2章:グローバル。
マズい。
非常にマズい。
僕が白荘にやって来て1ヶ月と少し。
これまで、何度か地獄と連絡を取ろうと、部屋の中だけじゃなく、公園や路地裏で術式を使ってきた。
でも、そのたびに何処からともなく白さんが現れ、僕の術式は完成前に消去されてしまう。
トイレの中までは来ないだろうと思い、トイレの中で術式を使った時には、強力な空間遮断結界とやらで、外部と遮断され、トイレの中に半日幽閉された。
そんなこんなで、僕の努力が次々と無に帰し続け、結局任務について何も進展がないまま時間だけが過ぎていった。
そして、その時は遂にやって来た。
コンコン
「はい」
「白です」
「――今日は術式使っていませんよ」
「いいえ、今日は別件で用があって来たんです」
「――なんでしょうか」
「家賃の支払いをそろそろ済ませて頂けませんか?」
「――幾らですか」
「四万五千円です」
「――それって、頭が微妙にブロッコリーみたいな人が居れば支払えますか?」
「はい。おそらく、あなたの言うブロッコリーが四十五人居れば、今月の支払いは完了です」
「取り敢えず三人――」
「ちょっと私の部屋に来て下さい。全財産も一緒にお願いします」
***
「さっ、三千二百十七円。貴方、ここに来た時には幾ら持っていたの?」
「ええと確か、この紙幣より少し大きくて、明らかに徳の高そうな、ドヤ顔の男性が映っている紙幣を五枚です。」
「――」
白荘一階、管理人である白禊琳さんの部屋。
僕の手持ちのお金と、人間界にやって来た当初の所持金を聞いた白さんは絶句した。
「そのお金で人間界下見やら調査やらを行おうと考えていたっていうの?」
「そんなわけないじゃないですか。定時連絡で仕送りを貰うつもりだったんですよ。でも、そんなことしたら、白さんは許さないでしょ」
「ええ。人間への影響があるし、あなたが地獄にこちらに不利な情報を送ることも考えられるからね」
「僕って信用無いですね」
「信用が有る無いと言う問題ではないわ。これは立場の問題。取り敢えず、このままだと、家賃云々以前に、あなたの生活に大きな支障が出るわね」
「実は既に支障が出ていたりします」
白さんはお茶を飲んで一息つくと、
「それじゃあ、あなたのアルバイト先でも探しましょうか。私も買い物に出掛けたかったところなので、一緒に町を見て回りませんか?」
「は、はい――」
大和撫子を絵に描いたような美人から外出のお誘いを受けたのに、僕の気分は何故か沈んだままだった。
***
「準備できました?」
「特に準備するものも無いですよ」
「それもそうですね。それじゃあ、行きましょうか」
僕と白さんは並んで白荘の門を出た。
白荘は、商店街などで賑わう町の中心から少し離れた場所、所謂閑静な住宅街に建っているため、買い物に行くとなると、少し時間をかけて歩いていくことになる。
時間があるとなると、日頃ため込んだ愚痴もついこぼれてしまう。
「ああ。何で人間はそんなに異界の力に弱いんだろう。みんな白さんみたいに耐性があればいいのになぁ」
「それを人間側から言うと、『ああ。何で鬼はそんなに異界へ行きたがるんだろう。みんな地獄の素晴らしさをもっとよく知るべきだよなぁ』という感じになります。立場が違えば考えも変わります。そんなこと言っても何の解決にもなりませんよ。」
「まぁ、確かにその通りなんですけど。でも、地獄の良いところなんてありますか?」
「それはあなた達鬼が見つけるべき事ですよ」
「いやでも、参考までに聞かせて下さいよ。地獄の良いところ」
「――良いところが見つからないわ」
「ええ、無いんですか。じゃあさっきの言葉は何だったんです。客観的に見て良いところ無かったら、多分良いところ見つからないですよ。酷い」
「しょうがないじゃない。思い付かないんだから。それに、私はまず、地獄に行ったことが無いの。そんな人間に地獄の良いところを聞くなんて――。あ、そう言えば、前にいただいた美味しいおでん。あれ確か地獄名物だって――」
「おでんですか。なる程、地獄のおでんは人間界でも有名なんですね?」
「地獄を知ってる一部の人間にはね。あのおでん汁がよくしみた大根は格別ね」
「確かに。あれは何度食べても飽きが来ないどころか、その味に惹き込まれていく、魔性のおでんタネです」
「でも、実は私、他ににお気に入りのタネがあるのよ」
「奇遇ですね。僕もです。多分アレじゃないですか?」
「そう。きっとアレよね」
「「竹輪」」
あれ、
愚痴っていた筈なのに、何故だか少しだけ気分が晴れ晴れしている僕がそこには居た。
それからも、僕と白さんの地獄おでんトークは続き、ちょうど商店街に到着した頃には、今晩のご飯は白さんの部屋で、一緒におでんを食べることは確定。更にはどんなおでんタネにするか、と言うところまで、話が進んでいた。
「さて、と。まずは商店街を回ってみましょうか。先に買い物しちゃうと、重たい荷物を長時間持ち歩くことになっちゃいますから」
「そうですね。それじゃあ、案内お願いします」
「ええ。といっても、ただ歩きながらお店の説明するだけになっちゃいますよ、多分」
「構いません。人間界のお店には、興味がありますから」
それから僕と白さんは、商店街の色々な店を見て回った。
「――しかし、僕にはやはり納得できません。何であんな異端者を容認出来るんですか?」
「異端者ではなく新参者の間違いです。それに、美味しいのだから良いじゃないですか。食べ物は美味しさが最優先事項です。」
