう言うと、形が徐々に立体感を増してきて、平安貴族っぽい痩せぎすの男の姿が現われた。

「なんじゃ、貴様か」

 すでに機嫌が悪かった久遠は、露骨に顔をしかめた。

「儂は忙しいんじゃ、帰れ」

 箒をわざわざ引っ張り出し、逆さまに置いてから本殿に戻ろうとする。

『まあ、そう邪険にせずともよかろう』

 その進路を塞ぐように、式神が前へ回り込んだ。

「上座に立つでないわ!」

 一喝した久遠はその頭を掴んでどかした。

「今更何の用じゃ?」

 本殿に続く階段に腰掛けて、式神を見下ろす久遠。

『言わずとも分かるでしょう』

「なんじゃったかの?」

 すっとぼける久遠は、懐から煎餅を取り出し、小袋を開けて中身を囓る。

『からかうのはよして頂きたい』

「儂はいつも真剣じゃぞ?」

 バリボリと煎餅食べ、久遠はぞんざいな対応をする。

『貴君は既に、人間世界の転覆には興味を失ったと?』

 声の主は少し語気を強め、噛みつかんばかりにそう訊ねる。

「とうの昔にのう」

 煎餅を食べ終えた久遠は、管狐に緑茶を持ってこさせた。それをズズズ、と啜り、一息吐いた。

に、なにもかもを奪われたというのに?』

「ええい、やかましい! 話はこれまでじゃ!」

 その一言に我慢の限界が来た彼女は、容赦無く式神を燃やしてしまった。

「さて、続きを見るとするか」

 湯飲みを手に久遠は、いそいそと本殿へ帰っていった。

 彼女は観察に戻り、女子生徒達を品定めするように眺める。

「うむ。舞姫の尻は、やはり良い形をしておるわい」

 久遠が上空から熱い視線を送る中、百メートル走のレーンを、舞姫はぶっちぎりの一位で駆け抜けた。

「やはり舞姫に勝る者はおらんな……」

 厳正なる主観的審査の結果、久遠は己の巫女に最高評価を付けた。

 審査員長久遠が、だらしなく笑っていると、

『……』

 ふと空を見上げた舞姫が、天高く浮かぶ管狐に気がついた。

「ありゃ」

 久遠の目的に察しがついた彼女は、一瞬だけ管狐越しにジト目を向ける。

「これは、後で絞られそうじゃな……」

 苦笑いを浮かべながら、久遠は額の冷や汗を拭った。


                  *


 どこかの洞窟内。ぼんやりと鬼火が照らす、広い空間の床には円陣が描かれている。

「あの女狐め……。他人の苦労を何だと思っておるのだ!」

 その中心にいる痩せぎすの男は、怒りに震えてギリギリと奥歯を噛みしめる。

「何としてでも我が野望のため、従って貰うぞ九尾狐!」

 そう叫んだ男の顔には、怪しい笑いが張り付いていた。

 あっという間に円陣を描き直すと、男はその外縁に座して冥想を始めた。

「……」

 狐を模した金色の面を着けた一人の女性が、その一部始終を見ていた。


                  *


『ほんの出来心なんじゃあー』

 授業が全て終わり、帰路についた舞姫と、管狐越しに話す久遠。

「はいはい」

 舞姫はむすっとした顔で、早歩きをしている。

「見たって面白く無かったでしょ?」

『百めいとる走、とやらは、なかなか乙なものじゃったぞ』

 女体の楽園じゃ。と久遠は嬉々として語る。

「で? 誰が気に入ったの?」

『無論、舞姫に決まっておるじゃろ』

 久遠は四の五の言わず、即座に返答した。

「そう?」

 むすっとした顔が緩んで、舞姫は少し上機嫌になった。

『……ご機嫌取りだとは思わんのか?』

「え、そうなの?」

『そんなわけないじゃろ』

 久遠はまたも即答する。

「ありがとねー」

 そう言って彼女が管狐を撫で、その手を戻した直後、それは真っ二つに切られて煙となって消えてしまった。

 舞姫がとっさに振り返ると、手にした剣を彼女に突きつける、白い狐の面の男が立っていた。

「悪いが一緒に――」

 スタイリッシュに悪役をキメるはずの男だったが、

「はぐっ、ぬおおおお……」

 視界から一瞬舞姫が消えた、と思ったら、男は強烈な金的蹴りを食らって崩れ落ちていた。

 社のある方へと、屋根を飛び移って逃げる舞姫には、半透明の狐耳と尻尾が顕現していた。

「いたぞ!」

 数名の狐面が彼女の後を追走してくる。常に正面以外の三方向に狐面の姿があり、最短距離で向かう事が出来ない。

 包囲から逃れようとフェイントをかけたり、急転回したりする舞姫。知らず知らずの内に彼女は、いつもの帰宅時間を大幅に過ぎてしまっていた。

「……?」

 追手を振り切った舞姫は、参道の鳥居が見えた辺りで、心臓に違和感を感じた。

「やはり来たな」

 それに気を取られたせいで、彼女は伏兵の存在に気がつかなかった。


 二人の和やかな会話の最中、急に視界が暗転して同時に声も遮断された。

「何事じゃ!?」

 すぐさまありったけの管狐を放って、久遠は舞姫を捜索させる。

 管狐が彼女を最後に確認した地点に付くと、路面に落ちている鞄と共に、下腹部を押えて丸くなっている狐面の姿があった。

『おい貴様ァ! 舞姫はどこじゃ! 答えい!』

 戦闘特化型の式神で男を取り囲み、久遠はほとんど脅迫に近い形で尋問する。声を伝える管狐の毛は逆立っていた。

「そんなもん俺が知りてえよ!」

『ええい! 役に立たん雑魚じゃ!』

 未だに男の男が、悲鳴を上げている男を放置し、

「はっ!」

 久遠は自分で気を飛ばして舞姫を捜索する。

「そこかっ!」

 割合近い所に居る舞姫の所へ、飛ばした全式神を向かわせる。

 あれは……!

