占いとは、占星術とは―揺らぐ思考の中で
さて、この6月は色々ありました。少し前に「占いの鑑定をやりませんか?」とブログコメントで勧められた元占い師の方のことを少々書きましたが、実はこの方とひょんなことから、他サイトの小説投稿サイトのメールフォームにて色々やりとりしているうちに、いつしか話の雲行きが怪しくなりはじめ……。
この方は西洋占星術の元鑑定士で、今では廃業し、その多くの経験から、かえって「占星術とは人生を破綻させる眉唾ものだ」「占いに取り憑かれた人にはロクなことが起こらない」といったことを悟り、その論調でご自身のブログにおいても、ずっとそのスタンスの様々に興味深いお話を積極的に発信しており、これまで様々な霊能力者や宗教家などの方々に取材した経緯などをまとめたエッセイなども同時にwebにて公開してらっしゃいます。
……まあ個人的には、あまりありがたくない苦言の数々ではあるのですが、確かに一理ある部分もおおいにあり(ちょっと色々言葉の表現などが強引かつ粗野ではありますが、苦笑)最初の頃はむしろ「よく言った!」「あっぱれ!」などと自分自身でも絶賛して、その言葉に爽快なものさえ感じていたのですが。
で、色々とやり取りしているうちに、なぜか「ミナモトさんは占星術界の悪霊に取り憑かれている!」みたいな話になり、そんな思わず「はぁ?」と我が耳(目を)を疑うような発言が飛び出し。占星術界の悪霊……なんじゃそりゃ。つまり言いたいのは私が占いどっぷりで、それに人生のすべてを左右されて自分自身では何も出来ないでいる、ということだと思うのですが。10数年前の一時期は確かにそういうことも個人的にあったかもしれないけれど、でも今は、むしろ占星術とは心理的な距離を置いた上で、なおかつそれを意識的に一つの表現形式として、新たな創作の舞台を構築した上で、占星術をあくまで一個のツールとして活用したいと自分では思っています。
そこが上手くその方に伝わらなかったのでしょうか。何やら私が占い依存症であるかのような断言の仕方をされ、「いますぐ占星術をやめるべきです。ホロスコープも、その手の本もサイトも一切見ちゃダメ」とまで――。そう頭ごなしに言われ、何だか頭に来てしまい(笑)思わずその反動で、これまで絶対に手をつけまいと思っていたツイッターを突然始めてしまったり、そこでトレーニングの一貫として占星四行詩を毎日つぶやこう!などという試みも。ある意味、その方の仰ったことによって、かえって火がつけられてしまったのかもしれません。
そう、占星術ひるがえって占いとは、あくまで一つのツールにすぎない。自分自身が何座だとか、火星や水星がどこにあるとか、あるいは今の星回りがこうだからこうなる、といったことが必ずしもその通りになるとは限らない。ただそれは「そうなるかもしれない」といった可能性の一つにすぎない。私自身も、これまで薄々感じてはいたことだったのですが、そもそも「あなたは牡牛座」とか「あなたは射手座」などと、そんな曖昧なもので頭からその人を決め付けて一体何が語れるというのか。その意味では星占い、占星術の言わしめることというのは、あまりに大雑把すぎ(ずっとそれを齧ってきた私自身ですら)その人自身の本質に迫れるものとは到底思えません。
しかし、そういうことを、これでもかこれでもかと容赦なく突き付けられ、「はて?ではこれまで私自身が信じてやってきていたことは一体何だったのか」という自分自身の根本的概念が揺らぎ覆されてしまうような居心地の悪さも。その方は現行の占いビジネス全般についても強く警鐘を鳴らしています。確かに今、雑誌やwebサイトのあちこちで見かける、そういった諸々占いコンテンツというのは、嵌る人というのはとことん嵌ってしまうもので、それは個人的にも過去に経験がないわけではなく、でもやっぱり「当たらないなー」で終わってしまう程度のものでしかなくて。しかし、この方は長年の鑑定経験において、そういう人をもう飽きるくらい何人も見てきたと言います。
