光差した作詞講座
色々と取っ付きづらい
忘れもしない’96年春、それなりの額の退職金とともに7年間勤めた会社を退職し、その時ほど晴れやかな気分だったことはなかった。それから半年ほどは雇用保険を受けながら、文字通りの心身の自由を満喫していたのですが、当然、次の仕事をみつけるための転職活動をしなければならず……結局は同じことの繰り返しですね。
それでも失業保険を受けながら職業訓練が受けられる(実際はこの雇用保険継続目当てだった、失笑)職業訓練校にて、ワープロなどの事務系が一杯だったので、なぜか旋盤CADの研修などを無駄に受けてました。それでさらに半年。その後4年ほど、半導体関係の工場に簡単な組み立てのフルタイムパートで勤めましたが、こちらは仕事自体は全く辛くはなかったものの、やはり対人関係がよくなく本当にただお金を稼ぐためだけに通っていたけれど、結局会社側の勝手な都合でリストラ。
やはりまだまだ自分本来の資質を活かせるような天職めいたものにめぐりあえるわけもなく……。結局、世間体的なものに縛られつつ適当に職に就きながら、ぷらぷらしている他なかったということで。そんなこんなで気づけばもう30代。当然、結婚などにも食指が動かず、まっとうな御縁自体もありませんでしたので、本当に今後どうしたものかというところでしょうが、でも当人は結構気楽で、とにかく無難に働きつつ余暇は自分の好きなこと(占い、アニメ、音楽……笑)などに没頭。
が、しかし、その30歳前後というのは個人的に忘れもしない得がたい時期であり――。
そう『松井五郎の通信作詞講座BIGEN THE WRITE』を受講。そもそも作詞講座と言っても、本格的に作詞家をめざすのか趣味でやるのかでは大きな違いがあり、自分自身では、そういった大それた思惑で別に始めたわけではなく、とにかくただ「やってみたかった!」の一言でした。実際それでプロの作詞家になれたわけではなかったですし、それに準ずる何かの資格を得られたわけでもない。それでも、それによってプロとか何とかいう表面上のことばかりではない大きな糧を得ることができた。
それは何より自分自身の価値の新たな再認識とそのめざめ。以前の若かりし頃の自分は「絵を描く人」という個人的な内外での認識があり、ただそれも短大以降ずっと途絶えたまま。途中でやめてしまえば筆も鈍るというもので、でも特にそれだけをやりたいという明確な意思もなかったので、それほど気にしてはいませんでした。が、この作詞講座と出会ったことは、私自身の新たな自己実現の道を確かに用意してくれたと言っても過言ではないかもしれません。
二つ前の節でも書きましたが、既に「松井五郎」というだけで目が釘付け(笑)。高校時代にファンだった安全地帯の楽曲のほぼすべてを手掛けていた作詞家の中の人――当時ガチでリーダーの玉置浩二氏に惚の字だったのは、何も玉置氏自身の魅力というより、その魅惑的なヴォーカル、いやむしろ楽曲それ自体や、その音楽性そのものの魅力が大だったのであって、それも知らず知らずに心を鷲掴みにしてしまう、音楽というものの海王星的魔力の不思議なのだろうと。
高校卒業後(安全地帯的には5枚目のアルバム『安全地帯Ⅴ』を最後に)は、すっかり御無沙汰してしまい、むしろ自分としては、それ以外の様々な音楽に次々移行して文字通り卒業してしまった安全地帯。が、その後にその様々な音楽の世界を興味の赴くまま梯子していたことが功を成したのか、その過程で何度かその名前を目にする度、やはり只者ではない感が頭をもたげていき……。
安地時代も感じてはいましたが、独特の言葉づかい、そしてユニークかつ斬新な詞の発想。確かに普遍的な詩の持つ叙情性や情景の浮かぶ美しい言い回しなどもですが、それぞれワンフレーズの中に置く言葉自体の絶妙なチョイス。さらに書かない行間をいかに際立たせるかなど、そういった微妙なさじ加減や作品全体からテーマ自体を如実に浮き彫りにする作詞のセンスというものを、かなりの度合いで学び最終的に自分自身の血肉にしていったかもしれません。
それは具体的に作詞講座云々というより、見よう見真似でほとんど独学的に自分自身の勘を頼りに会得していったものと言ったほうがよいかもしれないけれど。