『貴様の仕業か髑髏どくろ!』

 帯型の呪符で雁字搦めにされた舞姫は、髑髏と呼ばれた痩せぎすの男の式神に捕らえられていた。

 意識がないのか、彼女はぐったりとうなだれている。その隙間から見える肌は、所々内出血を起こしていた。

『儂の巫女に何をしよった!』

 激昂する久遠は、髑髏に向かって式神を殺到させる。

「おっと」

 捕らえた舞姫を盾にして、その攻撃から身を守る。彼女に凶刃が届く寸前で式神が停止した。

『この卑怯者が……っ!』

「何とでも言え。この御山の大将めが」

 高笑いをしている髑髏は、手を出せないでいる久遠をあざ笑うかの様に、悠々と宙を舞って社のある丘の麓に降り立つ。

「舞姫っ!」

 本堂を飛び出した久遠が、上から1本目鳥居をくぐろうとすると、不可視の結界に弾かれて石畳を転がる。

「なんと無様なことだろうか! そうは思わぬか九尾狐! これではどちらが元・下僕かわからぬなあ!」

 山全体に張られた強固な結界を挟んで久遠は、あざ笑う髑髏、捕らえられている舞姫と対面する。

「おのれええええ!」

 一歩も外に出られない久遠には、咆吼を上げことだけしか出来ない。

「貴様が軍門に下ると言うのならば、この巫女を返してやらんでもないがな」

 天を舞う髑髏は邪悪な笑みを浮かべ、地を這う狐は怒りに表情を歪める。

 明朝まで待ってやろう、と言い残し、髑髏は高笑いと共に舞姫を連れて消えた。

「ただで済むと……、思うでないぞ……」

 息が荒くなっていく久遠の姿が、徐々に8本の尻尾を持った、巨大な化け狐へと変化していく。

 化け狐は先程とは比べものにならない、凄まじい咆吼を放った。丘の森に住まう鳥達が一斉に飛び立つ。

 それは、三百年もの長きの間、この化生を封じ込めていた結界を完膚なきまでに破壊した。

 もう一度咆吼を上げた化生は、

 まっておれ……、舞姫……。

 一人の少女を救うために、金色の光を放ち濃紺の天を駆ける。


                  *


 髑髏の隠れ家である洞窟の、資材置き場になっている一角。

「こうしちまえば、ただのメスガキだなあ? オイ?」

 危うく自らの「尊厳」を、舞姫に粉砕されそうになった男が、いかにも雑魚の台詞を吐く。

 床に横倒しになっている彼女の頭を、白い面の雑魚がつま先で何度も小突いた。頭部に巻かれた呪符に意識を奪われ、何の反応も示さない。

「精々楽しませて貰うぜ」

 雑魚の男は下品な笑みを浮かべて、舞姫の豊かな胸に手を伸ばそうとする。

「やめなさい。その子は捕虜なのですよ」

 その手を払った金色の面をした女性が、嫌悪感を隠そうともせずに雑魚Aを見下ろす。

「タマ潰されかけたんだから、そのくらい別にいいだろ」

 それを無視してAは舞姫の太腿に触れ、手をスカートの中に差し入れようとする。

「やめなさいと言ったはずです!」

「ごっふうううう!?」

 金色面の女性は、それの顔を全力で蹴り上げて吹っ飛ばした。続けざまに浮き上がっているサンドバックに回し蹴りを食らわせ、段ボールに突き刺した。

「全く……、低級はこれだから……」

 脚の生えた段ボールを外に投げ捨てて、資材置き場のドアを閉めた女性は頭を抑えた。

「……頭まで巻かなくてもいいでしょうに」

 そう言って彼女は、舞姫の頭部に巻き付いた呪符を剥がす。

「……。ん……」

 意識を取り戻した舞姫が目を開けた。目線だけ動かして、目の前に立つ女性を認識した。

