第9話
再びまぶたを開けたときには、外は夕暮れに染まり、時計も、あっという間に半周ほどしていた。
居なかったはずの母は台所に立ち、弟が階上の自室でゲームをしている音が微かに聞こえる。
「やっと起きたの? もう、皺になるから制服のまま寝ないでよ」
「ああ、ごめん」
言葉を受け、未だ浮遊感に苛まれる身体を無理に起こし、服を着替える。しばらくは、お別れだ。
七時を回ったころに父が帰宅し、彼がシャワーを浴びている間に、母の料理を手伝った。ほとんどはすでに仕上げ段階で、手伝うとは名ばかりの、給仕のような役回りだった。
ご飯を食べ終え、シャワーを済まし、自室に戻った時には九時近かった。テレビをつけ合間のニュースを見る。死ぬだとか、殺されるといったことがいかに自分とかけ離れたものなのかを、再認識する。
バラエティが始まり、時折笑い声を立てながらも、幾度となく時計に視線が向いてしまうのを止められなかった。十一時半、九つほど上った先にある桜野町の御心橋というところで、木村雪乃は誰かと会う。そして会話をし、最終的に、突き落とされる。
刻々とその時刻に近付いていっても、未だ真実味を帯びてきたりはしない。修学旅行で同じ班になっただけ、クラスメイトとは言えそれほど話をする相手ではなく、こういう冗談を言う人間なのかどうかも、判然としない。ただ、冗談だとして、今後一切会わないかもしれない人間に吹っ掛けて、面白いのだろうか。そう考えると、ますます混乱してくる。
しかし、そうして悩んでいる間に、十一時を迎え、十五分になり、桜野町へ向かう電車がなくなった。地続きなのだから当たり前に行けないことはないが、歩いたとしても日を跨ぐのは必至で、下手をすれば朝日さえ迎えるだろう。つまり、無駄だ。車を出してもらうほど重要かと言えば、まだ何もことは起きておらず、ただの迷惑にもなりかねない。そもそも車だとしても、九つも先となると十五分では無理がある。
テレビは依然点けたままで、若手芸人が一発ギャグを強いられ、失笑を買っていた。全く、面白くもなかったし、面白くないことに対して笑いも起きない。
半になった。テレビを消す。しん、という音が耳を貫く。遅れて、虫の合唱が外から微かに聞こえる。エアコンの稼動音。階下での両親の会話。通話をしているのだろうか、弟の低い声音が壁越しに漏れている。
こんなことになるのであれば、修学旅行の際にでも、木村雪乃の連絡先を聞いておけばよかった。生きていようと死んでしまおうとこの先彼女に会うことはまずない。毎日血眼になってニュースを見ても、このような小さな町の小さな死が、大々的に取り扱われる保障はなかった。それでなくても毎日誰かは死んでしまっている。伝えるべき情報は氾濫するほどある。
うやむやのまま、終わるのだろうか。
スマートフォンのバイブレーションで、使い古したベッドのスプリングが唸った。
手にとって見ると、浅羽幸弘からであった。
「やばいへいきなでんわ」
急いで送信してきたのか、変換はされていなかった。恐らく「やばい、平気なら電話くれ」であろう。
そのとき、胸に打撃を受けたような、鈍い痛みが広がった。急激に血流を意識し、手先が震えるのを認知した。何を予測し、なぜ身体に変化が起きたのかは、考えるまでもない。
彼女の言った十一時半からは、すでに二十五分過ぎている。人ひとり死ぬには、十分な時間だろう。
「どうした?」繋がるなり、言葉を放った自分に、驚いた。慌てて冷静を装い、「何?」
「優? やべえよ、聞いたか?」
「何が?」
彼の齎す台詞は、欲しかったはずなのに、欲しくなかったものだった。
「木村さん、死んだらしい。今松田から連絡入ってさ、ほら、あいつ早々に浮かれてはしゃぐタイプじゃん、友達と歩いてたら目の前の橋で騒ぎがあるのを見つけて、野次馬根性で見に行ったら、あの、ほら」
浅羽は全く自分にしか理解できない文脈で、興奮を顕に先を続けた。
しかし、ほとんどの言葉は耳には入るものの、頭までは届かなかった。届いたとしても、理解が及ばない。
木村雪乃が死んだ。
自身で予告していた通り。
時計が、十二時を指し示す。
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