『幻影-まぼろし-のルミナス』アニメ化企画書Ⅰ・序文あらすじテーマ
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『幻影-まぼろし-のルミナス』
アニメ企画書
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序文・あらすじテーマ
コージー・カタストロフ“cosy catastrophe”「心地よい破滅」(あるいはポスト・アポカリプス)。いわゆる「終末もの」を謳う作品は、かつて世に数多く溢れていました。がしかし、今現在は「異世界もの」といった世界観がそれに取って代わろうとしている。誰もがいつかは胸に思い描いた楽園。あるいは人類が死滅したあと、新たに生まれ変わった世界で描かれる冒険譚やディストピア。あるいはハイファンタジーといった現実世界が一切描かれないジャンルなども。
純粋なエンターテインメントの世界では、異世界ものには、そうした安定的ニーズがあり、事実人気があるのも確かな真実です。やはり人は今、自分自身が暮らしている目の前の現実をひと時忘れたい瞬間があるもの。それでも、今ここにいる自分自身を支えているのは、そのまごうことなき現実世界であることを常に忘れてはいけないのかもしれません。
その現実世界の鏡であるSFやファンタジーの世界。本当は誰しも決して「ただの夢物語」が観たい訳ではないのかもしれない。その世界観に確かに“今ここにいる私自身”を投影している限り。そう、今ここで生きて呼吸し強く物思う、まごうことなき“私自身”を。文字通り作品の主人公は、誰あろうその“私自身”なのです。その“今ここにいる私自身”の住まう現実世界と、SFファンタジーの非現実的世界観を、様々な作劇のレトリックでダイレクトにつなぎたい。
本作『幻影-まぼろし-のルミナス』は、そうした文脈において、ひとつの物語の中で劇中劇(劇中アニメ)と
「幻影」の意味するもの
なぜ人はアニメーションのキャラクターに心惹かれるのでしょうか? なぜ自分自身とは縁もゆかりもない手の届かないアイドルやカリスマ・アーティストなどに魅了されてしまうのでしょうか? そしてなぜ人はオタクと呼ばれるほどに何か一つのことに熱中し夢中になってしまうのでしょうか。今ではオタクとは、かつてのような自虐的蔑称ではなく、そう呼ばれる本人が胸を張って名乗り自ら率先してその趣味を自由に楽しめるものに。が、事実その昔は、オタク趣味とは世間の目を我知らず憚ってしまうようなものでした。第二次アニメブームが巻き起こった´80年代ですらそうだった。作者である私自身、実はそう。なぜ学校のクラスでアニメ誌を持ち込んで楽しい話題の花咲く輪の中に入れなかったのか。単純に本人の人見知り的な性質や、どこか病的なほどの引っ込み思案な性格がそうさせたのかもしれません。が、どこかで“その世界”を自分だけの「聖域」と考えていたからこそ、気軽に人の輪に入れなかったのかも……?
人は寂しさや過度な孤独の中で、人知れず“光”を追い求めてしまうもの。彼や彼女が閉じこもっている、その闇が濃ければ濃いほど、その光はかけがえないほどに貴いものとなります。そうでなくとも光と闇とは常に二つで一つのセットです。その魂の明暗があってこそ、人の心は生き生きと自ら輝くということを知るのかも。それはおそらく誰しもが人知れず心の奥底に抱えているもの……。光と闇、そして現実と非現実。瑠美那とルミナス。メタフィクション的作風をめざしていく本作『幻影-まぼろし-のルミナス』では、そうした二律背反的な鏡面関係となる様々なダブル・ミーニングをも、作劇レトリックの一つとして据えています。
作中のリアル劇主人公・伊勢崎ナミは、そうした闇を心の病気という形で抱えながら、アニメオタクという趣味を自らに光さす「聖域」として人知れず楽しんでいる、表向き腐女子。そして彼女がオタクという箱庭の中で冷めたような熱いような視線を向ける大人気アニメ「ルミナス・コード」。その作中の世界観は近い未来、海中に沈んだ日本列島のあとに建てられた、文字通り「幻のまほろば」であるイザナギという、新たに生まれ変わったもうひとつの日本を据えています。その新たな日本・イザナギの沖縄諸島に建設されたニライカナイ・ドームに暮らす17歳のヒロイン・金城瑠美那(きんじょう・るみな)。
瑠美那はある日、太陽のごとし強い光を放つ、不可思議な“神”と
その不可思議な太陽神は、自ら名乗ることをせず、畏れとともに強烈な印象を瑠美那の心に残し、金色の残滓とともに消え去ります。この世のものとは思えない、突然の非現実的な出来事。そもそも“神”とは、突然目の前に姿を
