第18話
激しい音を立てる水に手を突っ込み、水をすくって顔を洗った。冬の水は冷たくて手が凍えそうになるけれど、それを我慢して文字通り頭が冷えるまで顔を洗い続けた。
さすがにもういいだろうと水を止め、備え付けのタオルで顔を拭いてため息をつく。
苛々するとも、もやもやとするとも違うような、表現しがたい感情が胸に渦巻いている。
前髪からぽたぽたと水が滴り落ちるのには構わず必死に湧いてくる感情を。自分を、押さえようとしたがどうにも無理だった。それでも幾分落ち着いた気分で洗面所を出た。
そもそも正面から相原と対峙しようと思ったのが間違いなのだ。俺には相原のすることは理解できないし、きっと相原から見たら俺もそうなのだろう。だからたぶん、真意を確かめようなんてしてはいけなかったのだろう。
ドアを開け閉めする音に相原は振り返らなかった。
座っていたソファまで戻るとようやく、相原がこちらを見た。俺はソファには腰掛けないで、背もたれの後ろから鞄とコートを手に取った。
一つ一つの動作に相原の視線を感じて、いっそ不快な気持ちすら覚える。
「帰るのか?」
相原に問われても俺は返事をしなかった。
俺の聞くことにお前は答えないのに、なんで俺がお前に答えてやらなければならないんだ。瞬間的にそんなひねた気持ちが湧き起こる。
なんだか自分がひどく子供じみているように思えて嫌だったが、せめてもの抵抗として俺は答えなかった。
「髪が濡れてるぞ」
すっと立ち上がった相原が俺の濡れた前髪に手をやった。
「風邪ひくな……っ」
言い終わる前に手を振り払った。
相原は驚いたようだったけれど、すぐに薄く、けれどわずかに別の感情が混ざったような笑みを見せた。何をしても、されても、聞かれても、それでも笑っている相原が小憎らしいと思う。
「お前はどうしたいんだよ。……何考えてるんだ? なんで俺にそういうことをするんだ」
聞いたものの、答えが帰ってくるとは思えなくてそのまま相原から離れてドアへと向かう。一歩踏み出したところで首筋に生暖かい指が触れたのを感じた。
後ろから相原が俺の耳元で声を出した。
「お前はここに来て、俺に何かされるとは思わなかったのか? クリスマスにあんなことされたのに、全く警戒しなかったのはなんでだ。お前こそ何を考えてるんだ」
首にふっと息をかけられて思わず身を竦めると、相原がまた笑ったような気がした。
「お前は俺が何を考えてるかなんて本当は興味ないだろ」
瞬間、心臓が跳ねるのを感じた。自分の何もかもを見透かされたような感じに、さぁっと鳥肌が立つ。
「そんなことは……」
辛うじて出した声は震えて説得力がない。さらに言い募ろうとしたが、相原の方が早かった。
「お前こそ何を考えてるんだ。俺はお前の何だ」
「決まってるだろ……友人だ。だから、……キスとかされたことの意味がわからない。俺にどうしろっていうんだよ。俺はお前のことは友達として考えてる。お前にとっての俺はどうなんだよ?」
何が言いたくて、何を聞きたいのかがわからなくなってくる。頭の中はもうぐちゃぐちゃだ。
「……随分安い友人だな」
はっ、と笑った相原は首から指を離して、言葉に衝撃を受けていた俺の背中を強く押した。よろめいた俺は勢いのままドアの前まで行き、けれどドアに手をかける前に思わず振り向いた。
と同時に相原の冷たい視線に射抜かれる。
「俺が何考えてるかなんて、自分で考えてみろよ」
じっと見つめてくる色のない視線に耐えられなくなって、俺はドアを勢いよく開けて部屋を飛び出た。
なんだかひどく傷ついたような気分になって、けれどそれを認めたくなくて、俺はすべてをごまかすように走って学校を後にした。
家のドアを勢いよく閉めると、リビングから智也が顔を出した。
「玲一?」
「あ……ただいま」
「おかえり。何かあった? 怒ってるみたいだけど」
さすがに智也にはわかってしまうらしい。うまく隠せなかった自分に腹をたてつつもうまく取り繕うことができなかった。今の俺にはとてもそんなことをする余裕はなかったのだ。
「ちょっと相原とやりあった」
「ふーん。……珍しいな、玲一がそんなに怒るなんて」
「そうかな……」
「まぁいいや。どうせ大したことじゃないんだろう?」
無邪気な智也にそうでもないとは言えず、結局「……ああ」と答えるしかなかった。
「七時には夕飯にするから」
「わかった」
靴を脱ぎながらそう言うと智也はリビングに戻っていく。俺は自分の部屋へ上がってドアを閉めた。
ドアに寄り掛かって唇を左手の甲で拭うようにすると、体から力が抜ける。