「あれは、どう料理したって、だいたい美味しいじゃないですか。そんなのずるい。よくない」
「何がずるいんですか。他と同じ条件で調理されてます」
「「兎に角――」」
「おでんにウィンナーは邪道です」
「おでんにウインナーは邪道じゃないです」
店を見て回った――筈だった。
***
「はぁ、何だか疲れたわ。」
「結局、歩きながらおでんの話をしてただけでしたね」
喫茶店。
窓際のテーブルに向かい合う形で座った僕と白さんは、ほぼ同時に溜め息をついた。
おでんの話で意気投合し、二人の外出は成功、終始楽しくスムーズに過ごせると思っていたが、そのきっかけとなったおでんトークが思わぬ猛威を振るい、僕と白さんは休戦し、喫茶店へ向かった。
「お待たせしました。コーヒーと紅茶、レアチーズケーキにモンブランです。」
「おっ、きたきた。これは美味しそうですね」
「さあ、これは私からの奢りよ。美味しい物を食べて一休みしましょう。」
ウエイトレスが運んで来たスイーツに僕は思わず喜びの声をあげてしまった。
「このモンブランって食べ物、凄く美味しいです。初めて食べたんですけど、やっぱり人間界って良い所ですね」
「ケーキ一つで良い所、なんて、単純すぎない?それにしても、あなたの人間界に関する知識はどこか変わっているわよね。最初に会った時から、変わった異界の者だなって思ってました」
「そうですか?それに最初って」
「公園で会った時の事ですよ。忘れちゃいました?」
「ええ、それじゃあ白さんは初対面の時から、僕が人間じゃないって分かってたんですか?」
「勿論。だから直ぐに私のアパートに案内したんですよ。力を持っている者を黙って見過ごすなんて、退魔師の私には出来ません」
「それじゃあ、僕は上手い具合に餌に釣られたんですね――」
「まあそう落ち込まないで。前にも話したかもしれないけれど、私は別にあなたを殺したりするつもりはないのだから。はい、私のケーキも一口あげるから元気出して」
「ありがとうございます。でも人質にするなら、せめてご飯位は出してくれても――」
「申し訳ないのだけれど、私にはそこまで出来ないわ。それは明らかな異界の者への援助になってしまうもの。明確な決まりがない所為か、その辺りの線引きが難しいのよ。でもまあ、時々ならご馳走するわよ。今日だってそうする予定でしょう。」
そう言って、僕の申し出を断る白さん。
ケーキを奢ってくれる優しさはあっても、仕事との区別はちゃんと出来てるんだなあ。
「でも、僕からの連絡が無かったら、地獄も何か動きを見せると思います。もし地獄の鬼が攻めてきたらどうするんです?」
「その辺りの問題は、私の上司のような立場の人が対応しているので心配無いですよ」
僕にとっては、心配事が無くなって安心できたというより、現状を打開出来るという希望が一つ打ち砕かれた瞬間だった。
***
「どうですか?一通り商店街をまわった感想は」
「そうですね。書店が働き易そうだなって思いました。あんまり重労働でもなさそうでしたし」
その後、僕と白さんはもう一度商店街をまわり、夕飯の買い物を済ませた。
その帰り道、僕は白さんと立ち寄った、商店街の一角にある小さな書店を思い出しながら答える。
一通り店内を周りながら様子を観察したけれど、主な仕事は会計や本の整理、掃除といった感じで僕にも簡単に出来そうだったし、何よりあの書店の落ち着いた雰囲気がとても気に入っていた。
「そうですか。今日は不在でしたが、あの書店の店長は私の知り合いなんです。あそこで働きたいのなら、私の方からもお願いしておきますよ」
ドサッ
「どうしました?買い物袋を落としましたよ」
「ご、ごめんなさい。それより白さん、書店の件、本当なんですか?」
商店街で買った食べ物が入った買い物袋を拾い上げる。
白さんからの予想外の返答に、僕は白さんに持たされていた袋を思わず落としてしまった。
「本当です。私としては、家賃を払って欲しいですからね」
「ですよね。白さん、でもそんなに言うなら、一回でいいので僕に地獄と通信を許可して――」
「駄目です」
「駄目ですか」
***
「それじゃあ、いただきます。白さん、今日は本当にありがとうございました」
「いえ。気にしないで下さい。これは今日のあなたへのお祝いです。これから頑張って下さいね」
買い物からの帰宅後、白さんは直ぐに書店の店長に連絡を取ってくれた。
すると、相手方も二つ返事で僕を採用してくれたようで、僕はその知らせを白さんの部屋で伝えられ、予定通り、そのまま夕食をいただくことになった。
「向こうもちょうど人を欲しがってたみたいで、タイミングが良かったです」
「そうだったんですか。あっ、このはんぺんはなかなか」
「取り敢えず、これで収入は何とかなるはずです。彼女もそんなに厳しくないので、クビにされることもないでしょう」
「大丈夫です。自分で言うのもなんですが、僕、真面目ですから。あっ、竹輪発見」
「はぁ。これで少しは家賃が入って来るようになったわ。それにしても、あなたを見習って、他の人にもちゃんと働いてもらいたいものね。そろそろウィンナーが食べ頃かしら」
「白荘に住んでいるのは僕だけじゃないんですか?それと、何ちゃっかりおでんにウィンナー入れてるんですか。邪道です」
白さんの言葉に僕は耳を疑った。
というのも、僕が白荘にやって来てから約一カ月。僕は白荘で白さん以外の人と会ったことが無かったからだ。