今ではその占いコンテンツ自体も、次第にかつての流行に陰りが見え始め、現在では、むしろスピリチュアルな方向へ舵を切らざるを得なくなってきている(個人的にはスピリチュアルというか、よい意味でのオカルト、マドモアゼル愛先生もよく話に出しておられるフリーエネルギー理論などが密かなブームになってきていると思うのですが)。占いや占星術(スピ系のものも)はシンボル的には海王星の管轄ですが、まあ確かに魚座の時代が終わりにさしかかり、来る水瓶座時代へと人々の意識が移行していく段階の今この時に、そもそも占いそのものに拘泥する意味などなくなってきているのかもしれませんが。
これまで何度か話に出している、この魚座時代とか水瓶座時代というのは、つまり大昔に占星術の理論が体系化された時に、ちょうどホロスコープにおける春分点が牡羊座にあったため、その牡羊座を12星座(サイン)の第一番目のサインとしたのが、そもそものはじまり。ホロスコープでは太陽の見かけ上の通り道(黄道)を30度ずつ12等分しているのですが、時とともに地軸がずれ、そのズレによって現在の実際の星空(コンステレーション)と占星術でいう星座とは、大体星座一つ分くらい隔たりが生じています。この「年差運動」によって春分点は、約2150年ほどで一つの星座を時計回りに後退し、その度に少しずつズレていきます。つまり今この時代では、春分点が魚座の終わりから水瓶座の時代へと移行する、その過程であるということなのです。
そしてそれは、なぜかその時代その時代の特色や時代背景、世相なども色濃く反映し、この約2150年が世界の歴史を区分する大きな尺度となる(鏡リュウジ著「占星術夜話」より)。確かに「そういうものです」とまことしやかに言われれば「そうなんですか」(笑)と納得せざるを得ないのですが、じゃあ今は魚座から水瓶座にかけてなので、その辺りを春分点としないのか?とも素朴な疑問として思いますが、そもそも、それだと12星座(サイン)そのものを決められない。ホロスコープの仕組み自体が決定できない。かといって昔々の尺度を今も適用している、というのにも若干首をかしげる。それこそ「そら、ごらん」という、その元・占星術師の方の思うツボです(笑)。
つまり、その方が言うには、占星術というのは一つの「観念哲学」であると。「それは“そういうもの”である」という一つの固定観念や凝り固まった世界観を一方的に押し付け、それによって間違った尺度の盲信者を数多く生み出している、文字通りの諸悪の根源(笑)なのだと……何だか話を聞いていると、どっちがどうだか(爆)という気もしないでもないのですが、そのくらいの勢いで豪語され。まあ確かに、それでも私自身も、あまり占いにどっぷりでそればかり盲信するというのも、いかがなものかと思いますが。
占星術における星が指し示している事柄、というのは、何度も言うようですが、あくまで一つの可能性にすぎません。そこがあまりに曖昧といえば占星術の曖昧すぎるところであり、一部で占星術は当たらない、と言わしめる部分でもあるのですが、これは鏡リュウジさんも今年出された著書「占星術夜話」(これまで雑誌に書かれた占いエッセイ集)にて書かれていますが、だからこそ、そのいい意味での曖昧さが幅広い自由な解釈を生み、その簡単には白黒つけられない占星術のスペクトラムの幅広さこそが、その世界の魅力であるのだと(以下、引用)。
『占星術は、単に信じる、信じないの対象ではありません。それは宗教や文化や科学と同じように、ある種の世界観ではあります。ただ、占星術では近代に入ってから通常、僕たちが分けて考えがちなさまざまな要素が渾然一体となって存在しており、どこに力点が置かれるかによって、まったく異なる相貌を見せてくるのです』(鏡リュウジ著「占星術夜話」はじめに、より)
