忘れえぬ想い三ツ者の唄-琥珀

伊東一刀斎

第1話 三ツ者の帰還

 時は天正十年(1582年)前後だったと思う。ずいぶん昔のことで、もしかすると記憶違いかもしれない。暗く深い森を抜けたすぐ先にやや開けた場所があった。そこは甲斐・南信濃の国境から甲斐側東南東の方角に四里ほど入ったところであろうか。曇天だったが上空には鈍く光る満月があり、分厚い雲の隙間を通して冷たい光を地上に放っていた。季節は春先の早い時期で、深更であれば人の息が遠くからでもそれとわかるような気温だ。そこは下生えの草の高さは周りとそれほど変わらなかったが、樹木の植生の密度は周りと比べて明らかに小さかった。植生の密度、空気の湿度、上空の月の光から得られる明度などを除けば、この開けた場所は周りの森林部分と大きな違いはなかった。周りの景色にある程度の注意を払う者であっても「ああ、開けた場所があるなあ」との印象しか得られなかったはずである。だが、常日頃、命を危険にさらすような仕事についている者にとっては、明らかに異常な場所だった。おもに夜に活動する鳥・虫の声がまるで聞こえない。明るく開けた場所であるはずなのに、異様な雰囲気が立ち込め、印象的にはむしろ周りより暗い感じがする。そして、ただ風だけが広場の中心に集まるように吹き寄せている。


よくよく感覚を研ぎすませて周りを探れば、確かに感じる気配がある。しかも押し殺したような殺気だ。まず、奥の樹木の幹の裏に一人、両隣の幹の裏にもそれぞれ一人ずつ、広場の右側、森林の境目の低い下生えに一人伏せている。そして、左奥のひときわ多くの葉に覆われた樹木のかなり高い所に恐らく一人…、そこには二人いるような気もするが、よくわからない。ただ、この者からは激しく空気を切り裂くような殺気は感じない。むしろ仏像を見たときに感じるような穏やかな気配が漂っている。だが、はっきり言えるのは、この者には仏のような慈悲の心はかけらもないであろうということだ。この者と顔を合わせたことはない、目を見たわけでもない。だが、わかる。言葉にするのは難しいが、それだけは確信を持ってわかるのだ。


さらに深く注視すべく意識を集中しようとしたその時…。広場に姿を伏せている全員の視線が森林の反対側の奥のある部分に動いた。私はその方向に視線を動かしたが何も見えなかった。音がするわけでもなかった。だが、ほんの一瞬の間にまるで四人の人間が一つの生き物のように同時に視線を動かした。四人と言ったのは、樹木の上の一人はその気配に気づいたようだが、頭や視線を動かす気配を感じなかったからだ。彼らは私に見えていないものを見ているようだった。身体はぴくりとも動かさない、ただ、森の深部に殺気をこめた視線を放つのみだ。森の深部から“何か”が近づき、広場に入る境目で“それ”はピタと止まった。目には見えないが広場の様子を探る油断のない気配を感じる。しばらくの間、広場には空気が固まったような緊張感が立ち込めたが、その後スッと殺気が掻き消えた。広場に姿を伏せた者どもは、この広場に近づいた “それ”に心当たりがあるようだった。今では広場には虫の声が戻るほどやわらかな気配が漂っていた。


広場の右側、森林の境目の低い下生えから一人の男が姿を現した。クレ染めの上下の装束、腰の右側からやや下方に刀のつかの部分が七割ほど突き出して見える。刀身の部分はさやの大きさや形状から見て、二尺(約60cm)を少し超えるくらいであろうか。しかも直刀だ。小太刀というには長すぎるようにも思う。あれほどの長さの直刀で、いざというとき素早く抜けるのであろうかと、私は人ごとながら心配になった。その男の身のこなしや頭巾の奥に穏やかだが油断のない冷徹な目が覗いているところから、この者が普通の村人ではないということが分かった。恐らく“草(忍者)”であろうと私は見当をつけた。奥の樹木の幹からも三人の“草”が姿を現したが、別の樹木のかなり高い所にいる、恐らく“草”の仲間の一人であろう者は姿を現す気配はなかった。下生えから現れた男が初めて口を開いた。その男の体形から見てかなり低い声を想像していたが、その男の声は私の思ったほど低い声ではなかった。


「ご無事でお戻りなさいましたな…」


森の奥から二人の男たちが音もなく姿を現した。だが身体の一部は広場に向けた方向に対して樹木の幹の影になっている。油断のない動きだった。恐らくこの者共は自分の親を前にしてもこのような身のこなしをするのだろうと、憐憫の情がかすかに心に湧きあがるのを私は感じた。二人の男のうち一人が口を開いた。


「うむ…」


姿を現した二人の男のうちもう一人は無言だ。二人は広場にいた“草”のような装束ではなく、はっきりとはいえないものの、どこか唐風というか南蛮風の雰囲気が漂うような装束であった。それにもかかわらず、かなり注意深く観察しなければその装いの異様さに気づかなかったのは、彼らが身につけている装備がことごとく艶消し処理をされている上に暗闇で目立たない色に仕立てられていたからであったのかもしれない。


私はまず口を開いた男の様子を探った。その男の装束が南蛮風なことにも気を引き付けられたが、なんといっても異様なのが、額から鼻梁の先より少しばかり上の部分までが何かに覆われている。麻か木綿か、あるいはまだ見ぬ素材かわからないが、あれではまるで前が見えないではないかと、私は訝しく思った。それにもかかわらず、その男の足取りが全く不安のない確かなものであることに私は強く驚かされた。異様すぎる…。“草”独自の何かの試練か、訓練なのか、私には見当もつかなかった。


次に私は口を利かないもう一人の男を見つめた。この男も見たこともない南蛮風な装束だが、最初の男に比べるとはるかに“草”らしい装束だ。しかし、装束の表面は見たことのないような文様で緑、茶、黒のまだら模様だった。いかにも森の中で姿をくらましやすそうな見かけをしている。顔の表情はほとんど見えない。首から口元までが布で隠されているからだ。暗い顔面の中から殺気に満ちた眼だけが覗いている。まだ若いのであろうか、殺気を隠そうとするそぶりすら見せず、目の奥に挑戦的で煽るような強い意志を感じる。


森の奥から現れた最初に口を開いた者が言葉をつないだ。


「琥珀はいかがした?」


広場にいる男が、やれやれとため息交じりに反対側の森の奥の葉の生い茂った木の天頂部分に頭を向けて静かに声をかけた。


「琥珀!」


どうやら木の上にいた人物は琥珀というらしい。ふっと気をこめるような意識を集中する気配を感じた瞬間、高い木の頂点から何かが落下してきた。


                                 -第1話了

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