僕はてっきり、白荘には僕しか住んでいないものだと思っていた。
それにしても、ウィンナーはやっぱり邪道だ。
「あら、これは――」
突然、白さんの表情が険しくなり、立ち上がる。
「な、何ですか。そ、そそそそんなにウィンナーが邪道扱いされるのが嫌なんですか」
前に感じた、白さんの持つ力のオーラに圧倒されて、僕は思わずたじろいでしまった。
「違うわ。あなたとは違う、別の力を感じるの」
「別の、力?」
数分前までの、まったりした夕食の時間からの事態の変化に、僕はまだついて行けていなかった。
別の力を持った者。
よくよく考えると、もしかして、これは好機なんじゃないだろうか。
「白さん。一旦移動しませんか?」
「えっ?」
「相手の目に付く、広い場所に移動して、おびき寄せるんですよ。相手もこっちの力を感じているかもしれませんし。それと、もしもの事態を想定したら、人間が極力少ない場所にいた方が良いはずです、きっと」
「――成る程。それは試してみる価値がありそうね。そうと決まれば早速近所の丘に移動しましょう」
「あれ、僕も移動するんですか?」
僕の作戦が余程妙案だったのか、嬉しそうにウィンナーをかじり、明らかにテンションが高くなっている白さん。
白さんを遠ざけている内に、地獄からの救援を求める算段だったんだけれど、この作戦、早くも終了のお知らせだろうか。
「当然です。これはあなたの作戦でもあります。あなたは運命共同隊、一緒に町の危機を救いましょう。」
終了のお知らせでした。
しかも知らぬ間に、町を救う運命共同体まで結成されたみたいだ。
僕、白さんに一方的に監視されている立場なのに。
***
「うわわっ。白さん、もう少しゆっくり――」
「無理です。こう見えて、私も結構苦しい状態なんですよ?」
満天の星空のもと、僕と白さんは住宅街を抜けた先にある丘を目指し、宙を走っていた。
この状況、別に比喩を使っている訳ではなく、実際に空に発動させている白さんの結界の上を走っているのだ。
何でも、『空間固定結界』で足場を固め『聖域結界』で強い能力空間を作り相手を誘き寄せる。加えて『能力遮断結界』で、地上の人間に自身の能力の影響を与えないように施し、極め付けに『空間遮断結界』を僕に向けて発動。移動中に僕が能力を使う事を防いでいるらしい。
「はあっーはあっ――。もう、少し――」
「ちょっと、何もしていないあなたが何でそんなにバテてるんですか?」
「いや、自分、シャトルランとか嫌いで――」
「要するに運動が苦手だってことですね。人間界までどうやって来たのか分からないですけど、あの時セグウェイを持っていた理由が、今何となく分かりました」
「いや――セグウェイは――ちょ――」
「どんどん返答が遅くなってます。本当に大丈夫ですか?」
ここにきて、ようやく白さんが止まってくれた。
僕は思わずその場にへたり込む。
「しょうがないです。ここで一旦休憩しましょう。『空間遮断結界』を『治癒結界』に切り替えてあげますから、能力なんか使わないでちゃんと休んでください。といっても、その様子じゃあ能力は使えそうに無いですね」
「は、はひぃ」
悔しいけど、今回は素直に休ませてもらおう。
しかし、僕の言動は、どうしてこう裏目にばかり出るんだろう。
へたり込んだ状態から、更に仰向けになった僕は、そんなことを考えながら、星空を見上げながら大きく深呼吸を繰り返す。
ふと、地獄を出発した夜を思い出す。
閻魔様、今頃何をしているんだろう。
僕の事、心配しているのかな。
僕がそんな感傷に浸っていると、
「そんな――。大変です。早く起きて下さい。向こうがこっちに気付いたみたいです」
「え」
「移動速度が速すぎる。ここで迎え撃つ事になると思うので、ちょっと下がっていてください。」
「え、え?」
「あと、『治癒結界』はそのままの状態にしておきますから。余計な事はしないで下さい」
「ハイ。スイマセン」
突如として告げられる休息の終わり。
何だか良く分からないまま、白さんのプレッシャーに圧された僕は、まだ重い体を引きずるように、のそのそと白さんの背後に回った。
「――来た」
白さんが身構える。
白さんのどんどん強くなるプレッシャーは、最早『治癒結界』より強くなり、僕は吐き気をもよおしながら、白さんの向く方向を見据える。
暗い空を保護色に、黒い塊が一つ、確かにこちらに近づいて来ていた。
その塊は近づくにつれて、みるみる大きくなり
「はッ」
塊がおおよそ10メートル程の距離まで近づいて来た所で、白さんが結界を発動させた。
直後、激しい摩擦音。
猛スピードで白さんの結界に突っ込んだその塊は、勢いをまるで失っていないかのように、金属音に似た凄まじい音を立てながら、結界への突進を続ける。
相手の力が押しているのか、白さんは結界に込める力をさらに強め、それに比例するように僕の体調は加速度的に悪化して行く。
そして、遂に決着がついた。
「そんな、まさか――」
白さんの驚愕の声とほぼ同時に、硝子の砕けるような音と共に、黒い塊は白さんの結界を突き破る。
結界が砕かれ、気分が少し楽になったと僕が感じたその直後、僕の目の前は真っ暗になった。
***
「――んぅ」
「おお。――おい、禊琳。鬼の男がお目覚めみたいだぞ」
「良かった。大丈夫ですか?いまそっちに行きます」
僕が目を開けると、そこには星の瞬く夜空はなく、いつもの白荘の天井が広がっていた。
そして、僕の顔をを心配そうな顔で覗き込む、綺麗な金色の髪をした白さんが居て。
あれ?