そう、決してそれは信じる信じないの対象ではない。『占星術は一枚岩の思考法からなっているのではない。占星術には世界中に存在する自然に関する多数の語り(ナラティブ)が盛り込まれている。注意深く歴史を検証すれば、魔術にして予言体系、また心理的成長の理論的モデルであり、科学的であり霊的な道具であり、宗教にして占い(ディビネーション)の体系でもあり、多面的な存在であることがわかる。定義上、それぞれの面は互いに重なり合い、相互排除しない』――と、ご自身が訳された「世界史と西洋占星術」という歴史学者ニコラス・キャンピオンの著書のことばを上述著書にて紹介されていますが、このキャンピオンのことばが全てを物語っていると思います。
そもそも「占星術とはこういうものである」という断定的な解釈自体が大きな間違いなのです。その意味で、その元鑑定士の方の意見は間違ってはいません。特にその昔の占星術や占いそのものでは「あなたはこうだからこう!」といった断定的な物言いがその中心でした(某・細○○子氏はむしろそれが名物でしたが、笑)。事実、鏡氏ご自身も、その方のブログの熱心な読者なのだとか。
その方は、あまりに星占いや占星術を鵜呑みにする盲信者(占いバカ)が増えていること、そしてそれをビジネスとする側も、自分自身はさして特別、個人鑑定業などに関わってこなかった癖に、高い位置から占星術を標榜して、さも解ったようなことばかり抜かしているのが我慢ならないのだとか。その方が身をもって経験した、様々な人たちの心の悩みに直接耳を傾け、時には精神疾患一歩手前の悩み相談で話を聞いているこちらの気がおかしくなりそうな大変な経験もなさっているから、それは口をついて出た言葉なのでしょうが。そういう血の滲むような苦労すらせずに、占星術を大上段に語るな、と。
その意味でも鏡氏以下、占星ビジネスに従事する方は一見の価値あり、ではあるのですが。が、その方ご自身がその占いビジネスから廃業なさったのは、そういった占いそのもののあまりに間違った偏った部分に嫌気がさしたというのもあるでしょうが、未だにそれにしがみつかざるを得ない心の弱さ、というものを往々にして様々に垣間見てきた末に「本当に自分がやりたかったのは、もっと他にあるだろう?」という、ご自身の根本的な願望というものに気づき。今では、そういった占いに関する様々な評論などを行いつつ、自費出版という形ではありますが、ご自身のかねてからの夢でもある作家業へと転身なさっているようです。
そもそも、占いを志す人というのは元来作家やアーティストになりたかった人というのが圧倒的に多いのだとか。それは確かに。事実、私自身がそうですから。でも私は鑑定士になる気は元々ない。鏡さん自身も、実はそうだということを最近読んだ公式サイトのコラム対談(人気手相観 日笠雅水さんと「占い」を語ります【1】http://ryuji.tv/okaken/?id=72)にて知ったばかりで、ご自身が対面鑑定の経験が全くないということに、むしろ驚いてさえいます。
(なぜ個人鑑定をしないのか?という問いに対して)「単純に興味がないのと、コワイからです。臨床心理士の方とかは、トレーニングをちゃんと受けてるからこなせるのだと思いますけど、僕はそういうトレーニングはうけてませんし。心も弱いタイプだからやられてしまうか、小さいカルトのグルになってしまう可能性もある。だからそれはできない。精神的に強くて強靭なバランス力をもってやらないと無理だな、と思います」
「 人を占うという行為は、気持ちがいいことでもあるんですよ。全能感を得られますから。そして割りと簡単に人をコントロールもできます。僕がそんなことをやりはじめたらすぐ調子にのってしまうのもわかってますからね。あはは。まあ、食えなくなったり、もっと年齢を重ねてある境地にもし行けたらやるかもしれません」
「対面鑑定から発生する、心理学的にいう転移、逆転移という現象も起こる場合も多いです。互いにいろんなものを投影してきて擬似恋愛とかになりかねない。さらにさっき言った全能感ですが、ユング派のグッゲンビュールという人が『心理療法の光と影』という本で、占いやカウンセリングなどいわゆる援助職につきまとうダークサイドのことを深く語っています。この本は全占い関係者必読だと僕は思っています。そういうのをぼくはコントロールする自信はありませんから」