その“太陽神”ルミナスは、瑠美那とともに本作『幻影-まぼろし-のルミナス』の劇中アニメ「ルミナス・コード」のもう一人の主人公。鏡の向こうの世界に住むリアル劇の主人公・伊勢崎ナミが、瑠美那同様、心ならずも強く強く惹かれてしまう、文字通り太陽のように強引な輝きを放つ闇より生まれし“ニセの
瑠美那とルミナスが向かった、首都アマテラス・ドームに学び舎のあるアマテラス・ハイスクールの学園生活にて深く静かに繰り広げられる、文字通り“二人で一人”となった瑠美那とルミナスの様々な見えない敵との攻防戦。かつてルミナスと恋仲であった月の神ツクヨミ。そして彼と心と身体がひとつとなった瑠美那のクラスメイト石室聡介。そして傀儡国家イザナギを影から操る大国・神聖ガイアを統べる、光の翼を持つ“白のメシア”――。
“世界”は、いつしか突然にその姿を根本から変えてしまうもの。今、私たちがこうして立っている大地がゆらぎ海中に沈んでしまうことすら、決してただの夢物語ではないのかもしれません。人々がずっと磐石と思っていた大地は常にゆらぎ、大規模な地殻変動をいつか起こそうと、その地中深く熱く滾るマグマを隠している。そう、現実とは不確実な“まぼろし”。
それはおそらく、ただの異世界をも凌駕する、驚くほどの“見たこともない世界”を、実は目の前の今このときに用意してくれるものなのかもしれません。そう、それは好むと好まざるとに関わらず――。
3・11東日本大震災の前後、作者がずっとコンスタントに続けていた『幻影-まぼろし-のルミナス』小説作品の執筆が突如ストップ。年代的に言って同居していた母がその前年、脳梗塞を患いリハビリ介護の必要な半身不随の身に。その数年後、母は持病の心疾患のため他界。そしてその後を追うように相次いで父も逝去。本当にあっという間の出来事でした。
ある意味“あの年”から、世界は少しずつ目に見えない形と速度で姿を変えつつあったのかもしれませんが、現実は虚構より奇なり。身をもってそのことを知り、作品自体を綴ることにさえ半ば疑問を覚え始め……。そしてその頃から、様々に世の中に巧妙に隠された“世界の嘘と真実”を知り。世に言う数々の陰謀論。オカルトの意味合いすら変えてしまうような驚くべき事実。この先、私たちの生きる国でさえ、今まで通りまともに存在することすら怪しい、世界そのものが根底から覆されるような衝撃。まさに現実ほど嘘偽りに塗り固められた“真の虚構”はないのかもしれません。そのため、本当はアニメーションや音楽などのエンターテインメントにも、以前ほど食指が動かなくなり、その存在にも疑念を抱かざるを得ない状況に。
が、それでも歌や物語が持つ力は、決して何ものかに左右されるものではないと強く信じたい気持ちが確かに心にありました。
リアル劇の主人公・ナミは「ルミナス・コード」で主人公ルミナスを演じる、声優・篠崎聡己(しのざき・としき)と出会います。彼は元は映画監督志望であった熱意あふれる若き演技者の俊英。彼にとって恋人である金城瑠美那役の水澤ひとみを文字通り奪ったルミナス・コードは忌まわしき作品。が、それでも縁あって出会ったナミに自身の夢を語る篠崎。心をなくした魂の抜け殻となった水澤を伴い、関東を離れ、遠く紀伊半島は伊勢そして熊野の地で、ナミと篠崎はルミナス・コードにまつわる様々な陰謀に巻き込まれながらも、光と水を抱く熊野古道の豊かな山塊の懐をゆくうちに、人にとって何が大切で何が大切でないかを悟っていきます。
時間という概念をなくしたタイムリーパーであり文字通りの自由人、ルミナス・コード総監督である竜崎悟朗も、おそらく本心では同じことを実感している(ナミ曰く)ダーティーヒーロー。何らかの目的と使命をもってして彼は現在の日本に降り立ち、表向きアニメ監督という肩書きで、ルミナスの脚本家であるリーヤこと円城寺冬華とともに暗躍している。彼もまた熊野の懐に抱かれ、大地をなくしたルミナスのイザナギの
そして暗転し逆転する、善と悪。ルミナスと白のメシア、竜崎悟朗と草薙那由人(くさなぎ・なゆと)。本作はピカレスク的な狙いもあり、まぼろしの神であり、光と闇の二つの側面を併せ持つルミナスという存在そのものにも、ダークヒーロー的な意味合いを持たせています。篠崎にとって竜崎は恋人・水澤ひとみを奪った張本人。そして劇中の瑠美那も自分自身の半身を、その最愛の存在であり畏怖すべき
ナミはそんなルミナス・コードのストーリーに何を思うのか。文字通りルミナス役の篠崎に心惹かれながら、何か大きなうねりの中に巻き込まれていきながら、それでも「大丈夫だよ」と親友・神代未玲ににっこり微笑む。こちらも何の因果かルミナスの脚本家の一人として関わることになった元腐女子・未玲。ただの一ファンでしかなかった彼女らは、次第にルミナスの物語のただ中に取り込まれようとしていく。
日本沈没? そんなのありえない。本当に……?