「くそっ。なんなんだよ」
小さく呟いたが、答えは返ってくるはずもなかった。
□ □ □ □
相原と喧嘩――といっていいのだろうか――をした翌日と翌々日は大学入試センター試験の実施日だった。
桜たちががんばっている間、俺の気分ははっきり言って最悪だった。智也の世話を焼いている間はともかく、一人になると何にも集中できず、しまいにはぐるぐるとあの日のことを考えてしまう。
そうやってあの日のことを思い出してみるものの、具体的に自分が何をどうしたいのかを考えられるわけでもない。
最終的に何をどうすればいいのか皆目見当もつかず、投げやりになる。そんな自分はいけないと思いつつも、積極的に何かをやる気にはならなかった。
そうして、にっちもさっちも行かなくなった俺は今、桜の家の前にいる。
どうあがいてもどうにもならないことに無力さを感じて、ふと誰かに甘えたくなってしまった。無条件に自分を甘やかしてくれる相手など、今の俺には一人しか思いつかなかった。
だから学校には行かずに、自由登校で自宅にいるだろう桜を訪ねて来たのだった。
少しの間だけ家の前で躊躇したものの、思い切ってインターフォンを鳴らす。すぐに顔を出したのは椿だった。
「どうしたの、玲ちゃん」
玄関から出てきた椿は、ぱっと見にもどこかに出かけることがわかるような服装だった。
「椿ちゃんは出かけるとこ?」
「うん。これから陽ちゃんとデート」
「昨日センター終わったばっかりなのに?」
さすがに驚いて聞くと、椿は「うーん」と言って口元に指を当てた。
「正確にはちょっと違って、陽ちゃんとセンターの採点するのー」
「あ、なるほど。もう行くところ?」
「うん、陽ちゃん来たから」
「え?」
不思議に思って後ろを振り返ると、三枝が手をひらひら振りながらこちらに向かってくるのが見える。
「桜ちゃんはいる?」
「いるよー」
「そう、よかった。じゃあ椿ちゃんいってらっしゃい」
「うん、いってきます~」
開けたままのドアから椿は家の中へ声をかけて、三枝の方へと向かっていった。その嬉しそうな表情になんとなく気分が和む。仲良く歩いていく二人を眺めていると、背後から声をかけられた。
「玲、お前学校は?」
「サボっちゃった」
驚いたような顔をした桜に苦笑いしながら言うと、寒いからとりあえず中に入るように言われた。すすめられるままにドアを閉めて玄関に入ると、桜はスリッパを出してくれる。
「おじゃまします」と言いながら靴を脱いでスリッパを履いていると、桜がダイニングの方に声をかけた。
「母さん、玲の分も暖かいコーヒー作って」
「あらあら玲一君」
桜の声にスリッパをぱたぱたと鳴らしながら、百合が玄関まで出てきた。挨拶すると百合もにこやかに返してくれる。
そのまま何も聞かずに桜に「コーヒーは桜の部屋に運べばいいわね?」とだけ聞いてダイニングへと戻っていった。
「とりあえず俺の部屋へ上がるか」
促されて二階にある桜の部屋に行くと暖房がきいているのか温かかった。机の上に本とノートが広がっているのを見て、申し訳なくなる。
「勉強で大変なときにごめんね」
「そんなことはいいから、とりあえずコート脱げ」
無理矢理剥がされるようにしてコートを脱ぐと、桜がハンガーにかけてくれる。礼を言ったところで背後からノックの音が聞こえた。
桜がドアを開けて百合から二人分のコーヒーとお菓子ののったトレイを受け取る。それをサイドテーブルに移動させている間に、「ゆっくりしていってね」と言って百合はドアを閉めた。
ベッドに俺を座らせると、桜は机の側にある椅子に座ろうとした。それを引き止めて自分の隣に座ってもらう。
「…………」
そうして二人の間に沈黙が流れ始めたとき、桜が先に口を開いた。
「どうしたんだ。玲が学校をサボるなんて、よっぽどのことがあったんだろ?」
「……なにもかもお見通しみたいだ、桜ちゃんは」
苦笑を漏らすと桜は困ったような顔をした。
「玲……」
「俺、どうしたらいいんだろう」
とん、と隣の桜の肩に頭をのせると、手が回ってきて優しく髪を撫でてくれる。その感触が優しすぎてずっとそうしていてほしいと思ってしまう。
「どうしたんだ? ん?」
優しい口調の桜はまるで母親のようで温かい。それにほっとしながら、俺はぽつりと話し始める。
「相原と、喧嘩したんだ」
「え?」
俺の答えが予想外だったのか、桜は驚いた顔で固まった。
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