新海誠「天気の子」ファンタジーとノンフィクションの境界にて

 新海誠監督の新作である長編アニメ映画「天気の子」が、ここまで今現在の自分自身にダイレクトに刺さる作品となったことは、正直、まったくもって予想だにしていなかった。それは本当に、現在進行形において……。同時にそれは奇しくも、この9月に入ってからの超大型台風による千葉をはじめとした未曾有の関東平野の災害とも半ば必然的にリンクして、異様なシンクロ感、当たり前のノンフィクション感までをも醸し出してしまったのだから、もはや尋常ではない。こうした文字通りの、筆者自身のたった今の近況や心情含め、公私ともにな、作品の現実世界との驚くべきシンクロ二シティ。それは本作をこうして生み出すに至った、監督自身の表現者としての嗅覚のなせる技なのか、それとも。


 若干なネタバレを含んでしまうが、監督自身、こうした今目の前で起こっている自然災害を自作品のひとつのテーマとして盛り込むことは、ほぼ必然的なことだったと各種インタビューなどで語っている。むしろ、ここへ来て日本を含む世界全体が、文字通り狂ってきているのではないか。そうした狂った世界を見過ごして、形ばかりの大団円や予定調和のハッピーエンドを描くことは正しい選択ではなく、どこか違っているのではないか?という確固とした疑問と見解があってのことだ。


 その狂ったおかしな世界は、ここのところの大規模な異常気象として、そのままの目に見える形での天候そのものの急変として、文字通り多くの人々が一様に強く実感してきていること。夏は猛暑、冬は極寒。春と秋が異様に短く、雨が降り出すと局所的な豪雨となり、台風の被害も年々甚大となってきている。もはや日本列島はモンスーンが猛威を振るう東南アジア的な気象感覚で、かつての緩やかな美しい風情の四季の移ろいを楽しむ余裕は、既に過去の話となっている。


 そうした気象そのものや気候の大規模な変動を無視して、今を生きる人々の心に響く物語を紡ぎ出すことなどできない。NHKなど様々な特集番組の示唆においても、そうした災害級の気候変動などに今後、日本や世界が見舞われることは周知の事実。それはかつての高度経済成長を経て、地球温暖化など、今現在の世界そのものを選択した結果、作り出すことになってしまった世界。これまで多くの大人たちのその選択が、必然的に作り上げてしまった世界。でも、今ここに生きる子供たちや若い世代にとっては、それは全く関係のないこと。


 その選択する余地もなく今という時代を生きている若者たちにこそ、本作はダイレクトに届いて欲しい映画なのだという。作中で主人公・帆高が終盤「天気なんか狂ったままでいい!」と声高に叫ぶシーンがあるが、それは本当に初期の企画書段階から、既に新海監督の思惑の中に存在していた台詞。前作「君の名は。」の社会現象とも言える大ヒットを受け、やはり本作も表向きは、ボーイミーツガールの恋愛的な筋立てではあるが、決してそれだけに終始しないサバイバルな気骨をも含んでいる時点で、たった今という時代性にこれ以上ないほどに即した作品となっており、おそらく前作の「君の名は。」をも軽く上回る、秀逸な良作に仕上がっていることは事実だ。


 離島から家出してきた少年・帆高も、そして彼が出会うことになる少女・陽菜も、当たり前の余裕のない貧しさを伴って都会の片隅に生きている。そして毎日が当たり前のように雨、雨、雨……。が、どこか閉塞感までも漂わせる、その現実にあって奇跡とも思える不可思議なファンタジーは、陽菜が都会の一角の廃ビル屋上の鳥居と小さなほこらを見つけることによって幕を開ける。


 光射すその廃ビル屋上の鳥居をくぐることで、文字通り“晴れ女”の力に目覚める陽菜。そんな陽菜と偶然出会った帆高は、その力を使って当面の収入を得る道を陽菜に提案する。様々な人々の「晴れを願う」依頼の声に応え、局所的ではあるが、雨天の都会に奇跡的な晴れ間を覗かせて、晴れ女の実績を積み上げていくうち、けれどそれは同時に、彼女がこの狂った天気の人柱として選ばれることになってしまうことに他ならないのだと気づく帆高。


「こんなにも天気に人の心は動かされるんだ」「人の心は空とつながっている」――という一種、悟りにも似た感動に、心揺り動かされるのと同時に、それは誰かの犠牲あっての晴れ間という奇跡なのだ、と。その容赦のない真実を知る過程で帆高は、自分にとって本当に大切な人の存在と、その人と生きていく選択をする自分自身の真実をも、自ずと知るのだった。