現実は虚構より奇なり。フィクションとノンフィクション。いつしか
それでも次第に侵食されていく鏡面に、“今この時を生きる自分自身”が何を見るのか。幻が現実を映す映し鏡なら、そのまぼろしに人は光を見出すこともできる……。それが(ルミナス=光り輝くものの意)本作『幻影-まぼろし-のルミナス』のタイトルに込めた意味合いでも。そのリアルとアンリアルを超えた劇的ドラマチックな物語を、虚構の壁を乗り超え、あなたの私の“私自身”の物語としてダイレクトに描きたい。
アイドルやアニメに
本作『幻影-まぼろし-のルミナス』では、裏テーマとして「日本」を深く題材にしたいと考えてもいます。一体いつ日本は日本となったのか。あるいは日本人はどこから来たのか?(天皇・スメラミコト=シュメールの王という説も)そうした日本という国のルーツそのものも含め、出来うる範囲で、グローバルな視点をも伴い、
海と山を抱く龍蛇の国、日本。日本神話におけるイザナギもイザナミも、あるいはアマテラスもツクヨミも、諸説によると龍神であったとか。文字通り、作中で日本の祖神アマテラスを母に持つルミナス(=クマヌクスヒ)は、龍の申し子なのかもしれません。
ルミナスの飼う
そして混迷を極める
腐女子という視点
そうした大きなテーマ柱がありつつ本作で取り上げている腐女子という一つの視点。正直SFファンタジー色からは外れるかもしれませんが、オタク女子を一個の作品アイテムとしてチョイスした時点で外せないという以上に、昨今巷に蔓延る女性性、男性性といったジェンダー的な問題を語る上でも、また日本神話的な視点でそれらを見る上でも、面白いファクターやテーマとなるのかもしれないと思った次第です。
小説版『幻影-まぼろし-のルミナス』では一部、男尊女卑や女性の社会進出などにもまつわるBL(ボーイズラブ)の自由表現という主題で主人公ナミや、その友人・神代美玲というキャラクターを通して腐女子について書いてきました。が、正直に言うと作者の実際の腐女子やBLに関する見解の底の浅さを実感するとともに、逆にそれを俯瞰して考え見てみる視点の獲得にも。結局は腐女子やBLとは、そうした深刻なジェンダー問題などとは一切関係なく「色々とやかく云わないで」という単なるオタク趣味の嗜好の一つでしかないのだと当たり前に思い当たります。
それを決定づけたのが腐男子という存在の登場です。そこには小説版の本作前半にて描いてきたような、BL趣味に至る背景の問題など何ら存在せず「ただ好きだから好き」という単純明快な動機があるだけ。本作では劇中アニメ「ルミナス・コード」の福監督に抜擢された相澤太一というキャラクターにその腐男子の側面を添付し、神代美玲などの腐女子という意味合いに対する一つの新たな視点の相対的な位置づけとして置いています。
ここの所の相撲における女人禁制の土俵しきたり問題やアラーキー(写真家、荒木経惟)モデル告発などの時事ネタとも偶然絡んで、作者自身の中で俄かに光を帯びてきたそのテーマ。ですが、そうした様々な視点が絡みあってこそ初めて腐や男尊女卑ジェンダー問題などの諸々テーマが生きてくるのだと。
劇中アニメ「ルミナス・コード」内でヒロイン瑠美那を翻弄する、“太陽神”ルミナス。そしてルミナスに対する対の存在である月の神ツクヨミ。同劇中アニメにおいて大きなBL要素とも位置づけられている二つの存在であり、それらの対比は光と闇のそれそのものですが、後に暴かれるルミナスの真の
結果、月は太陽依存の存在でしかなく地球上から見てこその稀有な存在。宇宙から見ればただの岩石の塊のような一惑星の衛星でしかない。その意味で月は人の心を強く地上に引き止めるのだと思います。ツクヨミ自身の性質そのもののように、どこかうら寂しく冷たく無慈悲に心変わりもする、けれど思う以上の引力で満ちていくその月の大きさ美しさには、地上人として暮らす私たちの心情に強く訴え掛けるものが。そうした月の神としてのツクヨミの存在は、本来のBL要素として、というより単なる性別を超えた“想い”の形があってもよいのでは、という思いから本来比重をかけて描きたいものでも。
