116.憤怒-Wrath-

1991年6月10日(月)PM:12:10 中央区米里行啓通


 木々の葉っぱ達が、風に揺られている。

 その中を、普段通り歩み行く人々。

 平和そのものの光景。


 だが、その側の小学校。

 その中の教室の一つ。

 少年少女達に、確実にトラウマを残す。

 そんな状況に陥りつつあった。


 血塗れの担任。

 いまだ倒れたままだ。

 最初の第一陣。

 その後は、大人達は誰も来なかった。

 この教室に、人が来る気配はない。


「舞花様から離れろ、この獣め」


 同じクラスの少年の一人が踊りかかる。

 だがしかし、その拳が当たる事はもなかった。

 クサバが無造作に振り上げた拳に弾かれる。


 彼はそのまま壁に激突。

 机の一つに落ちて呻いた。

 衝撃に気を失ってはいるようだ。

 しかし、外傷は特ないようで、安堵した夕凪 舞花(ユウナギ マイカ)。


「雑魚が。そう言えば万里江つったか? 舞花御嬢様」


 いやらしく長い口を歪ませているクサーヴァー・ブルーメンタール。

 更に嫌悪感が一気に上昇した舞花。

 挫けそうな心を奮い立たせて相対する。


「まり姉がなんですか?」


「今頃、俺以上の幼女趣味の相棒に、玩具にされてる頃だと思ってな」


「玩具?」


「おっと、さすがに大人な会話過ぎたか。まあ、今からお前も、俺に同じ事をされるわけだから、身を持って知る事が出来るけどな」


 更に下劣な顔つきになるクサバ。


「まり姉はとても強い人です。あなたみたいな狼になんて負けません」


「ああん? 怖くて怖くて今にも泣き出しそうで、どうしようもないくせに、言ってくれるじゃないか」


「・・・事実です」


「ほう? そこまで信頼してるのかいね?」


「してます。まり姉は負けません。きっとここにも来てくれます」


「そうかいそこまで言うかい。それじゃあ俺と一つ賭けをしようじゃないか」


「か・・・賭け?」


 クサバの予想外の申し出。

 舞花は混乱してきた。


「そうだ。賭けだ。賭けを受けるなら、勝敗が決するまでは、賭けの内容に該当する事以外は手は出さないでやる。まあ、もちろん挑んでくる奴は叩きのめすが、殺さないでやる」


「・・・わかりました。それでどんな賭けですか?」


「簡単な事だ。賭ける者はお互いの爪だ。今から五分毎に、まり姉だかが到着しているかどうかを賭ける。到着していれば俺の爪を剥ぐ。到着していなければお前の爪を剥ぐ。爪を剥ぐ時に、俺が悲鳴をあげた場合、俺は自分の指を。おまえが悲鳴をあげた場合は、五分間このクラスの女生徒を一人、俺が自由にするって感じだ。もし手足二十本の爪をおまえが失う前に、彼女がここに現れれば賭けは俺の負けだ。何もせずこの場を去るぜ」