「すみませんね。こんな厄介事に巻き込んで」

 女性はそう言って資材の中にある、圧縮されたマットレスを開けて床に敷く。

「……っ」

 女性を睨み付ける目には、親しみといった感情が一毛たりともない。

「流石、久遠様が育てられたお子ですね」

 女性は舞姫を軽々と抱え上げ、固い地面からマットレスの上へと移す。

「貴女が居る限り、ここだけは絶対安全です」

 女性は扉の前に座り、面を外して素顔を晒す。低い声の割には、彼女からは幼い印象を受ける。

「……」

 そう言う割に彼女は、冷や汗を滝の様に流していた。

「外では恐らく、もうじき生き地獄が始まる頃でしょう」

 身震いをした女性は、手の震えが止まらなくなり始める。。

「苛烈なあのお方の事です、何もかも燃やし尽くしてしまうでしょう」

「……?」

 あのわがままで、寂しがり屋で、どこまでも優しい久遠と、彼女が話す久遠が舞姫にはどうにも結びつかない。

 まあ無理もないでしょう、と言ってから一つ間を空けて、

「久遠様は、寵愛なさっている者以外には、とても手厳しいお方ですので」

 女性は額の汗を拭いてそう続けた。

「配下の者に手を出そうものなら、それはもう恐ろしい報復を――」

 独り言の様に彼女が言った時、扉をすり抜けて管狐が入ってきた。

「久遠……?」

 直後、隕石でも落ちたかのような轟音が響き渡った。

「おいでなさいましたか、久遠様……」

 自らを威嚇する管狐に、女性は降参のポーズをした。

 管狐の尻尾から出てきた狐火が、舞姫の全身に巻かれた呪符を焼き切った。

「そこ、どいてもらえませんか?」

 再び耳と尻尾が顕現した舞姫は、ゆらゆらと出入り口に向かう。

「そういうわけには行きません。私には貴女を護る義務があります」

 女性はそう言って彼女を押しとどめる。

「行かない、と……」

 直後、痛いほどの動悸を覚えた舞姫は、その場に崩れ落ちた。

「舞姫様!」

 苦しそうに浅い呼吸を繰り返す彼女を、女性は優しくだき抱え、マットレスの上に戻した。

「久遠……、苦しい……、よ……」

 それでも身体を引きずって、外に出ようとする舞姫。

「もしや……?」

 女性はその体内を循環する気に、久遠のものが混ざっているのを感知した。


                  *


「こんなの聞いてねえよ……」

 目が覚めた段ボールの目の前で、山がドロドロに溶けて赤熱していた。

 その中心、髑髏の張った結界内と、舞姫がいる部屋だけが原型を保っていた。

『貴様ダケハ許サン! 髑髏オオオオォォォォ!』

 髑髏と対峙する金色の化生は、低い声と高い声が混ざった様な、不気味な声で叫ぶ。

 八本の尻尾から生成された、八つの火球が結界に殺到し、また、凄まじい轟音を鳴らした。その余波で、段ボールの雑魚は吹き飛ばされて行った。

 それでも髑髏は、不敵に笑い詠唱を始める。張られた結界は、完全な状態で未だに健在だった。

 舌打ちをした化生は、今度は妖力を1カ所に集めて火球を放つ。

「どうした九尾狐! 貴様はその程度であったのか?」

 だが、相変わらず結界には、ひび一つ入っていない。

「ならば貴様は! 我を倒す事は出来ぬ!」

 呪符を陣の中心に貼り付けると、周囲の溶けた岩を吸い上げながら、岩の巨人型の式神が姿を現した。その怪物には、頭が付いていなかった。

『コノ程度ッ』

 化生は最大限の妖力をつぎ込んで、一度に何発も火球を怪物に叩き付ける。

 なにっ!

