勝負

  7月が来た。梅雨明けはまだ少し先だ。

 一時顔を出した太陽は、すぐにまた厚い雲に覆われてしまった。


 月初のオフィスの落ち着いた空気も、今の優には暗く沈んで見える。


 「黒崎君、今夜都合良かったら、飲みに付き合わない?」


 その朝、この天気におよそそぐわない爽やかさで、相楽は優を誘った。

 「あ、都合つかなければ無理しなくていいんだよ?」

優しい眼の底にサディスティックな色を浮かべ、相楽はそんな言い方をする。


 1カ月…本当に、あれからきっかり1カ月だ。


 今夜相楽は、優が待たせていた答えを聞くつもりだ。


 手に入れたいものへの異常な執着を見せる男。

 どれだけ欲しいかを、あからさまに見せて隠さない。何でも思い通りになることを疑わない目つき。

 恵まれた環境で、この男はずっとこうやって生きてきたのだろう。


「…今夜、お付き合いします」

「そう?じゃよかった」

 相楽はさらりと返事をよこしながら、獲物を目前に追い詰めた獣のような空気を漂わせた。


 「あれ?今日は二人で飲み会ですか?私も部門一緒なんだから混ぜてくださいよー」

この話が聞こえたのか、篠田が間に入ってきた。

「あれ?篠田さんだって、この前僕たち置いて合コン行っちゃっただろ?これでイーブンだ。それに、男同士の大事な話ってのもあるんだよ」

「えーだから合コンじゃないんですってば!相楽さん結構意地悪いですねー」

「あれ、知らなかった?すごいドSだよ、僕」

そう言いながら、ひやりとした笑顔を優によこす。

それを無表情にかわしながら——優は今夜のことを考えていた。



 ——負けられない。


 決して負けられない勝負なのだ。






 午後7時半、都内ホテルのラウンジ。

 仕事を終えると同時に、タクシーでここまで連れてこられた。

 高級ホテルのラウンジだけあり、静かに落ち着いた雰囲気は心地よく、酒も皆上等だ。だが残念ながら、今日はその高級感を楽しむ余裕はない。


 「なかなかいいだろ、ここ。ウイスキーでいい?」

そう言いながら、相楽はウイスキーのロックを二つオーダーする。

「オールドパーだ。甘いだろう?気に入ってくれるといいんだけど」


 こんな男が横にいたら、確かに女性は誰でも芯まで溶けるだろう。


「…こういうこと、女の子にしてあげたらいいじゃないですか。僕じゃなくて」


 優は、身構えるのをやめて本音を言った。

…ここでの会話次第で、彼の気持ちが何か変わるかもしれない。

「急にどうしたの?最近はいつも僕に噛み付きそうな顔してるのに」

「あなたに憧れてる女の子、たくさんいるのは知ってますよね?」

「だからさ、女はみんな言いなりになるから嫌なんだ。反応はどいつもこいつも同じでうんざりする」

相楽は投げやりにそう言う。

 社長の息子で、しかも有能な美男子。全ての女性にとって魅力的な存在。

しかし、彼にとってはそういう思いを寄せられるのが当たり前で、退屈ですらあるのだろう。


「…ならば、本当に愛せる女性を探して、相思相愛になれば済むことじゃないですか」

「君はマジメだな。それが面白いか?」

鼻で笑いながら、相楽は続ける。

「美しくて頑なで、従わないものが欲しいんだ——まさに君のようなね。

今までにこれほど何かを欲しいと思ったことはない」

「力ずくで従わせて、楽しいんですか」

「だからいいんじゃないか」

淡々と答え、相楽は端正に微笑む。


 背筋がぞっと冷たくなった。


 自分には恋人がいるのだ——そう口から出かかった。

だが、それを言えば、拓海を窮地に立たせることになる気がした。

自分の想いに応え、同性を恋人にした拓海を。



 これ以上続ける言葉がない。



 ……この男は、こういう人間だ。

この人格が、ここで急に変わるはずもない。



 ——仕方ない。


