胸の傷跡とパンドラの函
ある意味自分も、すべての行動の原動力は劣等感から来ているものなのかもしれません。
それは創作全般の意図として……。前回、最後に付したマドモアゼル・愛氏のブログ記事内で語られていたことが、図らずも私自身にも当てはまる。それは喜びを元としたものではなく、基本的に自らの保身、絶対的な安心感を得たいがための行為?
それは自分自身としては非常に本意ではない事実なのですが、事実は事実、本当なのだから仕方ない。とにかく「あの人が出来ているのに、なぜ自分は」「あの人にも出来るのだから、私にも出来ないはずがない」よい意味で幸い模倣の才能もあったせいか、そんな思いで色んなことを見よう見まねでやってきました。
私自身と生年月日が同じ菊池桃子さん。思えば、彼女の存在は一番の「不本意」の象徴だったかもしれません。全く同じホロスコープを持っているのに、彼女と私とでは、なぜこうも違うのか。勿論、生まれた場所も違えば両親も違う。そしてよい意味で人としての性質自体も異なっているところも多々あり、それはあながち天と地の差、あちらがよくてこちらが悪いという単純な話ではない。
それなのにそれが不要なコンプレックスの元となっている。彼女自身を強く意識し出した、全く同じ日にち生まれであることを知った30年ほど前、『どうしてあなたはそんな風に柔らかく微笑んでいられるの?』というフレーズを彼女の似顔絵の傍ら、ノートに書き記したことを思い出します。
その時からずっと自分はコンプレックスの塊で、それは相手が芸能人だからとか、大人気のトップアイドルだから、といったこととは全く別次元の問題でした。あれほど輝いている人がこの世にいるのに、なぜこんな理不尽な不公平さが生じてしまうのかと。彼女自身に限って言えば、同じ日に生まれた、同じ人間なのに、どうして――と。
その切ない想いが今でも、シクシクと痛む古傷のように胸に残っている。
その未だ痛む傷跡を、まるで綺麗に塗り固めて全て払拭したいのだと言わんばかりに様々な夢を持ち、自分にはまだ発掘していない新たな可能性が眠っているのだと辛抱強く言い聞かせる。だってそうしなければ、負けてしまう。自分は何の取り柄もない、つまらない人間でいつか終わってしまう。きっとそんな強い思いが届いてしまったのかもしれません。
それはおそらく私自身のホロスコープにて社会的キャリアや天職などを示す10室に土星が鎮座している所以なのかもしれません。嫌でも何か後世に残ることをやり遂げなければならない。そんなどこか強迫観念的な思いを消し去ることができない。無意識のうちに、いつの日も、そんな思いに縛られているのかもしれず。
確かにアレは私自身にとっては思いもよらない、驚くべき出来事だったのですが、17年ほど前に作詞家の松井五郎さんに、私自身の作品を評価していただけたこと。作詞講座自体の成績はそれほどでもなかったけれど、関連ラジオ番組にて二度の作品紹介とノミネート賞受賞(因みに3万円の賞金をいただきました、笑)そしてさらに後年続くポエトリー・リーディング関連のwebラジオでも、自作の朗読採用。
そして、まさかのコンペ最終選考過程でのご本人とのTEL会話。
思えば未だにそれらの一連の出来事は、私自身のささやかな勲章と言えるものかもしれません。ああ、びっくりした、という素の自分自身での本音は、まさしくそれそのもので、でもジワジワと自作への自信のようなものが一作ごとに湧き上がり……。それは今に至るまでずっと一続きの階段のように続いており、これは奢り的なものでも何でもなく、今ならあの時より、もっとずっと上を行く作品が書ける自分自身になっているのでは、と。
どれほど長い時間がかかろうと、その階段を一段ずつのぼっていく過程で、様々に自分自身が得ていくものは、何も創作的な鍛錬で得られるものばかりでなく。きっと様々な思いが、時にこうして後ろを振り返りつつ胸に去来する中で本当の夢の真実というものを垣間見せてくれるのかもしれません。
同時にその自信こそは、上の方で触れている自分自身の内に眠っている可能性が掘り出されたことで湧き上がってきたものでした。それそのものは間違いなく、私自身の土台を固めている大事な柱、中心軸とも思えるもので、それがあるから私は私として自分自身のコンプレックスに潰されずにいられる、桃子さんと私とは全く違う。その自分自身だけの唯一の存在証明のありか。
それは別に桃子さん自身だけに限ったことではないけれど、世間の称賛を一身に受けているように見える、あの人やこの人にだって自分は決して負けてない……。誰か気になる相手が現れる度に、そんな風に勝手にライバル視して一喜一憂しつつ、常に自分自身を鼓舞しているようなところがあるのかもしれません。
それはある意味で、ただ単体に自分の純粋にやりたい夢を追いかけているのではなく、ある対象を意識してこそ燃え上がる情熱。それが悪い方向へ行くと単なる自意識過剰や酷く恨みがましい劣等感そのものになってしまうのですが、自分自身の気持ちに、あながちそういった癖があることは否めないことかもしれません。
小説執筆や占星術、そして作詞(詩作)。さらには最近では作曲の勉強まで。時々自分がどこへ向かおうとしているのか分からなくなる瞬間が自分自身でもあるけれど、どちらにせよ、まだ夢の途中。そして一つ一つの作品などを自ら生み出していく上で、欠かせないのが、やはり世の既存作品から受ける大きな感動と刺激でしょう。