 今や単純なファンタジーや絵に描いたようなフィクションだけでは、人々の心を容易に動かせない時代。それもそのはず、目の前の現実そのものが優にフィクションを超え、「現実は小説や映画より奇なり」の実感を文字通り携えていることに、すべての発端はある。ただの予定調和や教訓的な大団円の物語では、もはや現実を凌駕するリアルさを実感することはできないと。「こんなのただのアニメだよね」「どうせただの作り話」……別にそれそのものでもいいと開き直るか、ただ冷笑して終わるか。


 本当に人の心を揺り動かすとは、どういうことなのか?これは筆者自身も、現在進行形で各種コンテストなどに物語企画を応募する形で、ずっと思い悩んでいることであり、そうした物語を創作表現しようと奮闘している人にとっては、同様の一大テーマだと思う。これは本当にプロアマ問わずで、言わずもがなの時の人・新海誠監督も、ずっとそのことを真剣に考え続けている一人。大きなヒットを飛ばした一アニメ映画監督としては、確かに尋常でないプレッシャーがその肩にかかっている以上に一創作表現者としての矜持が、その永遠のテーマへと監督自身を向かわせるのだろう。


 今作も映画本編を彩る、新海氏の盟友とも言える音楽アーティストRADWIMPSの歌声が、まるで感動を呼ぶ一個の登場人物の台詞よろしく、劇中の成層圏うちゅうに朗々と響き渡る。「愛にできることはまだあるかい」――これは主人公帆高の心情であると同時に、何を隠そうそれは、様々な創作表現に向かう新海監督自身の切実な心の声であり、それを投げかけられた私たち観客が、様々な現実において想いめぐらす、時代の声そのものなのかもしれない。


 そしてそれは終盤に流れる「大丈夫だよ」という一曲のフレーズに集約していく。「私たちにできることはまだあるよ」「大丈夫だよ」と。そんなどこか明るく逞しく、この閉塞したディストピアそのものの時代をものともせず、どこまでも駆け抜けていく彼らを、ずっと見ていたいと思わせる映画。どこまでもポジティブな、力強い本能と真実に裏打ちされたその選択は、もはやアリなのだ。


 今回の「天気の子」の、どこか切羽詰ったような、文字通りのリアルなサバイバル感。そして、今その目の前に横たわる手酷い現実でさえ、大地を蹴って大空に向かって駆け出すことで、すべて綺麗に払拭できるような爽快感を伴って、物語はラストへと向かって羽ばたいていく。青空に消えた陽菜を追い、帆高は、自らを拘束しようと迫る社会そのものに背を向けて、ただひたすらに逃げ続ける。それは正しくない選択。が、実際は、追って追って追って――空高く天気に囚われた陽菜を追って、あの彼方に必ず広がる彼岸へと、自身の心を開放していく帆高。


 本当にどこまでも晴れ渡った青い空は、奇跡そのものなのだ。それを心深く実感させるほどに、現実とはいつも雨続き。が、空は、その容赦なく広がる曇天の暗く覆いかぶさった灰色の雲の向こう側に、必ず存在している。そうした光り輝く空や雲を描かせたら天下一品の、過去の新海作品における背景美術の美しさも、今回功をなし、その実感の尊さは否応なしに高まる。


 ほんの小さな、何の変哲のない置き棄てられた廃ビルの上に存在する鳥居から、彼の彼女のリアルな実感を伴って広がるファンタジーは生まれくる。日本各地に存在する、天気を操る巫女や晴れ女の人身御供の民話伝承、そして下町の人々の生活に当たり前に今もなお在るお盆の風習のエピソードなどとも相まって、空にのぼる人の魂、天候と水を司る龍神や、そして雲の上を泳ぐ水の魚の存在すら、決してただのお伽噺として終わらない不思議さが。


 本物のファンタジーとは、実は人の心のあるところ、どこにでも存在できるのではないか。そしてそれは今という時代や現実を偽ることなく見据える瞳にこそ、本当の感慨を持って深く心そのものに根付くものなのではないだろうか。ただのフィクションでも、そしてノンフィクションでもない。正しい正しくないということも含め、その不確かな境界線を、本作「天気の子」は、しっかりと捉え、今物語に何ができるのか?我々に何が必要なのかを如実にあぶり出した、たった今というこの瞬間の時代においてこそ、大いに見るに値する作品となっている気がする。

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