「――白さん。髪の毛染めたんですか?」
「私は禊琳じゃないぞ。なんだ、禊琳の力の所為で混乱してるんじゃないのか?随分と華奢な鬼も居たもんだな」
「白さんじゃない?でもここは――」
「私はこっちです。自分で起きあがれますか?」
ここで、僕の良く知っている白さんが台所からお茶菓子を持ってやって来る。
それじゃあこっちの金髪の女の人は誰だろう。
「目を覚まして、いきなり状況が変われば、誰だって戸惑いますよね。今、ちゃんと説明しますね。その前にお茶を煎れますから、あなたもこちらにどうぞ。」
僕は促されるまま、布団から抜け出して座布団の上に腰掛け、知らない女性と白さんを待った。
やがて、急須と三人分の湯飲みを持った白さんがやって来て、自己紹介が始まった。
「さてと、私はカーミラ・ガーネット。ヴァンピーラだ。隣人同士、よろしくな」
「カーミラはあなたと同じ、白荘に住んでいるんです。と言っても、よく遠出するから普段は部屋に居ないし、家賃も滞納するんだけどね」
「カーミラさん、ですか。宜し――」
「まあそう堅いこと言うなよ禊琳。今日だって、なかなかの魔導具を持ってきたんだからさ」
「本当?ちょっと見せてくれる?」
「ほい。今回はこのマントだ。どうやら能力を遮断できる機能が備わってるらしいぞ。性能は身をもって体験したから分かるよな」
「相変わらず無茶苦茶ね。それにしても、能力を遮る能力を持った魔導具。確かに珍しいわ、これ」
「それと、今回はおまけとして、吸血鬼を3人ほど駆除出来たから、そのあたりも勘定にいれてくれよ」
「そんなの本当かどうか分からないじゃない」
「大丈夫。そのうち奇稲田の方から知らせと報酬が届く筈だから。そういうことで宜しく」
「それじゃあ、五ヶ月分の家賃滞納だから――。高く見積もっても、十八万円てとこかしら。あと五万円位足りないわ」
「おい禊琳、いくらなんでも安過ぎるだろ。本当に高く見積もってるのか?」
「私は詐欺師じゃないわよ」
どうやら二人とも、会うのは久しぶりらしい。
最初の自己紹介で話に加わりそびれた僕は、機関銃の応酬の如く激論を交わす二人に完全に忘れ去られた。
仕方が無いので、僕はお茶を飲みながら、二人の会話がひと段落つくのを待つことにした。
まだ淹れて間もないであろう、湯気を立てているお茶は、飲むと体の芯から温められるようで、僕は何だかほっとした。
さっきまで、途轍もない力が飛び交っていた場所に居たなんて嘘みたいだ。
「しょうがないわね。じゃあ、二十万円で買い取るわ」
「そこまできたなら、いっそのこと家賃まとめて払えるくらいの値段で買い取ってくれても良いじゃないか」
「それじゃあ困るってのよ。此処は間接的とはいえ、あんたが言う奇稲田の支配下にある場所なんだから。ちゃんと家賃を払わないと、結局はあんたも苦労することになるのよ?」
「くぅ、覚えてろよ――」
「勿論。残りの家賃をちゃんと払ってもらうまでは忘れるもんですか」
「そういう事じゃないっての。ったく」
「ここまで言っておいて可笑しいかも知れないけれど、一応私から掛け合ってっみるから。ただ、あまり期待はしないでね」
「はいはい。それじゃあ早速次に行きたいんだけど、今のところ何か情報とか来てるか?」
「今は特に。最近は落ち着いてるからね」
「はぁ。新しい情報も無しか。収入が得られないんじゃ、どうしようも無いぞ」
「あんたもこの町で働けば良いじゃない。仕事なら紹介するわ。そこの鬼の方と一緒に本屋で働いてみたら?そっちもそっちで生活に苦労してるのよ。辛いのはカーミラだけじゃないの」
「鬼?――あっ。お前、ロクに自己紹介もしないで何呑気にお茶すすりながらおでんなんか食べてるんだよ。バカにしてるのか」
ここにきて、二人が僕の存在を再確認する。
ちょっと嬉しかったけれど、あんまりだ。
なんで僕が怒られるんだろう。
「そんなんじゃないですよ。高級品買い取りショップに来たおば様方顔負けの値段交渉の迫力に圧されて、口出し出来なくて困ってたんです」
「お、おおおばっ」
「また要らないところで火に油を。貴方は不幸を呼び込む体質でも持っているみたいですね」
白さんはそんなことを言いながらお茶をすする。
この人は、本当にマイペースだ。
「こいつ、初対面の癖に生意気な鬼だな」
「だから、自己紹介しようとしたんですって。それなのに、貴方は名前だけ名乗って、その古ぼけた布切れで家賃払おうとするんだから、僕だって訳分からなくなって当然じゃないですか」
「ぷっ。カーミラ、あんたのマントは布切れだそうよ」
「このッ――」
「い、いや違うんですよ。別に馬鹿にするつもりは」
僕が振り向くと、カーミラさんは何処からともなく剣を取り出し、僕の首に突きつけていた。
「ちょ、カーミラさん――」
「さて、と。そろそろ二人だと収集がつかなくなりそうね。私が間に入ってあげる」
「とっくに収集つかなくなってますから」
僕は半分泣きそうになりながら白さんにツッコミを入れた。
***
軽いいざこざを経て、平静を取り戻した三人が再び食卓を囲む。
食卓には、白さんと食べていたおでんが用意された。
「それじゃあ改めて。さっきも言ったけど、こちらはカーミラ・ガーネット。貴方の隣の部屋に住んでるわ。彼女も貴方と同じ様に只の人間じゃないってことで、此処に住んでるの」