やはり好きこそものの上手なれ?の言葉どおり、別に作詞家になりたいとか具体的にめざしたいといったシビアな問題はさておき、とにかくどうしたら書けるのか、どう真似したら(笑)ああいった歌の世界を形作れるのか。そういう実際の作詞の作業自体を純粋に突き詰めたくて自分なりに苦心しつつ、とにかく試行錯誤(同じ頃、注目していた声優の林原めぐみ氏も、自身の作品でプロ顔負けの作詞作品を多数手がけており、そちらの刺激なども大いにあったのですが)。
講座内で何度か主催されたセミナーには結局一度も参加しなかったし、二度に亘って出版された「優秀作品集」なるものへの掲載などとも無縁で、同じく講座内にて希望者および優秀な受講生限定で開かれた創作塾的なワークショップにも当然応募しなかったので、あまり積極的な受講生というわけではありませんでしたが、それでも「曲先課題に詞がつけられる!」というワクテカな(笑)コンペには何度か応募参加。
……本当に「ガラスの仮面」の主人公マヤの気持ちが如実に解るというもの。才能も勿論ものをいうでしょうが、それより何よりどれだけそれを楽しめるか。具体的に将来的なヴィジョンを描いて、それなりの自分自身の戦略を持って挑んだわけではないけれど、この作詞講座は、そういう気持ちで純粋に作詞の面白さに没頭できた、本当に得難い機会でした。
そしてまさかの松井五郎氏自身が出演する同ラジオ番組『BIGEN THE WRITE』(文化放送にて毎週日曜夕方5時放送)にてダメ元で投稿した詞先および曲先課題が立て続けに採用されてしまい、実際に自作が曲に乗せて歌われ朗読され――これには本当に驚きました。忘れもしない’99の2月28日。実際に採用された作品やグランプリを取ったのは例の優秀作品集にも掲載されていた、文字通りのプロ予備軍である才能のある受講生の方ばかり。その中でまさか自作が発表されるなど夢にも思わなかった。
結局その2作品にてノミネート賞をいただき、それだけでも感無量だったのに、その後、本家の作詞講座自体で主催された第三回目のザ・コンペティションにて新たな曲先課題が、これまたまさかの最終選考に残ってしまい。実はラジオに投稿した二作品ともに作詞の世界観の発想は当時夢中になっていた某アニメ(ガサラキ、笑)の自身による二次創作小説を元にしたり過去に好きだった音楽アーティストの雰囲気を想定して……さらにこのコンペの作品も、同時期に放送していたアニメ(因みに「無限のリヴァイアス」という作品のサブキャラの二人ブルーとユイリィをイメージしました、笑)が元ネタとか、かなり好き放題やってましたが、それが功を成したのか何なのか、普通に発想したのでは考えつかないような作品が書けてそれが受けたのかも。
結局何人いたのかわかりませんが、最終選考残留者には講師直々TELを下さり、作品リライトのためのアドバイスをいただけるとのこと。……という連絡を時前に改めて日本通信教育連盟(のちのユーキャン)のスタッフの方からいただき縮み上がりました(笑)。まさに嘘だ嘘だ、これは夢だの世界。そして4月某日、運命のその日を迎え、夜半10時すぎ頃だったでしょうか?電話機の前で全裸待機(のわけがないが心境的にはそんなカンジ)で、どこからともなくいきなりかかってきたTELを取ろうかどうしようかと一瞬躊躇。わーやばい。本当に本人こんなひとなので文字通り心臓バクバク。
でもねぇ。……だからって本当にそんな結果になろうとは。あの艶渋なお声のラジオでの軽妙?なトークとは裏腹に実際の五郎さんとの会話がもたらしたものは、直後の思わぬショックそのものが端を発した自分お得意の悲観モードまっしぐら。因みにその講座内コンペはノミネートされた何人かが作品ともに実際にレコーディング現場へ参加し、その場でさらなるリライトを松井先生(笑)とともに進める中で、実際の作詞家の作業というものを実体験して貰おうという趣旨のもの。
が、そこでもう私は心理的に大きな壁にぶち当たってしまい(実際問題、独り上京するのってどうやって行けばいいの?みたいな、大したこともない問題で悩んでいた、笑)何というか、ただもう色んな意味で「私には無理」だと……それくらいの強いショックを受けた衝撃そのものの未知との遭遇だったのでした。それまではまるで雲の上の人のような、本当にいるんだかいないんだか分からない、あちら側の世界と一瞬にして時間と空間がつながってしまった――。それだけで既にありえない事実で。