 余りの賭けの内容に絶句する舞花。

 しかし、賭けを受けなかった場合。

こ  の男は何をするかわからない。


 舞花も含め、今この小学校にいる人間。

 誰にも、彼を止める事は出来ないだろう。

 結局の所、舞花には逃げ道は無い。

 賭けを受けるしか選択はないのだ。


 舞花はここで、一つ失念している。

 クサバの爪を自分では剥ぐ事が出来ない。

 しかし、そこに気付く余裕は既に無かった。


「どーした? 信頼してるんだろうよ? まり姉さんをよ」


 十一歳の少女である舞花。

 彼女には非常に残酷な選択だ。

 瀬賀澤 万里江(セガサワ マリエ)の高校。

 そこからここまでは、徒歩ならば十分以上かかる。


 直ぐに向っていた。

 だとしても、ここに到着するには、五分はかかるだろう。

 最低でも爪を一本は犠牲にしなければならない。


 その爪が剥がされる痛み。

 自分自身が耐え切れるのか、彼女には自信がなかった。


「さーん・にーい・いーち」


 しかし、考える余裕は与えられなかった。


「さて、答えてもらおう。賭けを受けるか受けないか?」


 この時程、自分の無力差を呪った事などなかった。

 教室から逃げる事も、対抗して戦う術もない舞花。

 既に選ぶべき選択肢は一つしか無い。


「・・・受けます」


「ほほう。爪剥ぎの痛みに、何処まで耐えられるか楽しみだな」


 舞花は何とか、睨み続けている。

 対して余裕の表情で欲望塗れの顔のクサバ。


「さて、舞花以外のおまえら。気絶してるのもいるがまあいいか。余計な事をしなきゃ、何もしねえから黙ってみてろ」


 机に落下した少年。

 クサバの姿を見て気を失った数名。

 彼等彼女等が介抱されている中のその言葉。

 少年少女達は、恐怖と驚愕の余り頷くしかなかった。


 クサバは血塗れで倒れている担任の前に屈んだ。

 その顔を彼女の耳元に近づかせる。

 まるで聞かせるように呟いた。


「もっとも、俺の欲情が限界に来たら、賭けに関係なく襲い掛かるんだけどな」


 血の匂いと静寂が支配する教室。


「この時計で五分後が一回目の判定だな」


「あ・・・あの・・」


 恐怖で萎縮してしまいそうな心。

 何とか言葉を紡ごうとする舞花。


「ああ? なんだ?」


 意識しているのか、乱暴でぶっきらぼうな言葉。

 威圧するには充分な威力を持っている。


「先生を。お願いします。先生がこのままじゃ・・・」


 その先は言葉にならなかった。


「駄目だな。こいつは結果を見届ける義務があるから、このままだ」


「そんな・・・」


「まあ、手加減したし、直ぐには死ぬ事はねえよ」


 安堵というには微妙な表情の舞花。

 だが、それ以上は何も言わなかった。


 教室に設置されているアナログ時計。

 一秒また一秒と時刻が進んで行く。


 時計が止まってくれればいいな。

 何て、都合のいい事を考えてしまう。

 恐怖に支配されそうな心を、辛うじて維持し続けている。


 永続的な恐怖。

 それはここまできついのだ。

 彼女ははじめて知った。


「大声ださなきゃ、話しぐらいはしてもいいんだぜ」


 クサバのその言葉。

 しかし、会話をする小学生はいなかった。

 他のクラスや学年では、避難行動が取られてるようだ。

 時折それらしき声が聞こえる。


 校内放送を使用しない。

 それは彼を刺激しない為だろう。

 泣き出して、叫びだしてしまいそうな自分自身。

 何とか戒めている舞花。


 既に彼女には、周囲の状況などを見ている余裕はない。

 クサバが何か言っている。

 しかし、自分の心に溢れる様々な感情。

 必死に抑え込むのに精一杯だった。

 そしてとうとう、五分が経過する。


「さて、五分経過したな」


 いやらしい笑みを浮かべるクサバ。


「さて、右手を出してもらおうか。そこで抵抗したら、俺の気が変わるかもしれないからな」


 念を押す彼の言葉。

 渋っていた舞花。

 おずおずと、机の上に右手をだした。

 震えているのが自分でもわかる。


 過去に不注意で、爪を剥がした記憶はある。

 しかし、それがどれ位の痛みだったのかは思い出せない。


 伸ばされるクサバの鋭利な爪。

 舞花の右手の小指の爪に触れた。


 それはほんの一瞬の出来事。

 舞花の小さな右の小指。

 爪と肉の間に、減り込むように刺さる狼の爪。


 突き刺さると同時に跳ね上げられる。

 彼女の小さな小指の爪は、空を舞った。


 想像以上の激痛。

 端も外聞もかなぐり捨てて涙を流しす。

 顔をぐしゃぐしゃにする舞花。

 それでも彼女は、叫び声を一切上げる事はなかった。


-----------------------------------------


1991年6月10日(月)PM:12:22 中央区米里行啓通


 黒い光の粒子に覆われた人形。

 それを担いでいる万里江。

 その重さをまるで感じさせず、疾走している。


 目指すは舞花の通う小学校。

 既に目と鼻の先に辿り着いていた。

 一気に駆け抜ける。


 微かに感じる血の臭い。

 嫌な予感を彼女は覚えた。

 それでも、躊躇する事なく校門から入る。


 抱えてる黒い光の粒子の人形。

 意識を消失させているバジリオ・アランゴ。

 勢いを殺し、無造作に校庭に投げ捨てた。

 バジリオを覆っている黒い光の粒子を解除。

 万里江は、校内に進む。


 辿り着いた教室。

 鼻をつまみたくなるほどの血の香り。

 開け放たれた教室の中に見えた状況。

 万里江もよく知っている担任が血塗れ。


 恐怖と絶望。

 様々な感情がない交ぜになっている。

 そんな瞳の少年少女達。

 気絶して、椅子に寄りかかっている少年。

 机に突っ伏している少女もいる。


 舞花とその前にいる人狼。

 彼女も机に突っ伏していた。

 その表情はわからない。

 だが、汗まみれになっている。


 突き出されている右手。

 その右手の指。

 そのうち、小指と人差し指の爪が無くなっていた。


 人差し指からは血が滴っている。

 剥がれてから間もないとわかった。

 舞花は窓側を向いている。

 その為、万里江の到着に気付いていない。


 しかしその光景を見た万里江。

 彼女の怒りは限界突破。

 頭で考えるよりも先に、体が動いていた。


「やっととぐぎょ」


 人狼が万里江を見て、何か言おうとしていた。

 しかし、言葉を続ける事は出来ない。

 彼自身、何が起きたのかさえ理解出来なかった。


 気付けば、良く見知った仲間らしき人狼がちらっと見える。

 どんよりと曇っている空が見えていた。

 その事から、外らしいというだけは理解できる。


 彼は、激怒した万里江の拳を腹部に受けた。

 教室の窓と壁を突き破る。

 そして校庭に放り出されたのだ。


 目撃した小学生達。

 拳を喰らった人狼本人。

 誰も万里江の動きは見えなかった。


 口から垂れた血。

 彼は立ち上がろうとした。

 だが、体が思うように動かない。

 それどころか、上半身を起す事すらもままならなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る