「只の人間じゃない?どこをどう見たって人間の女の子じゃないですか。確かに髪の色は目立った色してますけど、普通の可愛い女の子ですよ」
僕はカーミラさんをまじまじと見つめる。
やっぱり普通の人間だ。
「なんだよ。普段の人間みたいじゃおかしいってのか?お前だって、鬼なのに見た目はどこにでも居るような人間に見えるぞ。それに、私は『半分』人間なんだ。言ったろ、ヴァンピーラだって」
「ば?うぁ?ば――うぁ――。ごめんなさい日本の鬼にその発音はちょっと」
「ヴァンピーラ。カーミラは身体の半分が人間、もう半分が吸血鬼で出来ているの」
お鍋の大根を食べながら、白さんは続ける。
「カーミラにはその身体上、吸血鬼の討伐を此方から依頼しているの。前に話した、人間界に悪影響を及ぼすのは、メイドインジャパンの鬼だけじゃないってわけ」
「身体上って、カーミラさんは吸血鬼討伐に適しているんですか?」
「おう。吸血鬼程ではないけど、身体能力は人間のそれより高いし、吸血鬼の弱点で有名な日光なんかも私には効かない。上手いこと魔道具なんかを使えば、吸血鬼相手にタイマンでも負けないからな」
「で、そんなわけだから、カーミラには吸血鬼討伐の依頼がてら、魔道具の収集もついでにお願いしてるの。カーミラが使わない魔道具は此方が買い取る感じね」
「――なる程。それでさっきの家賃のやりとりや、僕が住んでいるはずの隣人に会えなかったりした理由に繋がる訳ですね」
「貴方。竹輪食べ過ぎ」
「お前、おでんには山葵だろ」
話を聞き、感心ながらおでんをつまもうとしたら、思わぬ反撃が飛んできた。
「いいじゃないですか。白さんにはウインナーがあるんだから。カーミラさん、渋いですね」
「そうか?それにしても、おでんにウインナーはマズいぞ禊琳。苺に練乳かけてるようなもんだぞ、それ」
「え。カーミラさんはアンチ練乳派なんですか?」
「私もアンチ練乳よ。でも、苺とおでんを一緒にしないでほしいわね、カーミラ」
僕と白さん、カーミラさんが、次々に食卓に身を乗り出す。
「大体、最近の奴は何でもかんでも入れたりかけたりし過ぎなんだよ。もっとそのままを味わうべきだ。個人的に許せるのは西瓜に塩くらいだ」
「「はぁ?西瓜に塩?」」
「な――何だよ急に二人して」
「西瓜に塩って何ですかそれ。ただしょっぱくなって、おまけに高血圧街道まっしぐらじゃないですか」
「カーミラあんた、アンチ練乳なら西瓜に塩もタブーに決まってるじゃない。西瓜こそ、苺と同じ土俵で考えるべきよ」
「ふざけろ。だったらあれはどうなんだ。ほら――」
結局、
収集はつかないままひと悶着を繰り返しながら、夜は更けていった。
***
次の日の朝も、僕は白さんの部屋に呼ばれた。
「失礼します」
「おはようございます」
「ういーす」
僕が白さんの部屋に入ると、カーミラさんも呼ばれていたようで、白さんと一緒に台所で朝食の準備をしていた。
「禊琳。味噌汁の味見してやるよ。腕が鈍ってないか確かめてやる」
「あんたに教わった覚えは無いけどね」
「禊琳。この厚焼き卵、味付けは塩か?」
「勿論、砂糖よ」
「塩味を作り直すべきだ。これは私が貰う」
「だったらあんたが作りなさいよ」
「禊琳。昨日のおでんは?」
「あんたが家に来た後、何だか良く分からない話で熱くなって、みんなが摘んでなくなったわ」
「くそ、これじゃ何も食べられないじゃないか」
撤回。
カーミラさん何もしてなかった。
しかも、摘み食いが私の主食ですみたいなことも呟いている。
「あの、僕も何かお手伝いを」
「本当?それならご飯を食卓に運んでくれますか。作る方はもう大方終わってますから」
白さんは、僕に指示を出しながら、テキパキと朝食の準備をしていく。
何回目か分からないけれど、やっぱり白さんは凄い。
白さんに迷惑掛けないように、僕は白さんに任された料理を運んだ。
「禊琳。何か無いのか?食べ物」
「確か冷蔵庫の中に味噌大蒜があったわ。それなら摘み食いしても――」
「うわ、大蒜はちょっと――」
カーミラさん、
大蒜苦手って、吸血鬼の弱点ともろ被りです。
「いただきます。――うん、やっぱりご飯はあったかいのが一番だ。美味い美味い」
「それはどうも。でも、もう少しゆっくり食べなさいよ。もう頬にご飯粒ついてるわ」
「白さん。僕はなんで今朝呼ばれたんですか?」
準備が整い、昨日ではとても考えられない位、和やかな朝食の時間が流れ始めたところで、僕は白さんに尋ねた。
「早速なのだけれど、今日から貴方には働いてもらいます。例の書店でね。それで、初日は私も一緒に行くことにしたのよ。貴方を雇ってくれた人に、私もちょっとした用事があって。それで、一緒に行くなら朝食も、と思ったんです」
「そうなんですか。僕としても、嬉しい知らせです。それなら僕は一足先に準備しないと」
僕はご飯を味噌汁で流し込む。
何を隠そう、僕は朝起きてから顔を洗って、着替えを済ませただけ。髪には寝癖が残ったままで、とても働きに行ける状態じゃない。
が、白さんはなおも落ち着いて
「そんなに焦らなくても大丈夫。お店は9時から。開店まで、まだ一時間以上あります。店長も、そこまで時間に厳しい人では無いので、ゆっくり食べても問題ないです。」
