第83話

10月19日午前7時58分、しぶとく動き続けるデジタル時計はそう表示していた。この地獄が始まってから17ヶ月、半年後には破滅を迎える事になる。あの後結城は首を吊って自らを死に追い込み、残された2人は研究を続けるものの未だ模索の段階、いわばスタート地点に立ってすらいない進行度である。そのような状況下、研究所内で行われていた食物連鎖に亀裂が入ったのは、もう1人をヤケにさせるには十分な事態だった。

アーコロジーという言葉がある、これは主に人間が高密度で居住する施設を意味するが、最も狭義には”内部のみで資源生産、消費の循環が自己完結している建造物”を指す。すなわちひとつの建物内部で植物を育て、草食動物、肉食動物と栄養が回り、それらすべての死骸と排泄物がまた植物の養分となるのだ。外部からの資源補給、支援を必要としないため、このアーコロジー施設は仮に自分以外のすべてが滅んだとしても変わらず生活を続ける事ができる。外に出る事ができない以上、この研究所はアーコロジーを確立せざるを得なかった、のだが。


「……要するに、1人ずつ死に際を見させられるのですね」


世界が反転を終えた後、アリシアは壁に埋め込まれた焼却炉の前に立っていた。焼却炉といっても貴重な酸素を湯水のように使う火は用いず、発電用原子炉が発する膨大な熱を導き、炭化させずに殺菌のみを行うものだ。これ以外に選択肢が無かったとはいえ、大方の予想通り菌が消える代わりに放射線が付いており、その点は彼らに最後の破滅をもたらす事になる。

中で加熱されているのは動物の死骸、狂犬病を発症してしまった個体である。この病気は犬やコウモリなどを感染源とし、感染手段は唾液、特に噛まれた場合が最も危険度が高い。潜伏期間は脳からどれだけ離れた場所を噛まれたかで決まり、感染から発症まで最大で2年かかったという記録がある。閉じ込められる前に感染済みの個体を仕入れてしまった可能性はゼロではないとしても、どうしてそんな最悪のタイミングでそんな事が起きたのか、そして17ヶ月も地獄に耐えて生きながらえたこのタイミングでどうして発症してしまったのか。

むしろこれがもっと早ければ、彼らの苦しみも軽減されただろうに。

とにかくこれでアーコロジーの根幹を成す施設内で完結した食物連鎖はその環を崩された。もはや立て直す手段は無い、連鎖の一箇所が失われればそう間を置かず他も崩れ落ちてしまう。もっとも、備蓄が尽きる前に誰もいなくなってしまうのだが。


加熱完了を見届け、扉を開放し真っ白となった犬肉を取り出した。それは植物の肥料にするべく発酵器に投入、次の発症済み死骸を出してきて焼却炉へ。が、スタートボタンを押す前に、壁のフックと首輪をリードで繋がれたまだ生きている動物が視界に映った。

茶色く短い毛並みと比較的小型の体、巻かれた尻尾をしきりに振り、甘えるような声で鳴いている。この柴犬は閉じ込められてから生まれた個体であり、外の世界を見た事が無く、そしてこれからもそれは叶わない。ここから生きて、とは少し違うが、脱出できたのはアリシアのみ、ペットとて例外ではない。特にこの柴犬は狂犬病を発症した後、アリシア自身の手にかかる事になる。


「…………」


特に何か思考を巡らせた訳でなく、かといってその行動に疑問も浮かばず、正に気付いた時には両膝を床についてそれを抱きしめていた。目を閉じ、肌に触れる柔らかな毛並みを感じる事しばらく。犬は人の感情を察するという、あいにくアリシアは人ではないが、それでもまったく暴れず、慰めるかのように鳴き続ける。