――以上、鏡リュウジ公式サイト・コラムより引用
今、最も占いユーザーから人気の占星ライター石井ゆかりさんも、筋トレという個人サイトを開いたばかりの頃は、無料でメール鑑定(それこそ筋トレ、笑)を受け付けてらっしゃいましたが、それでも実際に対面鑑定を長らくやった経験があるというわけではなく。ですから、その元占い師の方がこういったメジャーな占星ビジネスで活躍されている方々を揶揄なさりたい気持ちも分からないでもない。が、ただそれは選択した占い活用法の違い、いや「方向性の違い」でしかないのではないかと個人的には思うのですが。
誰かの心にすぐそばで寄り添うのか、それとも遠くからその心に働きかけるのか……これは占いだけでなく音楽や小説などすべての創作物全般でも言えることで、これは私自身の経験から言っても、それらの表現媒体によって間接的に人の心に寄り添うことは十二分に可能だと思います。まったく同じことを某作詞家の方も仰っており、音楽のみならず世の創作作品の存在意義というものは、まずそこにある。……そしてそれは占いも。
要はその言葉が直接自分自身に向けて発せられたものであるか否かの違いで、しかし、たとえそうでなくとも何かのヒントには確実になり得る。私自身が占星術を精神哲学であると考えるのも、まずそこにあります。何より、それを一つのきっかけとして何かを考え悩み、結果行動するのは自分自身にほかならないのだから。
そして先のキャンピオンの言葉を反芻してみても、そういったことは概ね、理解できると思います。ホロスコープばかり見ていると、現実社会では不必要な、霊的能力がいたずらに開発されてしまい、その人はあまりに偏りすぎたおかしな人になってしまう。確かに占星術のホロスコープを深くリーディングするということは、そういうことかもしれません。でも、もしもっと違った見地から占星術を見つめ直すことができたら――。
特別、個人鑑定をしたこともない、占星術のおおまかな知識は心得ているけれど、それはあくまで大雑把なものでしかない、ホロスコープ自体をそこまで細密に読めるわけでもない……たぶん私のような人間が曲がりなりにも占星術というものを標榜して、それをいくらか大幅にアレンジしたものでも、それによって何かの世界を片手間に形作ろうとすることほど、おこがましいことはないかもしれません。でも、それだけに。
この元鑑定士、占星術師の方との対話、そしてその出遭いがもたらしたものが、かえって今の自分自身に自信をくれたような気がします。あまりその世界に埋没し、いたずらに盲信してしまうのではなく。一歩引いて客観的な視点で、占星術という一個の世界観において何ができるのか、ということを模索する。それこそが彼女自身が本来めざしてもいる、作家業的なものやアーティスティックな創造(想像)の世界へとも繋がり、その新たな世界へと導いてくれる。
占いそのものができなくてもいいのです、たぶん。ただ、それそのものを勉強し、そして自分自身の中に取り入れる過程で、何が得られたのかということ。それは単なる知識ばかりでなく。そして、占いそのものに自らが取り込まれるのではなく、むしろその逆で占星術そのものを自分自身がコントロールする。これまでこちらでも様々に書いてきた通り、私自身占星術に一種の「精神哲学」の片鱗を見つつ、様々な思考を経て、そこから描き出されるものを自分なりの解釈で表現していきたいと考えています。
そう、その「星のカルテ」が教えてくれたものを土台にして、羽ばたいていこうとしているのは、自由そのものの自分自身の翼に、ほかならないのだから……。そして着地点は、何も占星術そのものでなくてもいい。むしろ、それを心強い脚力として用いていく中でめざす地平は、もっと別の世界。
――それは案外、その言葉やイマジネーションを心の糧として必要としてくれている、まだ見ぬ「あなた」へと向けて発せられていくものなのかもしれません。
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