クレイズモア奇譚

たまき

クレイズモアの幽霊

 ふと目を覚ますと明かりのない暗い部屋から、女性の泣き声が聞こえた。啜り泣くその声に誘われるまま、わたしは部屋を抜け出した。ひんやりとした空気を纏い、廊下を彷徨い歩く。靄がかかったように、次第に自分がどこを歩いているのかわからなくなる。ふわふわと、足が宙を歩いているようだった。そして、わたしは――



「そんなこと、本当にあるのかしら」

 ニコラが、近ごろクレイズモアで噂になっている幽霊の話をおどろおどろしく話をしていると、聞き手に徹していたセルマが口を挟む。眼鏡越しにニコラを見つめる瞳が疑いの色を孕んでいた。

「確かに、半分は噂が誇張されているとは思うけれど、女性の泣き声が聞こえるのは本当よ」

 自身が疑われていることに頬を膨らませながら、ニコラは答える。赤い色が混ざる茶色の髪をくるくると指先で弄る。彼女が緊張している時の癖だった。

「ニコラもその声を聞いたの?」

 寄宿学校であるクレイズモアにいくつかあるハウス。その中で二人が生活する寮の談話室にいた。夕食には少し早い時間、他の生徒の姿はまばらで少し騒いでも上級生に睨まれることもない。丸テーブルに本と紅茶、お菓子を並べて、二人は思い思いの時間を楽しんでいた。ふとニコラが思い出したように、夜に聞こえる女性の泣き声の話をはじめる。


 ニコラはセルマの問いに身を乗り出し、声を潜める。

「ううん、アイヴァンが聞いたの」

 セルマは、ニコラとよく一緒にいる幼馴染だという黒髪の寮生ハウスメイトを思い出した。そのような嘘をついて、ニコラの気をひくようなタイプの人間のようには見えない。幽霊かどうかは別としても、泣き声を聞いたのは本当のことのように思えた。彼女は、ニコラの話を半分聞き流していた。

「アイヴァンが言うなら、本当に聞いたのね。早く、そういう話は消えてなくなると良いけれど」

「セルマは、そういうこと苦手だものね」

 両親から送られてきたお菓子をつまみ上げながら、ニコラが楽しそうに笑う。しかし、セルマの方は聞かなかったことにするように、読みかけの本で壁を作るようにテーブルに立てる。猫のように背中を曲げて、顔を伏せるように座るニコラの顔が見えなくなる。

 聞きたくないものは聞かないようにするのが、一番だとセルマは思っていた。くだらない噂話はすぐに消えるものだとも。しかし、いつまでもその噂は途切れることはなく、クレイズモアの幽霊として話が広がっていく。

 そして、数日後、ニコラは謎の失踪を遂げた。


「ニコラ、どこか知らない?」

 図書館で授業で提出するレポートを書いていると、無愛想な声をかけられる。聞き覚えのある声と名前に顔を上げると、アイヴァンが疲れきった黒い瞳でセルマを見ていた。

「体調を崩していると聞いたけど、部屋にはいないの?」

 数日、体調を崩していて学校を休んでいるという話を先生からセルマは聞いていた。その問いにアイヴァンは表情を曇らせて首を振る。

「そういうことになっているけど、本当は違う。行方不明なんだ。ニコラと仲が良いからもしかしたらと思ったんだけど」

 セルマは身体の中を重たい石が落ちていったように、ずんと衝撃を受けた。まだ続くようなら、様子を見に行こうと思ってはいたが、その程度の認識しか持っていなかった。レポートを書いていたペンを置くと、アイヴァンの方へと向き直る。

「クレイズモアの幽霊」

 思わず転げ出たその単語にアイヴァンは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。そんな顔をすることもあるのだと、セルマは窓枠の向こう側の人を見るようにふと思った。

「本当に女性の泣き声を聞いたの?」

 彼は周りの目を気にするような仕草をしながら、そうだと小さく頷いてみせる。そして、小声で窓の外から聞こえてきたのだと付け加える。

「その夜は眠れなくて、ベッドの上でぼんやりとしていた。そのうち、眠気が襲ってきて、半分眠ったような状態になった時、泣き声が聞こえてきた。おかしいとは思ったけど、そのまま寝てしまって」