これは何もかも幻、バイザータイプのディスプレイで両目を塞いでホームビデオを流しているのと何ら変わりない。意味は無いし、それでも何かしようとした所先程の行動もまったくの無駄に終わった。理解している筈なのに、その無駄な行為に少しばかりでも意義を見出さなければ何かが壊れてしまう気がする。それに重大なものをここ以外の場所に置いてきた、という漠然とした感覚も手伝って焦りを生んでいく。感情を理由に行動するなど、これではまるで人間だ。


「……ごめんなさい」


明らかに力を入れ過ぎた、苦しかっただろう柴犬をようやく離し、アリシアは立ち上がった。今の自分は感情に支配されている、それに気付いてしまったが、むしろ何か楽になった。


意味は無い、それがどうしたと。


狂犬病に侵された死骸を放置し、焼却炉と複数のケージがあるその部屋から出て廊下へ。すぐ右には研究室に繋がる扉、左の先には外へ繋がる勝手口。


「ワイズマン」


今まさにそれを開けようとしていた金髪の男は突然現れたアリシアに驚いて振り返り、それから風邪を引いたように赤い顔を歪ませる。彼はこの時点で狂犬病の初期症状に酷似した症状を出しており、状況から察して間違いなく既に発症している。間も無く水を飲むと激痛が走る恐水症状、同じく風に吹かれただけで触覚が過剰反応する恐風症状、及び神経系が破壊されていく事による異常興奮、精神錯乱が始まり、最終的に脳神経まで破壊が進んで全身麻痺、呼吸障害を起こし死に至る。狂犬病は感染症全体で見ても最も有名な部類に入り、年間の発症者もかなり多い。そのため治療法が確立した病気と思われる事もあるのだが、既に発症してしまった患者を確実に助ける方法は今に至るまで発見されていない。発症してしまったら待っているのは死のみである。すなわちワクチンすら無く、生存率が10パーセントも無いような最新の治療でさえ夢のまた夢であるこの状況で、彼を助ける事はできない。


「何故…!」


「やめてください、あなたが出ていった所で何も変わりません」


だからこそ、と言うべきだろうか、どうせ死ぬなら少しでも有意義に命を使いたい、ここを出た後毒の霧の中をひた走り、体を溶かされながら霧の発生源を探そうとするが、仮に見つけたとしても、息絶える前に戻ってくるなど不可能だ。待っているのはまったくの無駄死に、たった1人の目撃者にその姿を焼き付ける以外に何ら成すものは無い。


「何を言ってやがる…機械風情が……」


「機械で結構、ですが私はその気になればあなたを力ずくで組み伏せる事ができます、お忘れなく」


たった数日、それも神経破壊に苦しみながら生き長らえてどうするというのか、死んだ方がマシという状況は残念ながらどうしても存在する。何度も言うがこんな事をしてもあらゆる意味で無意味である、だから理屈など今は捨て置く。

止めたかったから止めた、それだけだ。


「そこを開けたら生きていられるのは5分間、まず全身の皮膚を剥ぎ取られ、筋肉まで侵食が進めば物理的に動けなくなるでしょう。脳が機能を停止するまで徐々に体を溶かされ続けるなど、間違いなく狂犬病以上の苦痛です」


「そんな事どうだっていいんだよ!頭がイカれて壊れてくなんざまっぴらだ!自分の死に方は自分で決める!当然だろうが!」


「それには同意しますが、残される方にも言い分はあります」


「ああ!?俺がいなくなったらどうなるってんだよ!」


「悲しみます、知っているでしょう?」


「ぐ……!」


どうでもいい、と言われる筈だったが、

予想に反して、彼は言葉を詰まらせてくれた。


「ここにいてください、少しくらいなら苦痛も和らげられます。この壁の向こう、私の認知しない場所で溶けて消えたいなど、そんな事は言わないでください」


1歩前へ出て、手を伸ばす。


「……いや、だからこそだ」


だがそれが、彼に届く事はなく。


「離れろ!」


あと少しという所でアリシアの体は突き飛ばされ


「待……!」


その扉は予定の通り開け放たれた。

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