そのツクヨミと一心同体の存在となる瑠美那のクラスメイト石室聡介。彼もルミナスに叶わぬ想いを募らせるツクヨミと同じく太陽側の瑠美那を想い、けれど届かぬ気持ちが闇に落ちてしまう不遇の存在。この瑠美那とルミナスとのツクヨミと聡介の文字通り太陽と月の対比。月側が男子で太陽側が女子であり、日本神話におけるアマテラスとツクヨミの性別ともそれは対応していて、実際に西洋神話などからもイメージされる太陽(男)と月(女)の象徴としての性別とは異なっています。そこに女性の社会進出にもなぞらえた自由原理のアマテラスの象徴として本作では腐女子を位置づけてみようという趣向。
そもそもなぜ女神アマテラス=太陽神だったのか。その議論は作者が過去に様々に読んだ日本神話系の書籍でも、結局明確な回答には至りませんでした。逆にツクヨミは男性神。そもそも天照大神は日本の皇室の祖神で日本人の総氏神様。それを女性と位置づけた所に問題となった先の女人禁制の相撲しきたり問題などとの乖離も見え隠れしており何かが違うのではないかと。
太陽と月という対比は、奇しくもその男性性と女性性の一般的な暗喩であり、双方の確執や性差別的な問題などをその背景として捉えて見ると、そうした問題がいかに地球上の上だけの瑣末な問題であるかが見えてくるのです。が、結果ルミナスとは、ただの太陽神というより、銀河の恒星としての遠大な視点を携えた上で捉えることのできる普遍的な宇宙の輝きなのではと思い至り、その途端心の中で何かが弾けました。それはおそらく、光も闇もすべてを飲み込んだ宇宙そのもの。同時にそれは、生命そのものの
現日本に蔓延る男と女という、人として本来どうでもいい確執や性差別。それは本作にて位置づけている腐の女性原理の開放としてのアマテラスでさえ同根かもしれません。そう考えると銀河の恒星系としての普遍的な視点はそれらを著しく超越しており、後に登場するルミナスの生みの親であり、北極星を如実に象徴させている
さらに、それらとは別に龍蛇神としての見方もあり、それは星としての視点だけではなく、海洋国家である日本を取り巻く海の象徴たるもの。アマテラスやツクヨミ、そしてスサノオやそれらの生みの親であるイザナギやイザナミにまで究極的に遡り「海」という、もう一つの本作における象徴や、その大きなテーマファクターが如実に炙り出されてくるのです。
結果的に後から思い返してみると、本作『幻影-まぼろし-のルミナス』を作者が書くに至った最大の動機とは、リアル劇の主人公ナミそのものにあり、序盤に記した通り「自分」そのものが、その大きなテーマ。世にいう腐女子とはそうではなく、あくまでカップリング同士の絡みを愉しみたいという、明確な嗜好ベクトルがあるのかもしれませんが、そこに実際に投影せずとも自分はきっちり存在しており、そこでその自分自身の思いが動いてこそ、初めて満たされる純粋な
自分一人一人こそは純粋に世界を構成する十全たる大きな要素であり、おそらくその一つ一つがなければ、健全な世は崩壊してしまうのかもしれません。その数多の人の最大公約数としての“自分自身”の象徴を「今ここに生きている、ただ一つの“命”」として主人公ナミに集約させたい。それこそが本企画書前半にて綴った、幻影の意味する「光」ともつながる、何にもかえがたい究極の本作テーマです。
【Project ANIMA(SFロボットアニメ部門)応募企画書・Ⅰ】
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