と、卵焼きを口に運びながら答えた。
「でもやっぱり、僕は先に部屋に戻ります。流石にこのまま外出は出来ませんから」
「そうですか。それなら止めはしませんけど、貴方の分の卵焼き、貰っても良いかしら?」
「別に構いませんよ」
「おい、私も貰うぞ。構わないよな」
どうぞ、とカーミラさんに付け加え、僕はそのまま部屋を後にした。
***
「ダメだ――」
僕は自分の部屋の玄関のドアを閉めると、一人溜め息をつく。
ここ数日は生活費を稼ぐということに目がいってしまい、本来の目的である『人間界の調査』について全く進展が無かった。
それに加えて、人間界には想像以上の超人的能力者が生活しているかもしれないというのに、そのことを地獄に報告出来ないままでいるのも問題だった。
どれもこれも、白荘に入居してからというもの、何も出来ていない事を改めて実感した僕は、洗面台の鏡に向かい、髪の毛を梳かし始める。
「取り敢えず、お金を稼ぐ事が第一だよな」
それでも結局は、現状を何とかしなければならない事に変わりは無く、僕は水道の蛇口を捻り、冷たい水で顔を洗った。
うん。何だか気分も少しスッキリした気がする。
***
「さて、それじゃあ行きましょうか」
僕が白さんの部屋に戻った時には、白さんも出かける準備を済ませてくれていた。
「僕に合わせてくれたんですか?すいません。何だか急かせてしまったみたいで」
「気にしないで。このままだと、私も困るのよ」
「はい?」
白さんは無言で隣のカーミラさんに目をやる。
何故かカーミラさんのテンションが低い。さっきまであんなに元気だったのに。
「煎餅で、よりによって甘いヤツをチョイスするかよ、フツー」
「人の家の食べ物を勝手に食べておきながら、ケチつけないで頂戴」
「な、成る程」
部屋に留まりたがるカーミラさんを一緒に引きずり出し、白さんは玄関の鍵を掛けた。
「なあ禊琳。こいつのバイト先に用事があるんだろ?何処に行くんだよ」
昨日と同じ、商店街への道を三人で歩いていると、不意にカーミラさんが訪ねる。
「ん?詠吟の所」
「ああ。なる程」
「えいぎん?」
「そう。あの本屋の店長をやっている研究者よ」
「研究者?」
知らない名前に尚も首を傾げる僕に、白さんは続ける。
「そう、研究者。貴方のバイト先の店長は、人間界で魔法の研究をしているんです」
***
「おはようございまーす」
「はい。いらっしゃいませ――って、白さんじゃないですか」
「私も居るぞ」
「カーミラさん。お久しぶりですね。今日はお二人とも、お買い物ですか?」
「カーミラは暇だから付いて来ただけよ。私は告天子さんに用事があって来たんだけど、呼んでもらえる?」
「分かりました。ちょっと待ってて下さいね」
書店に到着して早々、白さんは店番をしていた、自分と同じ年頃の女の子に手短に用件を告げた。
研究者。
それも、魔法の。
しかも、人間界で。
「ああ。その点は平気ですよ。彼女、私よりちゃんとした結界も軽々張れますから。上から許可も下りてますから、別にアウトローってわけでも無いですし」
道中、これから会う本屋の店長、寧ろ魔法の研究についての質問に答えた白さんの言葉が頭をよぎる。
白さんの知り合いっていう時点で、相手が普通の人間じゃないって事ぐらい考慮するべきだったよなあ。
でも、白さんより凄い魔法を使うなんて、一体どんな人なんだろう。
気になる所だけれど、店長はまだ来ていないようなので、僕は昨日同様、狭い店内を見て回った。
『初心者専用!貴方も今日から魔術師』
『呪いのいろは -藁人形を用いた略式呪術-』
『基礎魔術学 -三十路を待たずに学べる魔術-』
アウトだよ。
魔法の研究がセーフでも、売ってる物が全体的にアウトだよ。白さんが言ってた、人間への影響が完全にアウトローだよ。
「こんな本ばっかり売る書店って――」
僕は、職選びで、とんでもないミスを冒したのかもしれない。
「お待たせー。おはよう、白ちゃん。」
「おはようございます、告天子さん。それと、『ちゃん』つけるの止めて下さい。」
暫くすると、告天子と呼ばれた人が店の奥からぱたぱたと小走りで出て来た。
どうやら寝巻のままの様だ。眠たそうに目も擦っている。
それにしても、
「白さん」
「何?」
「この人が、店長、なんですか?」
「ええ」
「はぁ?」
「どうしたのよ?」
「いやだって――」
僕は改めて、『店長』を見た。
若い。若すぎる。
というか、最早幼い。
店番をしていた女の子が隣に立っているが、一回りは小さい。
「お前、ロリコンか?」
「ちょっ。カーミラさん」
突然、謂れのない疑惑をかけられた。
「だって、さっきから凝視してるじゃないか」
「当たり前ですよ。人間はあんな幼い内から、店長なんて重役についてるんですか?参考までに、地獄じゃ店長なんて、経験を積んだ、実力ある鬼が。駄菓子屋に至っては、ヴィンテージクラスのおばあちゃん鬼が店長って、相場が決まってるんですよ。ちなみに、老いぼれおばあちゃんと呼ばず、ヴィンテージおばあちゃんと呼ぶところがポイントです」
「どうでもいい情報をありがとうな。でも、お前の意見は別に間違ってはいないぞ」