 琥珀色の酒に浮かぶ氷を見つめ、優は解答を伝えた。

「……係長の仰るとおりにしようと思います」


「僕の言う通りになってくれる…っていうことでいいのかな」

優は黙ってうなずく。

「もっと何か抵抗すると思ったけどな…素直だね」

「……」


「…今日でもいいんだね?」

「…構いません」


「なら、おいで。ここのすぐ下だ」


 オーダーしたウイスキーをさっさと空け、部屋へ誘われる。

 つくづく嫌なやつだ…ケダモノめ。


 しかし、今はとにかく我慢する必要があった。


 

 ラウンジの階下に取っていた部屋に入ると、相楽は机に乱暴にキーを放り、少しの時間さえもどかしげに優のネクタイに手をかけた。


「…待ってください」

優は、その手を押しとどめ、一歩退いた。


「大変申し訳ありません。相楽係長、やはりあなたのご希望には添えません」


「…何?…ふざけるつもり?」

「やはり、あなたの気晴らしの道具には、どうしてもなれないんです」

優は落ち着いた声でそう伝えた。


「ここまで来ておきながら…こんな密室で、君に勝ち目があると思う?」

相楽は、言葉でいたぶるように愉しげに話す。

「僕の言うことを聞きさえすれば、大事にしてやるって言ってるんだ。簡単じゃないか?」

「それが簡単じゃないのは、あなたも知っているはずです。その上で相手の苦しむ姿を愉しむことが、あなたの目的なんですから」

「……断ったら、君の立場がどうなるかも、わかってるよね?」

「もちろんです」

「なら、明日から君の席の保証はないけど…それでもいいの?」

「……そううまくいくでしょうか?」

優は、限りなく優しく微笑む。


「ふうん……これは時間の無駄だね……言葉で分からないのは残念だな…!」

業を煮やした相楽が優の肩に掴みかかろうとする。



 ——今だ。


 その瞬間、優は向かってくる相楽の眼に手の甲を打ちつけ、虚をつかれた彼の首に腕を回して引き倒すと、鋭く正確な金的蹴りを決めていた。


 瞬間的に呼吸を奪われ、相楽は声も出ずカーペットへうずくまる。


 優は姿勢を戻し、静かに息を吐いた。


「乱暴な真似をして申し訳ありません。…ですが、今のは正当防衛です。

 今後は、二度と僕に同じご要望をなさらないようにお願いします。

——あと、ここでの会話、全部録音してありますので」


 ズボンのポケットのボイスレコーダーを停めながらそれだけ告げると、未だ立ち上がれない相楽を残し、優はホテルの部屋を後にした。



        *



 「——相楽を倒してきた」

 その日、優は帰宅して一言、そう呟いた。

リビングに集合した俺たち3人に、優はその策を話してくれた。


 「——やったわね…。

 その状況に持ち込んで録音と正当防衛か。これじゃ向こうは手も足も出ないわよ」

さすがのヒロさんも感嘆する。

「ヒロさんの特訓のおかげなんだ、本当に」

「優くん、半端なく男前ね……惚れるわ」

花絵の眼にもハートが溢れている。

「あいつは倒さなきゃダメなやつだった、やっぱり。

……もしも失敗したときはどうなるんだろうって、恐かったけど…」

我慢と緊張を重ねたのだろう、優の瞳は未だざわざわと波立っている。

「ほんと大変な思いをしたわね。…でも、多分相楽もこれ以上優くんには手出しできないわ。これはもうみんなでお祝いしなくちゃね!!」


 ここしばらくずっと重い空気だったリビングは、一気に明るく賑わい出した。



 ——よかった。

 


 俺も、何か言いたかった。

そして、優を力一杯抱きしめたかったが……

 今は何も言葉が出てこない。



 今回のことをきっかけに、自分の中に生まれたある思い——それについて考えること以外、何もできずにいた。






        

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