3.森の守人

 青年は夢を見た。

 人の手に抱かれる夢だった。温かい体温ときれいな寝具に包まれて、小さな自分は眠っていた。そこはとてもまぶしくて、その人の顔はうかがえない。

「母さん」

 無意識に言葉が口から滑り出た。

 ただひたすらにあったかい。その手は母さんの手だと、彼は不思議と確信していた。

「かあさ――」

 意識が夢を振り払う。目が覚めたら、そこはいつもの森であった。冷ややかで日の当たらない森の中で、守人はぶるっと身を震わせた。

「どうしたの」

 傍らには狼が寄り添っている。あったかくて、とても柔らかい毛並みが肌をくすぐる。夢で感じたぬくもりは狼だったのかと思うが、すぐに思い直す。あの手は違う。全身を柔らかく抱きとめられたあの感触は、違う。

「夢を見たんだ」

 狼は「あっそう」と興味をなくす。

 なんだかとても懐かしいような気がした。だが、現実は目の前に狼がいるだけ。狼こそが自分の母親なのだと、彼は知っている。だとしたら、あの夢はいったいなんだったのだろうか。

 おかしな夢を見たものだ。



 静かな森は全てを飲みつくして、包み込んでいる。彼らはその中で生かされているのだと感じざるを得ない。今日も狼とともに森を歩く。森の調和を守るために。森は草や木々の芽を生やし、それを小動物が食べ、大きな動物がそれを食べる。大きな動物が死に至った後、その体は土へ還り、そこから再び草木が萌える。世界は循環している。

 遠くを鹿の親子が横切っていく。

「鹿の子供もだいぶ大きくなった。鹿が増えすぎているのかもしれない。いや――大山猫が減っているのか」

 先日のような出来事もあった。気を引き締めなくてはいけない。

 狼が嬉しそうに笑う。

「守人の仕事もだいぶ板についてきたようね」

「いやでも覚えるさ」

 いつから狼とともにいたのだろう。物心ついたころから狼とともにいて、彼女は「私が貴方の母親よ」と言った。そしてこうも言った。「あなたは守人なのよ」と。あなたに守人としての何もかもを教えてあげる、と――。

 男はそれを信じた。そして守人としてのひとつひとつを学んでいった。獲物の狩り方。共生について。森は一つ一つの生き物が関わり合い、生きている。減りすぎた種は保護し、増えすぎた種は間引きしなければならない。

 今はこうして守人として森を守っていく。今までも、そしてこれからも。

 ただそれだけが男の存在理由だった。


 鹿の子供は無警戒に草を食んでいる。大人は時折周囲を見渡し、耳をぱたぱたさせている。

 ぎりぎりと弓を絞ると、遠くから鈴の音が聞こえてきた。男は内心舌打ちをして、弓を下げる。

「彼らがやってきた、か」

 そのつぶやきに反応するように、狼はそっと誘導する。こっちよ、と言わんばかりに。守人はそれに従い、鈴の音から離れていく。

 聖域の者、と守人は呼んでいる。鈴が聞こえたら近づいてはならない。彼らの姿を見てはいけない。彼らに見つかってはならない――と、狼からきつく言い含められていた。それが守人としての掟なのだと。

 一体どういうことなのか、男にはわからない。

 しかし、彼らを守るのが守人の仕事だと、そう聞いていた。それだけだった。

 森の中心部にある聖域。高い木々に覆われて、森の中は日の光の恩恵をあまり受けられない。しかし聖域は違う、と聞く。そこは明るく開けていて、聖域の者がそこで暮らしているのだと狼は言う。

 鈴の音が遠ざかっていく。

 しばらく男はそこに立っていた。

「何してるの」

 剣呑な声とともに軽快な足音がやってくる。男は振り向きもせずに言う。

「ああ。あっち側には何があるのかと考えていたところだ」

「またその話? いい、聖域には近づいちゃいけないの。そこに住む人たちの姿も見てはいけない。それは」

「『守人の掟』だから、だろ。その一辺倒な話も聞き飽きた。それに、何があるか想像するぐらい自由だろう」

 狼はため息をついた。

「わからないわ。そんな無駄なことをして何になるのかしら」

 そう言われると、男にもわからなかった。



 あくる朝、傍らについているはずの狼がいないことに気がついた。彼女は時々何も言わずにいなくなる。それも眠っている間、こっそりと。ばれていないつもりなのだろうが、彼はとっくに気づいていた。

 身支度をしていると、程なくして狼がいそいそと戻ってきた。

「どこに行っていたんだ」

 狼は言葉を濁した。

「なあ。俺には何も教えてくれないのは、どうしてなんだ。少しは――」

「何?」

 男はそれ以上、言葉を続けられなかった。

 狼の凍てつく瞳が、全てをさえぎってしまったのだ。あんたの都合なんて知らない。構っている暇なんてない。彼女の瞳は、そう物語っていた。

 少しは――信用してくれても、いいじゃないか。

 その言葉が心の中で、いつまでもくすぶり続けていた。


 その後は会話がめっきりと減った。いつも饒舌なほうではないが、要するにすねていたのだ。

 狼がその変化を察したように優しく言う。

「私には私の使命というものがあるの。あなたと同じように」

「そうか」

 会話はそれっきりだった。その使命がどのようなものか、教えてくれるつもりはないようだった。

 その夜、男はひっそりと目覚めた。

 狼はよく寝ている。夢を見ているのか、時折体がぴくり、と反応する。

 昼間、狼はどこに行っていたのか。探ることは出来ないだろうか。こっそりと後をつけてみようか。そんなことばかりを考えていた。

 木々からもれてくる月の明かりが彼の瞳を刺激して、眠れそうになかった。

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