 にもかかわらず、それは全くダメージを食らっていなかった。

 反動で動けない化生は、化物に鷲掴みにされ、

『グッ!?』

 その足元に叩き付けられた。化生の身体が薄くなっていき、苦しそうに喘ぐ久遠の姿に戻った。

「やれ」

 彼女の小さな身体を、化物はその巨大な足で何度も踏みつける。

「ご……、は……」

 舞姫……っ。


「あぐ……、うああああ!」

 舞姫は胸を抑え、いっそう悶え苦しみ始める。額に大量の脂汗が浮かんでいた。

「舞姫様! お気を確かに!」

 意識が朦朧としつつある彼女の、半身を起こして呼びかける。

「久遠の所に……、早く……」

 うわごとの様に掠れた声で、舞姫はそう言う。

「危険です」

 神にも匹敵する力を持つ者同士の、戦いの最中に飛び出していくのは、自殺行為に他ならない。

「早く……、しないと……。早く……」

 何度もそう繰り返し、彼女のその手が宙を掻く。

「……っ。どうなっても知りませんよ!」

 根負けした女性は、舞姫を担いで外へと飛び出す。

「これは……っ」

 彼女の視線の先には、式神に両腕を拘束され、磔のように吊り上げられている、久遠の姿があった。

「久遠……」

 

