第8話 Void

 いくつかの存在を欠いた世界。

 空いた間隙を埋めるようにして、は入り込む。


    †


「――――」


 目覚めは、その一時に浮遊感を与える。

 意識が浮かび上がり、が、代わりに沈んでいく。


「…………」


 目を開けたとき、そこに映り込むものが、いつも見ている部屋の天井であることに、彼は安堵した。

 微かなビープ音が、静寂に木魂する。

 頭上に手を伸ばし、小さな時計に触れると、その音は止まった。


「さて、と……」


 彼の目覚めに、合図は必要ではない。きっかりこの時間に目が覚めるように、体がそういう仕組みになってしまっている。

 だからこれは、意識を醒ますための合図。

 身体を起こし、ベッドを降りる。クローゼットを開け、いつもの格好に自分を整えていく。

 グレーのシャツにグレーのズボン。艶消しのサングラスを胸ポケットに収め、自室をぐるりと一瞥して、彼は自室を後にする。



    †


 その部屋は、とにかく白かった。


「――――……ここは」


 気が付くと、俺はベッドの上に寝かされていた。

 ベッドと言っても、形がそうである、というだけだ。布団も枕も、何もない。

 正しくは、に、俺は無造作に横たえられていた。


 目に入るものは、全てが色彩というものを失っているように見えた。

 漆喰の壁が目に痛いほど白く、つるりとした床も、天井から降り注ぐ白色灯を反射して白く光っている。

 窓はあるが、白いレースのカーテンが外界の色を遮断し、よくよく見れば、自分自身もまた真っ白な一張羅に着替えさせられていた。


「俺は、いったい……」


 思い起こすのは、あの夜のこと。

 俺は、ある悲劇に関わる首謀者として、あの場所にいた。

 が出てきたのは想定外のことで、


 俺はアイツを撃って、そしてアイツは、俺を殺した。


 確か、最後に名を聞いた。そう、あれは……


「――タナトス」



    †


『――――』


 閉じていた目を開ける。どうやら、思いのほか長い時間が過ぎたようだ。

 人気は、相変わらずない。やはり、長いこと人の出入りがないようだった。


『ん……』


 腕を伸ばし、欠伸をひとつ。木製の長椅子に横倒れに眠ったことで、首やら腰やらに鈍い痛みを覚えた。


『痛いって、いいなぁ……』


 痛みは、自分がまだ生きているという証だ。喜びこそすれ、嫌な気持ちにはならない。

 ぼんやりとした頭で、これからのことを考える。

 当座の問題は、食事だ。

 生きるという目的においては、食べるという行為はとても大事なことだろう。


『食べ物かぁ……』


 己は遁走の身。当然持ち合わせなどない。

 市に行き、金を払って買うということはできないのだ。

 ならば盗むか。いやいや、それはよくないだろう。

 自分は食べなくても死にはしないが、彼らは売らなければ食べることが出来ず死んでしまう。

 困った。


『うーん……』


 他者の善意に頼る、というのは、正直に言って無理だ。

 この世に「無償の善意」など在り得ない。善意は悪意と表裏一体なのだ。

 善い人の顔をしている人間ほど、裏では惨い顔をしていることを、痛いほど知っている。


『自分で獲ってくるしかないかな』


 幸い、此処は森の中だ。木の実くらいは探せば見つかるかもしれない。

 最悪の場合は、その辺に生えてる草でも食むとしよう。口に入れば何でもいい。この際、文句はつけない。


なぁ……』


 それが、自分の現状なのだ。哀しいかな、



    †


「ぅ……」


 明るい日差しに目が眩む。どうやら昼になったらしい。

 あれから一晩。ただ没念と廃教会の前に座り込んでいた。

 空腹は意識をしなくなったら大人しくなったが、今度は脱力感が湧き上がってきて、最早立つことも面倒だった。


「魔女、か……」


 何時の世にも、そういう非業な最期を遂げる女というのがいる。

 自分は、その最期によく立ち会ったものだと、今更ながらに思う。

 それは、死に逝く女たちに、彼女の面影を見ていたからか。それとも単に、冥府の王がそれを命じたからなのか。


「彼の考えることは、僕には分からない」


 自分は彼ではない。当然のことだ。

 分かるのは、彼が自分に“何かを隠していること”。それは彼女に纏わる何かで、彼も彼女も、自分が“自身の力で気が付くこと”を求めている。

 そのこともあって、自分は冥府から出てきたとも言える。


