秋
燃え、揺らぐ白
「おはよう」
寝ぼけ眼の私に、新聞から顔を上げた彼がにこりともせずに言う。私も「おはよ」と短く返し、すぐに顔を洗いに行った。さっぱりしてリビングに戻ると、私の分のコーヒーが差し出された。
いつもの朝だ。朝からキスをするわけでもなく、「愛しているよ」の甘い言葉もない、変哲のない日々。
こう見えても、結婚するに至るには燃えるような恋があった二人だ。今では信じられないほど、淡々とした毎日だけれど。
元々、私は別の男と同棲していた。その男は性格も体の相性もよかったけれど、酔って暴れるのが玉に傷だった。どうも仕事の鬱憤やストレスを私で晴らしていたようだった。そのくせ、給料は安く、私が大黒柱になっていた。何度も別れようかと悩んだが、それでも普段の温厚さと、私を殴ったあとの彼の落ち込みようにほだされて四年も一緒に暮らしていた。
けれど、次第に私は理想と現実の狭間でぼろ雑巾のようにやつれていった。同じ年頃の女友達は次々と結婚し、たまに旦那の愚痴など言いながらもなんの心配もせずに笑って暮らしている。
彼女たちだって、口にしない苦労もあるはずだ。けれど、そんなことに気づく余裕もなく、私は妬ましい気持ちに苛まれ、同時にそんな浅ましさに自己嫌悪してばかりだった。
職場でも「どんどん痩せてるけど、大丈夫?」と、声をかけられるようになった。けれど話せるわけがなかった。誰がこんな重い話を面倒がらずに聞いてくれるだろう。それに、誰に言っても「別れろ」という一言で済む話だと、自分が一番わかっていた。なにより、そうしたくないから苦しんでいることを、誰が理解してくれるだろう。
確かに私は彼を愛していたのだ。けれど同時に憎んでもいた。どうして彼は普通じゃないんだろう? どうしてささやかな変哲のない暮らしが私たちにはないんだろう? 全部、彼のせいだ。そう思い続けていた。
あの頃、私の心の中には、いつも彼岸花が無数に咲いていた気がする。めらめらと燃え、揺らぐ真紅の花が薄暗い心の底から昇ってくる。その花を愛でても、毒があることはわかっている。花瓶にいけておくにはおすすめできない。けれど、それでも我が物にしたかったのだと、今では思う。
そんな毎日に変化が訪れたのは、もうすぐ夏が終わる頃だった。
帰宅する途中の電車が事故で止まってしまい、私は混雑する駅で途方に暮れていた。
「困ったな。晩ご飯間に合わないかも」
ダイヤの復旧にはどう見積もっても数時間かかりそうだ。彼に電話をすると「えっ? マジかよ。まぁ、いいよ、コンビニで飯を買うから」と、不満げな声だった。
「車で迎えにこれない?」
「無理。これから出かける」
ぶっきらぼうな声が返ってきたと思ったら、電話は一方的に切られた。
「なによ、その言い方」
このとき、私の彼岸花は無残に押しつぶされた。
仕事が終わると、真っ先に家に帰って晩御飯の支度をするのが習慣だった。彼が不機嫌にならないようにおかずを多めに、味噌汁は必ず熱く。
だけど、彼は私になんの気遣いをしてくれるのだろう。そう思うと、虚しくなってきた。
鉛のように重いため息が漏れ、私は駅前通りをあてもなく歩いた。
ふと、本屋を見つけてぶらりと立ち寄る。どのみち復旧を待つなら、本でも読んでいたほうが、気がまぎれていい。初めて入った店だったが、大手だけに品揃えがよかった。
学生の頃は本が好きだったはずなのに、気がつけば仕事と家事に追われて読書なんてしばらくしていなかった。本屋でバイトしていた学生時代は詳しかったけれど、今ではどんな本が出回っているのかもわからなくなっていた。新刊コーナーを見下ろしながら、まるで浦島太郎みたいな気持ちになる。
そのときだった。
「もしかして
不意にかけられた声に驚いて振り返ると、背の高い男性店員が私の顔をのぞきこんでいた。
見たことがある人だとは思った。けれど、名前が出てこない。すると、彼は屈託のない笑みを浮かべた。
「お久しぶりです。
「あぁ!」
彼は、私がバイトをやめるときに、その補充で本屋に雇われた人だった。引き継ぎしかしていないんだから、記憶になくても不思議ではない。
あれから五年はたっているだろうか。彼は店こそ違えど、本屋の仕事をずっと続けていることになる。
「まだ本屋で働いていたのね」
「えぇ、本が好きで。ここでは正社員ですけどね」
彼は白い歯を見せた。その笑顔は、無性に私を苛立たせた。妬ましくもあり、眩しくもあり、そして魅力的だったからだ。
「品川さんはどうしてるんですか?」
「別に、普通の会社員よ」
「この辺の会社なんですか?」
「まぁね。じゃ、私、急ぐから」
本当は買う本すら選んでいない。行くあてだってない。それでも、そそくさと背を向けた。