実際、私の緊張は最高潮に達し、相手が何を話しているのかも理解できず(耳と頭がつながらない)電話中も、ただ頭がぼーっとしていたかもしれません。すると次の瞬間、いきなり噛み付くような一言。唐突に空気が凍りつきました。何を言われたのか失念したけれど「ここを書き直せばいいんですね?」と神妙に答えると、打って変わって返って来た優しい声。ほんの15分かそこらの会話でしたが(今からもう16年も前の話)あろうことか、その後日自ら辞退してしまったコンペ自体は、結局グランプリ該当者なしで、その時のやり直しというリライトをまだ返してないな……などと、時折未練がましく思い返したりもしています。
結局その時のリベンジで(笑)作詞講座自体は二度も受講してしまったのですが(因みに二度受ける人というのは熱心な受講者の中では珍しくないこと)自分でも、あまり納得のいく結果ではなかったな、と。返って来た講師自らの手による添削文に添えられた受講生カードの認定スタンプ?はかろうじてGOODのその上くらいでしたが。ゆうに一万人はいたであろう受講生全員の作品をきちんと精読した上で、その一つ一つにきっちり熟考した言葉を返して下さっていた、ということを考えると既に頭が上がりませんが。
が、それで火がついたのか、その後、安全地帯の非公式のファンサイト掲示板でニアミスしたり会話を交わしたり、どういう経緯か忘れましたが直々にメールをいただいたり。その時期、個人的には結構な蜜月でございました。ご自身でも実際の作詞業の傍ら、その頃ポエトリーミュージックなるもののプロジェクトを推し進めており、その熱意が飛び火したのか非公式で名前を出さず、ご自分の創作サイトなどを立ち上げたり。たしか’04年頃だったと思いますが、突然お誘いのメールが来て、希望者対象に作詞は勿論、言葉の創作のWebワークショップを開かれ、漏れなくそれに参戦したりもしてました。
要するに実際の指標としてはその舞台を前提としたものだったでしょうが、結局プロとかアマだとかいう次元の話ではないんですね。突き詰めれば一番大事なのは、結果よりも、いかによい作品を残したいと思うか。数字重視、利益重視のプロの世界では通用しないことかもしれませんが、何よりまず「面白い作品を書きたい!」ということの情熱に尽きる。氏のようにプロの世界で活躍していても、時折その世界の
そういった過去の作詞講座での自分なりの体験は今でも決して消えることはなく。確かに作詞講座というか「作詞家養成」講座だったなと、結果的にその音楽業界のプロのやり方とは異なる方法もあるのではないかと、個人的に半ば反面教師的な位置づけとも思える職業作詞家の現状がまずあり(結局私は作詞家になりたいのではなく、純粋に「作詞がしたかった」)それとは、むしろ違う方向へ自分自身としては向かっているのでしょうが、それでも私が氏から受け取ったのは、作詞のやり方以上に、もっと上位の創作そのものへの熱意やその取り組み方におけるメンタルそのものだったのだろうと。
そして何より生きる希望を受け取ることができた――。
当時、私自身の作品についてお世辞ではなく、どれだけの感想を持ってらっしゃったのかわかりませんが、それでも存在をみつけてくれた、そのことだけは唯一無二の希望の星。そのことが切っ掛けとなって、私は私の夢を追いかけるだけの自信を持つことができた。だから、たとえささやかな過去の経歴であっても、それは私自身にとっては消えることのない輝かしい勲章。それは同じ時代にこうして呼吸し存在している、という紛うことなき、かけがえのない真実でもあり。
それはたぶん、奇跡の光……まぶしすぎるその光跡に驚き、そして思わずたじろいでしまった。でも確かに私はあの時、手を差し伸べたのだ。それがあったからこそ今がある。たしかに返って来たアンサー。そのかけがえのない存在の懐かしさと嬉しさとを忘れない。
光は救いの見えない闇の中にあってこそ、これ以上なく最大限に力強く輝く。そして、どれだけそれに勇気づけられ、自分が自分であることの真実と喜びとを教えられるのかわからない。悲しみと苦しみの檻の中でしっかりと掴んだ、その星屑の欠片。それは誰のものでもない、私自身が受け取った、私自身のための唯一の大切な贈り物なのだから。
……数日前の連休中、二度ほど真夜中に声のない相手不明の電話が。あれは誰だったか。何を言いたかったのか。ちょうど私自身の48回目の誕生日前だったけれど、どことなく何かの懐かしい感覚を思い出しました。
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