カーミラさんは、そこでにやりと笑った。
僕には何だか良く分からず、再び店長と向き直った。
「今日は、昨日話した新人を連れて来たのよ」
「そうだったんですか。そこの見慣れない鬼の方ですね。先生、期待の新人さんです。ほら、自己紹介しないと」
白さんの話を聞いた店番の少女が、幼女、もとい『店長』を促す。
「あー。キミが新人かー。これは失敬」
店長は一歩前に進み出ると、僕にぺこりと頭を下げて、
「私はこの書店の店長、
鬼。
退魔師。
半吸血鬼。
加えて天女。
なんかもう、とんでもグローバル。
***
「はい、どうぞ」
「はい?」
白さんを介しての自己紹介から十数分。
僕は早速、店番の子と一緒に店番をするようにと指示を受けたが、それからというもの、店内に置いてある椅子に腰かけたままでいる。
ふと、僕の目の前に、湯気を立たせたマグカップが差し出された。
「ホットミルクです」
「え?」
「もしかして、牛乳、嫌いでしたか?」
「いやいや。そうじゃなくて、何で急に――」
「最初にお会いした時とは打って変わって、とても暗い顔をしていたので、少しでも元気になっていただければ、と思っただけです」
「そんなに暗い顔してましたか、僕。何だか気を使わせてしまってすいません。ええと――」
「つぐみ。
そう言いながら、この書店のもう一人の店員である彼女は、僕に向かってにこりと微笑んだ。
「こちらこそ、宜しくお願いします。それと、いただきます」
僕は、鶫さんからホットミルクを受け取った。
そして、息で少しミルクを冷まして一口含んで、
「甘っ」
「きゃっ」
突然の反応に、鶫さんを驚かせてしまった。
でも、しょうがないと思う。
「鶫さん。何ですか、このホットミルク。こっちの世界では、『これ』がホットミルクなんですか?最早これは、ミルクと言うより、温めただけの練乳ですよ」
僕は、極度の甘さで口がしょぼしょぼになりながらも、鶫さんに訴える。
「えっ?そんなに甘かったんですか?それじゃあ――」
「ちょっと、つぐみん。このミルク甘くないよぉ」
丁度良いタイミングで、さっきから店の奥にある母屋で白さん達と会話していた告天子さんが、マグカップを持ってやって来た。
「ごめんなさい。私、この方にお出しする物と間違えて出しちゃったみたいなんです」
鶫さんの弁明を聞きながら、僕は納得した。
それにしても、何て甘党なんだ、告天子さん。
「ん――」
「あの、先生?」
その後、その場で腕組みをしながら何やら考え事をしていた告天子さんは、急にハッとすると、鶫さんを睨み付け、
「さてはつぐみん。このままミルクをさり気なく交換させて、私と鬼に、間接キッスをさせようとしたな」
「「なんでそうなるんですか」」
何だか、一日に一回、僕は誰かにツッコんでいる気がする。
「――ふぅ。やっと落ち着きましたね」
「はい。あと、御馳走様でした」
「はい。お粗末様でした」
あれからすぐに台所へと戻った鶫さんは、告天子さんのミルクだけでなく、僕の分まで作り直してくれた。
「やっと、優しい人に会えた気がします」
「あら。白さんやカーミラさんは優しくないんですか?」
「いや、そうじゃなくて」
つい零してしまった言葉でも、相手が鶫さんだと、初対面にも関わらず、不思議と次々と話してしまう。
この人は、相手を安心させるような、そんな雰囲気を纏っているように感じる。
「みんな優しいですよ。でも、白さんもカーミラさんも、強引だったりする所があるんです。ああ、トイレに幽閉された経験なんか、軽いトラウマになってるし」
「随分賑やかな生活を送ってるみたいですね」
鶫さんはくすりと笑い、そこで一息つくと、
「確かに、カーミラさんにはそういった一面があるかもしれないですね。でも、それはプラスに捉えれば、カーミラさんの行動力や周りを牽引する力として映って見えませんか」
「そうですね。僕はまだそこまでカーミラさんの事は知らないんですけど――」
カーミラさんには振り回されないように気を付けよう。
心の中で、そっと誓った僕だった。
「白さんは、優しい人ですよ。先生もそう言ってましたし。人間界に降りた時にはお世話になった、って」
「お世話になった?」
「はい。告天子さんが白荘に居た頃は、色々と助けて貰ったそうですよ」
「告天子さん。白荘に住んでたんですか?」
「はい。今から十年位前だって言ってました。その頃は、今の白さん、つまり、白禊琳さんのお姉さんがこの一体を管轄していたそうです。その時、禊琳さんも見習いとしてお姉さんと同居してみたいで、仕事で忙しいお姉さんに代わって、人間界のいろはについて、色々と助言して助けてもらったみたいです」
「へえ。そうだったんですか。それにしても、告天子さんはどうして人間界に降りてきたんですか。天女の世界に嫌気がさした、とか?」
「それは少し違いますね。嫌気がさしたというより、寧ろ人間界の興味が強かったみたいです。ただ、人間界で告天子さんは大事な物を無くしてしまったのです」
「大事なもの?」
「はい。名を『
鶫さんはおもむろに店内の本棚から、『異世界生活文化全集』という分厚い本を取り出し、僕の前で開いて見せた。
