マイペースな君
花岡 柊
第1話 波 1
そこそこ広いフロアの中は、今日もそこそこの活気にあふれている。二時間ほど前に立ち上げた自席の机にあるパソコン画面には、最近食べた美味しいとんこつラーメンの写真がデデーンと貼られていた。
長浜ラーメンの細麺は、私の好みだ。紅生姜をたっぷり入れて食べれば、それはもう至福の時。机の上にある書類とその画面とを交互に見ては、今日のランチは何にしようかと、食べ物が頭の中をスライド写真のようにシャカシャカと入れ替わる。
「西崎葵ー。これ、外出たついでにポストに頼む」
そんな至福の時間を邪魔する声が、少し先の席から容赦なく届いた。人の名前をあえて大声のフルネームで呼び、こっちに向かって定形外の封筒を掲げているのは、同期で人使いの荒い瀬戸陽平だ。
忙しいのは判るけれど、私が外に出る用事がないのを知っていて、“ついで”なんて頼んでくるちゃっかり者。
しかも、フルネームって恥ずかしいからやめてもらいたい。
課長からは、忙しい瀬戸君のフォローを頼むと言われているけれど、私にだってやらなければいけない仕事はある。これでも入力速度は誰にも負けないと自負しているし、何より間違いがないことには定評があるくらいだ。課長だって、その辺りのことは認めてくれている。
なのに、だ。そんな私の時間を容赦なく奪い、瀬戸君は自分の雑務を頼んでくる。課長の手前無碍に断ることもできず、仕方なく作業していたPC画面を上書きして一旦閉じる。
心の内でべーっと出す舌を隠し、私は笑顔で立ち上がる。すると。
「なるべく早く投函しておいてくれよ」
封筒を受け取りに席まで行った私へ、急ぎと付け足してきた。
なんて、図々しい。
「だったら郵便局まで行って、速達にでもする?」
少しだけ嫌味混じりに訊ねると、わざとらしく腕時計を見てから私の顔を覘き見た。
「イヤ、そこまでしなくてもいいんだけどさ。ほら、昼頃に一度回収に来るんだよ、ここから一番近いポスト」
よくご存知で。
思わず眉がピクリと反応してしまった。
要するに、速達まではいいけれど、昼の回収に間に合うよう今すぐに行けということね。しかも、定形外って。重さ量るの面倒なんですけど。
瀬戸君の席の奥にある書類棚の上には、デジタルスケールが鎮座している。不満顔で私がそれを一瞥すると、さっと立ち上がり「宜しくな」と貼りつけたような笑顔と共に手渡された。
ちっ。重さを量って切手を貼り付けてから言いつけなさいよ。
心の中で盛大に愚痴を吐き出し、こちらも負けじと笑顔を貼りつけ受け取った。
「りょーかい」
嘘くさい笑顔のまま踵を返した瞬間、「よろしくな」とわざわざ耳元に口を近づけ囁きかける。
「ちょっとぉ。やめてよね」
私相手に何を色気づいてるのよ。
言い返すと、どうしてか楽しそうな笑顔を見せている。
どうせなら、瀬戸君ファンの後輩ちゃんたちにしてあげればいいのに。
瀬戸君て、意外ともてるらしいからね。この前も、後輩ちゃんから呼び止められて何やら連絡先を訪ねられてたし。
「もてもてだね」なんてからかったら、「そんなんじゃねーよ」なんて、なんとも不機嫌に返されて肩を竦めたけれど。
瀬戸君の囁き攻撃から逃れて、封筒片手にさっさとフロアを出ると、社内でもクールでいて優しいと人気のある篠田先輩と廊下で逢った。どうやら、午前中の会議が終わって戻ってきたようだ。
今日もパリッとしたスーツ姿が素敵です。
さっきまで瀬戸君をグチグチと思っていた感情があっという間に晴れていき、嬉しさにしまりのないにやけそうな頬の筋肉を引き締めてから篠田先輩に挨拶をした。
「お疲れ様です」
声をかけると、先輩は爽やかな白い歯を見せてくれた。その歯の輝きが余りに眩しすぎて眩暈さえ覚える。
「お疲れ。あれ、もう昼飯か?」
「あ、いえ。近くのポストまでお使いです」