 きちんと、確認しておけばこういうことにはならなかったかもしれないと、アイヴァンは後悔してもしきれない。ニコラは彼にとって、幼馴染でもあったし、妹のような存在。家族ぐるみで付き合いのあった彼らには、名前の付けられない関係があった。

「他に、ニコラのことは誰かに話した?」

 話すことに疲れてしまったように、彼はうなだれたまま首を振る。

「ねえ、探偵のところに行ってみましょう」

 彼女はクレイズモア校に伝わる、探偵の話を思い出す。いつからあるのか分からないその役割は、代々生徒の間で受け継がれていく。何かあれば、探偵と相談してみたら良いと同じ寮の上級生に言われた台詞が蘇った。今がその困った出来事には間違いがない。


***


 校舎の中で一番高い塔の一番上の部屋。そこに、探偵はいる。

窓から外を眺めていた、小麦色の髪をした人が部屋の中の椅子に小さくなって座るセルマとその隣に立つアイヴァンに視線を向けた。昼の日差しが窓から差し込み、髪を透かして通り抜けていく。綺麗な色だとセルマは思った。

「お話は分かりました。クレイズモアの幽霊の謎と、ニコラを見つけ出すことが依頼の内容ということですか」

 皺のない制服を着こなしたその人は、二人に対してアンガスと名乗った。輝く金のボタンと赤いベスト。その格好から上級生であることと監督生や選ばれた学徒と同じことが彼らにも分かった。

「いいえ、ニコラを見つけてもらえれば、それで……」

 にこりともせず、淡々と告げるアイヴァンに対してもアンガスは和かに分かりました、と頷く。もっと、怖い人が現れるのかと思っていたセルマは人当たりの良さそうなその雰囲気に拍子抜けしてしまった。

「調べてみましょう。その代わり、私のことは内密に」

 黙って頷く二人に対して、ありがとうと彼は丁寧にお辞儀をして返した。


 月のない、星の綺麗な夜だった。

 学校すべてが寝静まった後、アンガスは寮の自室から抜け出す。監督生と同じ待遇をもらえる彼は一人部屋なこともあり、夜でも簡単に部屋を抜け出すことができる。探偵であることを知っている寮長ハウスマスタ―も黙って見逃してくれていた。

 夜になると冷え込む空気の中、校章の入ったコートを羽織り、襟を立てて校内を進む。歩くたびに石畳に靴音が響いた。静かな夜には小さな物音が大きく聞こえる。ふと、彼は立ち止ると、小さく震えた。

「幽霊と、ニコラの失踪が関係あるのかは分からないが」

 呟くと、空を見上げる。時折感じる、何かが通り過ぎて行く気配が恐らく幽霊と呼ばれる存在のものなのだろうということは、昼間の話を聞いてすぐに思い当たった。アンガスは幼少のころから、妖精や精霊という存在に聡い。人と交わることが滅多にない彼らの存在を常に感じていた。だからこそ、先代の探偵は彼にその役目を任せた。

「来たね」

 空の上を黒い影が駆けていく。黒いドレスを風に靡かせて、彼女は上へ上へと見えない階段を登っていく。そして、ある程度まで登ると、階段踏み外したようにふわりと落ちていく。それを何度も何度も繰り返した。

 アンガスがその様子を静かに見守っていると、彼女が何かに気がついたように彼を見下ろした。ふわりと彼の近くに降り立つ。まるで重さなど感じさせない優雅な動きだった。

「はじめまして、ニコラ」

 赤茶色の髪をシニヨンにまとめた少女が微笑む。

「ニコラはこの身体の娘の名前」

 セルマとアイヴァンから聞いていたニコラの容姿と同じ少女。しかし、アンガスと話をしているのは別の人物だった。

「では、あなたは?」

 そうねえ、と考えるこむように呟くと、彼女はそのまま黙り込んでこんでしまう。そして、突然再び、遠い目をすると空へと戻っていこうとする。身体が宙に浮かみきる前に、アンガスは慌てて、手首を掴み呼び止めた。