「ウィッチクィーン……」


 会いたい、とは考えない。、自分は彼女に

 此処ではない何処か、有と無の狭間、幽玄の渓谷を抜けた先、あの大朱扉の中へ、彼女は自分を誘うだろう。

 求められれば応じるのが、自分と彼女とを結びつける相互理解だ。

 そして、未だに自分は、彼女のほうから求められるという経験をしていない。


「…………」


 伏せていた目を開いたとき、そこがまだ廃教会の前で、少し安心したことを憶えている。



    †


「ふむ、そうか」


 ヒュプノスからの陳情を聞き終えてハーデスが放ったのは、たったそれだけだった。

 彼は大理石の執務机に山と積まれた書類の一枚一枚に丁寧に目を通し、己の判を捺すという作業を繰り返し、繰り返し行っているところだった。

 その最中にも、山と積まれた書類が次々に運び込まれ、執務机の上には最早置く所がないために床にも積まれ始めたところだ。


『そうか、って……それだけ?』


 そんな書類の山のひとつに無礼にも腰を下ろし、足をブラつかせて詰まらなそうに言うのは、白い髪に白い肌、白い服に赤い瞳の、ヒュプノスだ。


『聞いたよ。タナトスがいなくなったそうじゃないか? これはあれだね、“管理不行届”。君の責任問題じゃないのかい? ハーデス』


「我が管理権限の全てに於いて、奴が持つ力の総てを私が預かっている。管理は行き届いているのだ。従って私の責任は問われない」


 ハーデスは書類から目を上げて言う。


「それよりも、。貴様と奴が同時に“外”に現れることなど滅多にないことだ。更にはその姿形、今まで見たこともない。また何かを企んでいるのか?」


『ボクに企みがあるなら、こうして君と会うことにどんなメリットが?』


「さぁな。現を夢のように揺蕩う白昼の謀など、私に解るはずがない」


『我が愛しい兄弟は何処だ?』


「知らんな」


 ぴしゃりと言い放ち、ハーデスは再び書類仕事に戻っていく。


『そんなはずはない。君は知っているはずだ』


「二度は言わん。事実だ。奴の力は総て此処に在る。探りようがない」


 なるほどね、とヒュプノスは言い、腰掛けていた書類の山から飛び降りると、ハーデスへとその左手を差し伸ばした。


『じゃあ、彼の力をボクに寄越してくれ。あれは力でもある。問題はないはずだ』



    †


存在の入れ替わりチェンジリング、か。ふむ……中々に興味深い」


 明かりを落とした暗い一室。唯一光るモニタの明かりで顔を蒼白に浮かび上がらせながら、白衣の男は食い入るようにモニタを睨んでいる。

 背後には、長大な鋏を抱えた黒装束の女が壁に背を預け、退屈そうに足をぶらぶらさせている。


『――存在の入れ替わりチェンジリングって? わたしと関係あるの?』


 何度か洗浄を試みたが、結局新調する破目になった黒のコートのポケットに両の手を突っ込み、女は興味なさそうに言う。

 白衣の男は振り返らぬままに、それに答えた。


「大いに有るとも。このまま進行すればいずれ、君も“何か”と入れ替わることがあるかもしれないね」


『“ドクター”も?』


「そうとも。君や私に限らず、全ての人間、否――全ての存在が、その《存在》をあやふやにしていくだろう」


『ふぅん……』


 興味なさそうに呟き、女は壁を離れ白衣の男の背にしな垂れかかる。

 白衣の男は、やはり振り返らぬままに、しかし手を止め、肩に乗る女の頭を撫でた。


「興味のないことかね? 君がもしも、》となったとしても」


『うーんとね……よくわかんない、っていうのが、本音かな?

 だって、わたしはわたしだし、ドクターはドクターでしょ?』


「はは……そうだね」


 白衣の男の首に腕を廻し、より強く抱きしめる。

 白衣の男は答えない。ただ、振り解くことも、身動きを取ることもしなかった。


『……ん』


 しばらくして、女が白衣の男から離れる。手指に鋏を引っ掛け、引き摺るようにして歩きだす。


「何処へ行くのかね?」


『ん……おさんぽ』


 白衣の男は、ようやく振り返った。

 その気配に、女の歩みが止まる。


『ねぇ、ドクター。今日は……月がとってもきれいだよ』


「……


 白衣の男は、だが席を立とうとはしなかった。

 女はやがて、大鋏を引き摺るように、部屋を後にする。

 白衣の男は、その背を、いつまでも見送っていた。


    †

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