何故、咄嗟に嘘をついたのか。答えは簡単で、惨めだったからだ。生き生きとした彼に、くたびれた自分を見せたくなかった女の意地だった。情でからめとられた毎日の中、その男にすげなくされたばかりなのだから。
ところが横山君は「あの」と私を引き止めた。
「電話番号変わってない? 俺、まだアドレス帳に残してあるんだけど、連絡していい?」
「どうして?」
「どうしてって……久しぶりに話したくて」
「好きにしたら?」
本当は関わりたくない。彼を見ているとどんどん自分が惨めになる予感しかしなかったからだ。
逃げるように店を出て、いったんは駅に戻った。けれど復旧はめどすらたっておらず、私はとぼとぼと家の方角に歩き出した。何時間かかるかわからないけれど、途中まで行ったら近くまで行くバスがあるかもしれないし、タクシーも少しは安くすむ。
薄暗い夕闇の中、ひたすら歩き続けた。パンプスがアスファルトを鳴らす音が耳にこびりつく。次第にかかとが靴擦れを起こしてヒリヒリと痛み出した。空を見上げると、夜が忍び寄っている。辺りの家々の灯りを見ていると、孤独が増した。じわりと目頭が熱くなり、慌てて唇をかみ締めた。何をやっているんだろう、私。
そのとき、携帯電話が鳴った。見ると知らない番号からの着信だ。宅配便かなと思って、通話ボタンを押した。
「もしもし。横山です。仕事終わったんだけど、今どこ?」
それが、彼との始まりだった。
彼は『仕事が終わった』と言った。けれど、本当は残業中だったところを同僚に無理を言って退社したと知ったのは、ずいぶんあとになってからだった。
彼は車で私をひろい、アパートの近くまで送ってくれた。車中では「あの人は今どうしてます?」とか「今でもあそこの店長は」などと他愛もない話ばかりだった。何かを察したのか、私の近況には触れずにいてくれた。
「あ、そこのコンビニで降ろしてくれればいいよ」
「えっ? 家まで送りますよ?」
そうきょとんとする彼に、首を振る。
「ううん、本当にここで」
同棲している彼は嫉妬深い。相手が誰であれ、男と二人で車に乗っているところなんて見られたら厄介だ。
「そうですか」
彼はコンビニの駐車場に車を停めた。
「助かったわ。ありがとう」
「いえいえ。品川さん、また本屋によってくださいね」
「えぇ、そうするわ」
送ってもらった手前そう答え、私は振り返ることなく家路についた。その数分後、恋人が他の女をアパートに連れ込んでいるところに鉢合わせをする羽目になるとは知らずに。
私はアパートを飛び出し、無意識に携帯電話を取り出して横山君を呼び戻した。彼はすぐに飛んできてくれて、そのまま私たちは抱き合って過ごした。
彼は朝の空気の中、こう言った。
「なんだかほっとけなかったんです。顔を見たとき、無性に胸騒ぎがして」
その後、私は男と別れ、横山君とも会わず一人で暮らした。
槿山君は電話やメールで心配してくれたけれど、気持ちの整理がつくまでは会わなかった。男と別れた傷を埋めるためにその優しさを利用したくなかったからだ。
休みの日、私は気まぐれで散歩に出かけた。少し歩けば川があり、その岸辺をぶらぶら歩く。輝く水面を眺めていると、ふと真っ赤なものが目に飛び込んできた。
「あぁ」
思わず声が漏れた。燃えるような彼岸花が岸辺に揺れていたのだ。私が男のことばかり考えている間に、季節はちゃんと流れて、秋が来ていた。
あの日なぎ倒されたと思っていた私の中の彼岸花は、どこに行ったんだろう。この頃ではもう心はすっかり凪いでいた。すべてが虚しくて、自分が望むものも、どこに行って何をしたらいいのかすらわからない。
川の土手をおり、草をむしって水面に落とす。ゆらゆらと揺れながらあっという間に押し流される草が、自分のようだった。
そっとポケットから携帯電話を取り出し、メールの履歴を見た。履歴はほとんど横山君の名前で埋まっている。もらったメールはどれも、彼の好意がにじみ出たものだった。けれど「好きです」とか「会いたい」とか直接的な言葉はなく、いつも私のことばかり気遣う内容だ。
私は恐る恐る彼の番号を選択した。
「もしもし!」
ワンコールで出た彼の声に笑みを漏らした私は、揺らぐ彼岸花を見つめながら「会いませんか」と言った。
仕事を終えて駆けつけてきた彼は私を強く抱きしめ、息もつけぬほどのキスをした。そして私たちは、二度目の朝を迎えた。
「最初は再会が嬉しかっただけなんですけど、なんだかほうっておけないって思ううちに、あなたのことで頭がいっぱいになりました。責任とってくださいね」
そして私たちは一年後に結婚をするまで、燃えるように恋をした。枯れ果てていた私の大地からむくりと芽が伸び、小さな炎を戴いた花が揺れだした。
そして今度は彼も同じような熱を帯びた眼差しを返してくれる。その目の奥に、私は確かに彼岸花を見た。