瀬戸君から頼まれた封筒を、胸元まで上げて見せた。
「また瀬戸に頼まれごとか?」
篠田先輩は、おかしそうに口元を緩めた。
その少しだけはにかんだ笑顔も素敵です。
またもにやけそうな頬を宥め透かし、自然なスマイル。
「そうなんです。何かっていうと使われるんです。なんだか召使みたいですよね」
若干不満げに漏らすと、先輩が変なことを言い出した。
「瀬戸は、西崎さんに気があるのかもな」
「えっ!?」
突拍子もない発言に、思わず大きな声が出てしまった。
「それは、ないですっ!!」
そして、全力で否定。
だって、私は先輩が――――。
「篠田先輩、電話ですっ」
篠田先輩と廊下で話していたら、フロアから先輩へとお呼びがかかってしまった。しかも、私と先輩の幸せなひと時を邪魔してくれたのは、俺様態度の瀬戸君だった。
私をこき使うだけじゃ足りずに、憧れの先輩との会話にまで入り込んでくるなんて。
思わず睨みつけたくなったけれど、先輩の前だから我慢、我慢。
そうこうしているうちに、「じゃあ、また」というように、先輩が行ってしまった。
名残惜しむように去り行く背中を見ていたら、「早くポストへ行けよ」とそばにやって来た瀬戸君におでこを小突かれた。
暴力反対!
おでこを押さえながら不満顔を向けてから、プイッと顔を背けると「ヘン顔か?」なんてケタケタ笑っている。
ホント、いつか仕返ししてやる。
会社の入っているビルを出て二〇メートルほど行ったところには、瀬戸君の言う一番近いポストがある。そのポストに貼られている回収時刻を確認してみれば、あと一〇分ほどで本日二度目の回収が来る予定だった。
「ホント、よくチェックしてるよ」
細かい男は嫌われるんだから。
嫌味っぽくこぼしてから頼まれた封筒を投函して踵を返したところで、ランチでよく行くイタリアンカフェの店長さんにばったり逢った。
「こんにちは、木山さん」
声をかけると、私に気づいて笑顔を見せてくれた。手には、たくさんのフランスパンが詰まった袋を提げている。
「お買い物ですか?」
「ええ。いつもは届けてもらうんですが、出かける用事があったのでついでです」
フランスパンの入った袋を少しだけ持ち上げて、木山さんは柔らかな笑みをしてみせる。
同じ“ついで”でも、木山さんの“ついで”は、なんだかかっこいい。ちゃんと仕事として成立しているからだろうか。私の場合は、ただのお使いだもんね。
「西崎さんは、これからどちらかへ?」
「あ、いいえ。ちょっと」
自慢できるような仕事内容ではないので、控えめに応えてみた。
こき使われているだけなので、それ以上は訊かないで下さいという思いを込めて話を変えてみる。
「今日の日替わりはなんですか?」
「今日は、このパンでフレンチトーストと軽めのガーリックでグリルしたチキンです。特製ドレッシングのサラダもつきますよ。いかがですか?」
「いいですねぇ。このまま一緒に行ってランチにしたいところなんですけど、ランチタイムまでまだあるので、後ほど」
美味しそうなランチを想像して、ついにんまり笑顔になる。
そうだ。ランチ写真を撮って、パソコン画面の着せ替えもしよう。そうしよう。
食べる前から美味しそうな料理を頭に思い描き、ウキウキとしてしまう。
「お待ちしています」
木山さんは丁寧な挨拶と営業スマイル、それと香ばしい焼き立てパンの匂いを仄かに残して行ってしまう。
「焼きたてのいい匂い~。それにしても、木山さんとまではいかなくても、瀬戸君にも少しくらい誠実さというか、控えめさがあるといいのに」
有無も言わさず用事を言いつけてくる瀬戸君の顔を思い出してしまえば、ランチにウキウキしていた気持ちがダウンしていく。
恐るべし、パワハラならぬ瀬戸ハラ。
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