誘拐犯、佐藤宏平
10 色欲
暗い部屋の中に蝿の羽音と少女の寝息が反響している。交差する微音たち。どちらもとても小さな音という意味では共通しているが、質的には全く異なっている。蝿の羽音が雑音であるなら、少女の寝息は音楽と言ってもいい。甘美な音色の透き通った響きが、緩やかに僕の鼓膜を振動させた。
僕は少女の寝息に耳を澄ましながら、眠れぬ夜を過ごしていた。
眠れるはずもない。隣には天使のような少女が寝ていて、わずか三センチほどの空間を挟んではいるが、彼女の体温が伝わってくるのだから、興奮と言うか感激と言うか、心臓がバクバクと高鳴って、意識はどこまでも冴え渡っていく。
僕の家の安物のシャンプーの匂いが、少女の髪から香ってくる。フローラルの香りと言う甘ったるいだけの、むしろ不快な臭いのシャンプー。それが少女と言う媒体を経ることで、こうも芳しい匂いに変わるものなのだろうか? その匂いに鼻腔をくすぐられると、まるで天国にいるように、とろりと夢心地になってくる。
僕の長い夜は続く。蝿はやがて静かになり眠りに就いたようだが、僕の意識は一向に薄れない。それどころか、濃密な女の匂いに、僕はますます覚醒していく。
引きこもっていても、ニートでも、ゲームの世界に棲んでいても、僕はやっぱり生身の人間で、だからどうやら彼女に欲情しているらしかった。
だが、僕は彼女に触れる事すらしなかった。天使のような彼女に触れるには、僕は
ああ、美しい君よ。
僕は柄にも無く詩人のような心境になった。人糞尿製造業者から詩人へと昇格した瞬間であった。僕の意識は崇高な領域へと一気に押し上げられた。ところが、そこに高揚感は無かった。僕の意識が天に上る一方で、僕という存在は深い深い闇へと突き落とされた。僕の生きてきた全ての人生を、詩人としての僕が振り返りだしたのだ。そして、そこには絶望や後悔といったマイナスの感情しか存在しなかった。高校を中退した後悔。大学にもいけず、社会にも出ていない。俗世に属せないという絶望。それから、この先の未来に、彼女のような美しいものに触れる機会すらないのだろうという確信。そんなネガティブが僕を飲み込み、支配した。
ゲームの世界で僕はヒーローになれた。モンスターを倒し、ドラゴンを狩り、釣りを楽しみ、球技をし、ありとあらゆることを体験してきた。しかし、詩人の僕はそれを否定する。お前はただの虚構の中に生きているのだと嘲り笑う。
ああ、なんと無価値な人生だろう。詩人はそう嘆き、そして、隣の少女に目を向けた。おお、これは。これこそが、僕の人生の中で唯一価値があるものだ。詩人は少女をみて感嘆した。
少女を賛美する事だけが、僕の生る価値だった。あるいは彼女を賛美している間だけ、僕の存在に価値が生まれた。もしもいま、彼女の首に手を当て、そっと絞め殺して、その隣で僕も死ぬ事が許されるのならば。ああ、なんと素晴らしいことだろう。けれど、そんな願望は叶わない。僕が触れれば彼女もまた
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