ところが結婚して半年も経つと、彼岸花を見ることができなくなっていた。一緒にいても以前のようなときめきではなく、そこにいるのが自然な空気だ。「それはそれでいいじゃない」と友人は言うけれど、私は時々不安になるのだ。あの彼岸花が私の生きる道標だったように思えるときがあるだけに。
私はちゃんと幸せなのだろうか。赤い花を見たとき、私は生きている気がした。この心がよくも悪くも感情で溢れ、この世に存在していることを確かめられた。いつまでも恋愛気分が続くものでもないって知っているけれど、時々無性に、あの彼岸花が恋しくなるのだ。
「なぁ、
同じ苗字になってからは、彼は私を名前で呼んでいた。顔を洗い終わった私はコーヒーを片手に顔を上げる。
「うん?」
「今日はスーパーに買い物に行くだろ?」
「そうね」
「俺が荷物を持つから、たまにはのんびり歩いて行かないか?」
二人の新居は街中から離れたところにあって、少し歩けば田んぼが広がっている。最寄のスーパーまで歩くと二十分はかかるだろう。
夫が突然そんなことを言い出したことに驚きながらも、ただ「うん」とうなずいた。彼がそう提案してくるということは、何か考えがあってのことだろうと思ったからだ。
朝食を終えた私たちは鍵をかけてアパートを出た。歩いていけば、ちょうど開店時間に着くだろう。本当はみりんも残り少ないけれど、彼が持つには重くなるから今度でいいか。買い物リストを見ながらそんなことを考え、ふと彼の背中に視線を移した。
すたすた先を歩いていく彼の大きな背中は相変わらず痩せていて、結婚する前と変わらない。二人で歩いていても、さっさと先に行ってしまうデリカシーのなさも相変わらずだ。
ところが、ぱたっと歩みを止めた彼が、「ん」と左手を差し出してきた。
「どうしたの? 珍しい」
シャイな彼は、いつもは人前で手を繋ぎたがらない。結婚する前だって、いつも私から無理やりせがんで繋いでもらっていたのだ。
目を丸くしていると、口をすぼませて「うん」とうなずく。
「こんな田舎じゃ誰も見てないし。それに、たまにはいいだろ」
思わず笑って、右手を絡めた。
右手に伝わる体温を意識しながら、私たちはまた歩き出した。この手に彼の指の感触が残り、少し引っ張ってくれるのを感じる。
この手を通して繋がっていることが、どっと私に安心感をもたらした。なんだ、ちゃんと結びついていてくれるんだ。そう思えて。
普段の彼は、私の嫌いなテレビを観ているか、パソコンをいじったり携帯でゲームをしたりして過ごす。家ではとても寡黙な人なのだ。ときどき「私、いなくてもいいかも」と、取り残されたような孤独を感じることがあった。けれど、こうして彼が少し引っ張って歩いているうちに、その尖った想いが水に濡れた砂糖のようにほろほろと解けていく。
そのうち道はカーブになり、やがてまっすぐな道にまた戻る。すると、彼は「ねぇ、あれを見て」と私に目配せをした。
「あら」
思わず声が漏れた。道の先にある畦に一塊になって深紅の彼岸花が咲き誇っていたのだ。
「すごいだろ、あれ」
彼はまるで自分の所有物であるかのように誇らしげに笑う。
「この前、ここを車で通りかかって見つけたんだ。けれど、車じゃゆっくり見れないし味気ないからさ」
なるほど、それで連れ出したのだ。
彼は彼岸花の群れを指差した。
「見て、あの一株だけ白いんだ。珍しいだろ?」
「……本当ね」
にこやかに言ったものの、彼岸花に白や黄色いものがあることくらい知っているし、そんなに珍しいとは思わない。けれど、植物に疎い彼には衝撃的だったのだろう。
「本当に綺麗ね」
思わず微笑むと、彼は満足そうな顔をして白い彼岸花の前で立ち止まった。二人で手を繋ぎながら花の前に立つと、彼は手に力をこめ、私を見下ろした。
「君と見れてよかった」
そのとき胸に沸き起こったものは、何千、何万の彼岸花が一斉に咲きほこるよりもはるかに鮮烈な歓喜だった。
真紅に燃えて揺れる彼岸花が今までの私の『生きている』という証だった。そこに今、一輪の白い彼岸花がすうっと凛々しく花開く。燃えるようではないけれど、無垢でどこまでも真摯な色の花。それこそがきっと、彼だ。
私の求めているものは、目の前にあったのだ。真紅の群れに埋もれてなかなか見つけられなかったけれど、彼はちゃんと枯れずにいてくれた。
なんて満ち足りた気持ちだろう。もしかしたら、結婚した瞬間よりももっと心が潤っている。そう思った途端、彼は私の顔に何かを見出し、キスをくれた。
「来年も見れるといいね」
「見れるわよ」
力強く断言し、私たちは一緒に歩き出した。
秋風に揺れる彼岸花が、私たちを見送っていた。
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