「この本にも書いてある通り、天女は一人前となる証として、自らの魔力で『天羽衣』を作り上げます。この衣は、ある時は天女が空を舞い、様々な世界を渡り歩く為に、またある時は異世界の術者から身を守る為の防具となりうる重要な物なのです」
本の見開きのページには、衣を纏い、光を放つ天女らしき人の姿が描かれていた。
「なるほど。でも、そんなに大事な物を、告天子さんは何で無くしちゃったんですか。うっかりお店や電車の座席に置きっばなしにしちゃった訳じゃあないですよね?」
「ええ。告天子さんの羽衣は、無理やり奪われてしまったんです。恐らく、人間の手によって」
「人間に、ですか」
「あれ?あまり驚きませんね。天女が人間に負けた、といっても過言ではないんですよ」
「ええ、まぁ――」
当然だ。
僕は、地獄で学んできた『人間』の予想を超えた人間に、一カ月で二人遭遇しているのだから。
僕にはそれが、有り得る話に聞こえてしまう。
「今でもカーミラさんにもお願いして、天羽衣の捜索を仕事のついでにしてもらっているんですけど、さっぱりです」
「もう作れないんですか?天羽衣」
「一人の天女に対して一着までです。また作るには、自身が天女であることを捨てて、もう一度、修行を積まなければならないんです」
そこで言葉を切った鶫さんは、本を閉じると、溜め息をついた。
「天女も大変なんですね」
「お互いさまです」
僕なんかよりも、ずっと凄い人たちなのは、何となく、雰囲気や物腰で分かる。
けれども、僕と似た境遇にあることが、何だか可笑しくて、僕は笑ってしまった。
「あ。何で笑ってるんですか?あなただって今、白さんが奇稲田さんに掛け合って貰っている立場なんでしょう?」
「はい。でも何だか――」
また笑ってしまった僕に、頬を膨らませる鶫さん。
だったが、
「あっ、――奇稲田。奇稲田さん、なんですよね」
「――あれ」
違う。
確かに僕は白さんから、白さんの上司が地獄と連絡をとってくれていると聞いた。
けれど、その上司がどんな名前で、どんな人なのか、僕は全く知らない。
「鶫さん。その奇稲田って言う人は、どんな方なんですか?」
「奇稲田さんは、白さん達、退魔師のリーダーです。
「とんでもない、ですか」
そういえば、カーミラさんが白さんと話している時に、そんな名前を口に出していたことを、僕は思い出す。
それで聞き覚えがあったのか。
「とんでもない方ですよ、それはもう。先生が人間界で暮らすと決まった時も、最終的には、奇稲田さんが了承したから許可が降りたようなものだそうですよ。今では先生と奇稲田さんは仲が良いですけれど、最初に会った時はかなり怖かったって、先生が言ってました」
「つまり、人間界の裏社会を仕切っている組長みたいな方なんですね」
「はい。だからあなたもいつか、奇稲田さんと会う時には、覚悟を決めてから会うべきだと私は思います」
「あはは。そうします。忠告ありがとうございます」
退魔師のトップ。
僕への対処について困っていると話した時の白さんの顔が浮かぶ。
きっと、白さんも色々と大変なんだろうな。
何だか、罪悪感みたいなものを感じてしまう。
『はーい質問。君は生前、どんな事をして来たのかな?ほら、おでん食べながら、地獄のボス、この閻魔ちゃんにぜーんぶ話してごらん。ちゃんと聞いたげるから、ほらほらぁー』
それから、公務中の閻魔様の姿を思い出す。
地獄って、凄く住み易かったんだな。
鬼だもの。当たり前か。
「さて、と。そろそろ仕事をはじめましょうか」
「そう言えばそうでした。僕は働きに来たのに」
完全に忘れていた。
でも、鶫さんと話し始めて一時間と少しの間、お客が全く来なかった事にだって、多少の非があるはずだ。
もっと言ってしまえば、この書店の取り扱う書籍のラインナップに非があるに違いない。
給料、ちゃんと出るのかな。
「元々、元気を出して貰おうと思って話しかけたのに、結局身の上話になっちゃいました。すみません」
「いえいえ。色々参考になりましたから。ありがとうございます。ホットミルクで元気も貰いました」
「それは良かったです。じゃあ、早速仕事の内容について教えますね。資料というか、マニュアルがあると先生が言っていたんですが――」
鶫さんは、レジ台の下にある引き出しを開け閉めしながら、マニュアルとやらを探し始める。
「鶫さんは普段、書店で仕事をしないんですか?」
「いえ、寧ろほぼ毎日私が店番しています」
「なら、鶫さんの仕事内容を教えてくれれば大丈夫じゃないですか?」
「それもそうですね。私は先生にマニュアルを元に教わったもので。融通が効かなくてごめんなさい」
「謝らないで下さい。それにしても――」
ここで、僕は今までの鶫さんの話の節々に感じていた疑問をぶつけてみることにした。
「鶫さんて、告天子とは何時知り合ったんですか?旧知の仲って訳でもなさそうですよね。さっきの昔話も、どうも伝え聞いた風だったから気になって」
「ああ。そうですね。私と先生が出会ったのは5年前です。私は詠吟 鶫。詠吟 告天子によって造られた、
鬼。
退魔師。
半吸血鬼。
天女。
天女の魔法具。
もう、
「――とんでも、グローバル」
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