「か……、あ……」

「あの九尾狐がこの様とは……」

 力なく喘ぐ久遠の正面に、愉快そうに笑う髑髏が降り立った。

 髑髏は卑しく顔を歪め、彼女の巫女服をはだけさせる。彼女の膨らみの乏しい胸と、ほどよく丸みを帯びた腹部が露わになった。

 赤色の顔料を彼女の身体に塗りつけて、その柔肌に術式を描いていく。

「うあっ……」

 触れられる度に身をよじる久遠を、髑髏は嗜虐的に笑いながら弄ぶ。

「さて」

 腹の物を描き終り、髑髏が素早く詠唱する。すると術式が蠢いて、血管のような膨らみを作りながら、久遠の身体を侵食していく。

「まさか天下の九尾狐が! 我が下僕となる日が来ようとは!」

 髑髏は大仰にそう喋りながら、久遠ののど元を指先でなぞった。あられもない姿で顔をしかめる彼女を、舌なめずりする蛇の目で眺める。

「それが意味する事は何か? それは我が神にも匹敵する存在へと! いや! むしろ神そのものへと昇華する事で――」 

「……ようその程度の事で、儂の逆鱗に触れる気になったのう」

 髑髏が長々と垂れた口上を、久遠は一笑に付した。

「なにっ!」

 青筋を立てて激昂した髑髏は、己を嘲笑するようにそう言った久遠の頬を殴りつけ、術式で覆われた腹に蹴りを入れた。

 彼女は激しく咳き込んだが、その鋭い眼光が鈍ることは一切無い。

「貴様の手を出した娘はの、今の儂にとってはただ一つの幸福じゃ」

 その脳裏には200年もの孤独から久遠を救った、いとおしい舞姫の笑顔が浮かぶ。

「じゃが貴様は! 儂のささやかなそれを奪わんとした!」

 惨めにも痛めつけられて、嬲られる様な辱めを受けてもなお、髑髏を睨む久遠の瞳には気高く神々しいまでの光が、

「この身が貴様の手に墜ちようとも! 貴様だけは赦さぬ!」

 どう猛な化生の闘争心が、確かに宿っていた。

「だからどうした! 貴様はもう――」

 髑髏の発言を遮って、舞姫を抱えた女性が、

「久遠様ああああ!」

 やけくそ気味に突っ込んで、剣を髑髏に向かって振り下ろす。

「裏切るか金面よ!」

 髑髏は軽やかにそれを回避し、宙を舞って怪物の頭の位置に着地する。

「舞……、姫……っ」

 息も絶え絶えな舞姫は、久遠の身体を強く抱き占める。

「ええい、儂から離れい! お前まで巻き込む訳にはいかんのじゃ!」

 舞姫の身体までも、術式は浸食し始める。

「いつも……、護って貰ってばっかりだから……」

 怪物が飛ばしてくる巨岩の弾を、女性は結界を張って何とか凌ぐ。だがそれも、あと僅かで限界に達する。

「だから、これは恩返し……、だよ」

 そう言った舞姫は、久遠の唇に口付けをする。

 その瞬間、突っ込んで来た怪物の本体が、三人もろとも踏みつけた。


                  *


『化生の儂に、人の子を育てろというか』

 困惑する九尾狐の腕には、ほとんど生まれたばかりの赤子が抱かれていた。

『はい。このままではこの子は、死んでしまいます』

 どうかお助けを……、と赤子の母親らしき女性は、彼女へそう必死に懇願する。

『してこの赤子は、――っ!』

 気の流れを見た九尾狐は、

『心ノ臓が……、無い……、じゃと?』

 その赤子の心臓が、無くなっている事に気がついた。

『はい。妖に、食われてしまいました』

 確かに普通なら赤子は、このまま死ぬしかなかった。

『そう……、か』

 何も知ること無く消えてしまう、無垢な命を哀れに思った九尾狐は、

『承知した』

 自らの尻尾を1本犠牲にして、赤子の心臓を生み出した。

『これでよい』

『ありがとう、ございます……』

 母親はそう言って、深々と礼をした。

『じゃが、この赤子、儂が傍におらねば半日で死んでしまうぞ』

『はい……』

『お主はよいのか? 我が子の傍で、成長を喜ぶ事もできんのじゃぞ?』

 穏やかに眠る赤子には、半透明な尻尾と耳が顕現している。

『それで良いのですよ……』

 それだけ言うと、母親の姿が消えて無くなってしまった。

『あやつ……、やはり、すでに死んでおったのか』

 九尾狐が抱く赤子はその腕の中で、スヤスヤと心地よさげに眠っていた。

 それから九尾の狐――、「久遠」の、舞姫と名付けられた少女を育てる、悪戦苦闘の日々が始まった。

 

                  *


「この儂を散々コケにしよったな。髑髏よ……」

 轟、という音と共に、岩の怪物は体中から火を吹き、その身が爆ぜて粉微塵になった。

「なん……、だと」

 踏みつぶしたはずの三人は、久遠の結界のおかげで全くの無傷だった。

「さて、どうしてくれようか」

 怒りに燃える久遠は、全盛期の妖艶な美女の姿をしていた。その腕の中には、穏やかに眠る舞姫が抱かれている。

「これが……、九尾の……」

 九本の尻尾から放たれた炎が、髑髏の皮を焼き尽くし、本体の骸骨が露わになる。

「往生せえ」

 業火はそれさえも焼き尽くし、後には何も残らなかった。


 今度は久遠が口付けをすると、彼女の姿は元の幼い姿にもどり、その尻尾も普段通りの一本だけになった。

「なんて日じゃ……」

 目が覚めた舞姫と一緒に、仰向けに倒れ込んで横並びに寝そべる。

「そうだね……、久遠」

 漆黒の空には、一面の星空が広がっている。

「舞姫よ……」

「……何?」

「腹減ったのう……」

「疲れてるから作れないよ……」

 まことか……、と空気の抜けた風船の様な会話をしていると、

「では僭越ながら私が代理を」

 金色の狐面を頭の横に付けた女性が、二人を一緒に抱えてそう言った。

「おお、黄金こがねではないか。二百年ぶりじゃのう」

 気がついて無かったの? と、驚いた舞姫に、おう、と嬉しそうに尻尾を振っている久遠は返事する。

「気持ちはありがたいがのう、普通に帰ると三日ぐらいかかるぞ?」

 はい? と絶望感溢れる顔になる黄金。

「まあ、これ使えばひとっ飛びじゃがな」

 久遠がそう言うと、二、三匹の管狐が集まって変化し、雲の上に乗った牛車が現われた。

「なら早く言ってあげなよ、久遠」

 ちょっとした戯れじゃ、と、久遠は舌を出してニヤリと笑う。

「そうじゃ。舞姫に、言っておかねばならぬ事があるんじゃが……」

 彼女は一転、神妙な面持ちになる。

「あの鳥居、全部壊してしもうたんじゃが……」

 へへへー、と乾いた笑いを浮かべる久遠を、

「……」

 舞姫はジト目で眺める。

 彼女はあの鳥居の紅いトンネルが、大のお気に入りなのであった。

「……この人置いて帰りましょう、黄金さん」

「はい、舞姫様」

 黄金は懇切丁寧に久遠を地面に降ろして、舞姫とともに牛車に乗り込む。 

「ま、待つのじゃああああ!」

 久遠は大慌てで立ち上がり、動き始めた牛車に飛び乗った。

「冗談だよ」

 愛しい二人の顔は、悪戯っぽく微笑んでいた。

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