音楽でも何でも、様々なものから感動を与えられ、それが切っ掛けで心に言葉では言い表せない何かが湧き上がってくると、もう止められない。それが作詞の場合だと、最短距離で推敲含め一晩くらいで一気に曲先作品を書き上げてしまったりも。自身のブログ(『星詩-ほしうた-暮らし』)にてアップしていますが、最近では久石譲氏の曲に詞をつけた作品を一気に二曲ほど。これは自分でも結構イイ線行っていると思うのですが(笑)。
世の中には様々な表現媒体や既発作品があふれており、ただアンテナを張り巡らせ心を研ぎ澄ませているだけで、自分自身の創作意欲を増し感銘を受けることのできる素晴らしい機会が、そこらじゅうに転がっています。大事なのはそれらを受信する自分自身の感性と、そこからどう自作へと昇華していくかという創作自体のセンス。そして何より様々な物事に感動することのできる感受性そのもの。
が、純粋にそういった課程を辿っていくことができればよかったのですが、自分自身の中のコンディションや周辺の状況などがなかなか折り合わず、夢の進捗具合が捗々しくなかったりすると、つい余計な外野の物事が気になってしまいます。決してよそ見せず、純粋に自分自身の夢だけ追いかけていられればよいのでしょうが、人間弱いもので、そうとばかりも問屋が下ろさない。
そして、そういう状態になると、つい過去の受賞歴などの自分の実績ばかりにこだわってしまったりします。時にはそういった過去の自分を振り返り、今現在の自身の糧とすることも大切ですが、それも行き過ぎると過去の杵柄をなんとやら、という状態になりかねません。
特に「自分には何かができる」「何かの力がある」などと一旦思い込んでしまうと、それだけに何やら引っ込みがつかなくなります。前回書いたように、確かにプロと呼ばれる人々は、そういった自己過信に時に陥りがちで、それと同時にそういった、いわゆる自己暗示によって自分自身でも思いも寄らない力を発揮したりもできるのですが(これはイメージ戦略や火事場の馬鹿力的なことで説明できるでしょう)。
前々回くらいに「冥王星バイアス」ということを書きましたが、上記のような状態がまさにそれです。占星術において太陽系の最果ての星、冥王星は、物事の究極や「ゼロか100か」という両極の絶対的な力を司ります。核プルトニウムや原発などのイメージが最も分かり易いかもしれませんが、死と再生を司るこの星の究極性は、人知の及ばない領域での無窮の力そのもの。
それらを時に人が盲信すると、先の「自分には何かができる」「自分は大きな力を持っている」といった自己暗示にかかってしまい、現実的な大きな権力を発動したり、そういった支配者的な考えに陥ったりしがち。これをマドモアゼル・愛氏は「冥王星バイアス」と仰っています。
近年様々に日の下に晒されつつある、ここ数年の世界の出来事により垣間見られる世の目に見えない権力者の斜陽の末のあがきこそは、十年ほど前に惑星から衛星に格下げとなった冥王星そのものの姿であると――。
前回、その前に書いたプロについての考察について、色々と言い訳がましいコトをこねくり回して書いてしまいましたが(笑)考えてみれば、プロの存在とは、この冥王星バイアスそのものかも。
結果的に人はプロという言葉に弱く、それがものすごい力を持っているのだと暗黙のうちに騙されがち。まさか騙されているなどということすら思いも及ばず(無論、騙す方も自分が誰かを騙しているなどとは微塵も思わず)誰もが知らず知らずにその権威的なバイアスに感化され、それにひれ伏さざるを得ないのです。
結果的に夢や理想ですらも、そのバイアスに乗っかった上での妄想行為かもしれず。それでも、だとしてもその夢を心の支えにして生きていくしか術がないのが人というものかもしれません。まさに「信じるものは救われる」――。
そしてその自分自身の信じる夢を確実に実現するためには、乗り越えていかねばならない現実的な物事が一つ一つあり、けれどその過程で思わぬ迷い道なども多々あり。
私自身、自分自身のルーツのような根の部分に、やはり某精神疾患(社会不安障害)から来る様々な葛藤や精神的苦痛があり、それらのコンプレックスやマイナス思考なども元はと言えば、そういったいかんともしがたいコトから端を発しているのかもしれませんが、だからこそ自ずと気をつけなければならないことも多いのかもしれません。
その“パンドラの函”から何が飛び出してくるのか分からないのだから。
どことなく革命の星・天王星っぽい所のある、その突発的なイレギュラーは、よくも悪くもな部分も無きにしもあらずで、それこそそれを扱う人間の意識によっていかようにも結果は変わってくる。意識、そうすべては自分自身の意識がどこへ向かうのかにかかっている。
願わくば、創作の喜びのためだけに、そしてそれを世の誰かと分かち合うために……。おそらく生み出す作品や仕事が「自分自身のもの」だけではない、ということを名実ともに知る瞬間が訪れれば、自ずとそれを実感することができるのでしょう。
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