「待って」

「なぜ、君は泣いている?」

 振り向いた彼女が、小首を傾げ、空を見上げた。何がそこに待っているのか、彼女自身も分かっていないように。不思議そうな表情を浮かべていた。もう一度、石畳に足を付けるとアンガスに向き直る。その様子に、彼は安心したように手を放した。

「あの向こうに、大切な人が待っている。けれど」

 彼女の視線のその闇の向こうに、山が広がっている。今は見えないその形を、彼らは知っている。そこから視線を戻し、アンガスの方を見つめた。まっすぐ見つめる視線がアンガスを貫く。

「けれど?」

「けれど、彼の元には辿り着けないの。遠すぎて。何度も繰り返して、繰り返して、そして落ちてしまう」

 悲しそうに彼女は微笑む。ね、とアンガスに相槌を求めた。しかし、アンガスは何も言えない。しかし、彼にはまだ聞きたいことがあった。

「それでニコラの身体を借りて?」

「そう、彼女は私に気がついてくれた。そして、私にこの身体を貸してくれた。もう少し、もう少しでそこまで届きそうなんだもの」

 伸ばされた指先が宙をきる。何もない夜の空気をかき集めるように彼女はその手を握りしめた。その姿をアンガスは寂しさと共に見つめていた。

「精霊は、人の眠りついた先に辿り着くことはできない」

 本を読み上げるように固い声色で彼は呟く。静けさが二人の間に横たわっていた。

「だから、ニコラの身体を借りた。もしかしたら、人の姿であれば辿り着けるかもしれないから」

 続ける言葉に、ニコラの中の彼女が耳を塞ぎ、何も聞きたくないと首を振る。そんなこと、分かっている。ただ、彼女は認めたくないだけで。

「ニコラの身体を返してくれないか。彼女のことも、待っている人がいる。その代わり、彼とまた出会うまで僕たちと一緒に不思議な事件の謎を解き続ければ良い。もしかしたらいつの日か、辿り着けるかもしれない」

 彼は彼女に手を差し伸べる。クレイズモアの幽霊を救う方法を、彼は知らない。もしかしたら、この先の未来で彼女の辿り着きたい場所への道のりが見つかるかもしれない。固い表情をしていた彼女の頬が少し緩んだことが、アンガスにも分かった。

「いいわ。寂しくなることもなさそうだから」

 彼女はその手をを取り、急に視点が合わなくなったような表情をすると、そのまま身体が崩れ落ちた。咄嗟に彼が手を出し、彼女の身体を引き寄せる。夜の空気に晒された彼女の身体は冷たい。ニコラの身体を抱えた彼は膝をついた。この寒い中で肩を出したドレスを身に纏っていた彼女の身体が冷えているのは当然だった。アンガスはコートを脱ぐと、ニコラの肩に掛け、少しでも温まるように抱きしめた。

「私はキティ。約束する、その時までここにいると」

 にゃあと、猫の声が聞こえると、そのまま人の声へと切り替わる。ニコラの足元に黒い猫が座っていた。にゃあと、もう一度鳴く。アンガスはその気配から先ほどまでニコラの身体を借りていた主と同一の存在であることを感じた。

「アンガス。この学校で探偵をしている」

 探偵と聞いて、キティは面白そうに尻尾を振った。


***


「ありがとうございました」

 ニコラとセルマが頭を下げる。目を覚ましたニコラは大切なことを全て忘れ、何があったのかも夢の中の出来事のようにぼんやりとした形しか思い出せないのだと言う。精霊に関わるとよくある事なので、アンガスも彼女の様子を見た医者も気にすることはなかった。ニコラも、もうすぐ学校に復帰する。

「無事で良かった」

 その言葉に、寝ていたはずのキティが反応して小さく鳴いた。その声に誘われるままに、彼女たちが猫の存在に気がつく。彼女たちに撫でられるのを気持ち良さそうにしている様子のキティを、アンガスは笑いながら見つめていた。

 探偵と、その相棒の猫のキティの関係は、思いがけず長い付き合いへと変わることを、彼らはまだ気がついていなかったし、気がついていても、口に出すことはしなかった。

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