第29話 私達はもう、気づかなきゃいけないんだ

左手を腰に、ビシッと人差し指を向けた右手を歌誉へ掲げていたなずなは、しばらくしても反応が返ってこない事に狼狽えて、やがてポーズを解いた。


「あ、あれ? だって裁判でしょ? 異議ありって、別におかしくないわよね?」


それが、合図だった。

割れんばかりの歓声と喝采が、講堂を所狭しと駆け巡った。

悲嘆から一転、その場に歓喜が満ち溢れた。


弾ける笑顔の波に最も驚いたのは、当のなずな本人だった。目を丸くする彼女は皆に背中を押されながら、小突かれながら、舞台へと近づいてくる。段々と恥ずかしくなってきたのか、はやし立てる生徒を拳で黙らせたりしていた。


軽い身のこなしで舞台に上がったなずなは、しかし不思議な事に、頭髪が異常な程に伸びていた。身の丈の三倍はあろうかという長さで、ポニーテールを何度も折り返すという無茶な方法で何とかまとめている。

だが特筆すべき事は他に何もない。幻ではない、アシハラの住人全員が良く知る網代なずな本人に、相違ない。


なずなは微笑みを浮かべながら、歌誉へと自然な足取りで近づいていった。


「なずな……? 本当に……?」

「ええ。他の誰に見えるってのよ? まあ髪変だけど。ほら、その物騒なもん渡しなさい」


なずなが掌を向けてくる。だが、歌誉の瞳はまだ逡巡に揺れていた。


「でも……」

「わ・た・し・な・さい!」

「ひうっ」


語調を強めるとあっさり降伏した。

不承不承といった様子で、おずおずと拳銃を差し出してくる。なずなは掻っ攫うように受け取って、慣れた手つきで安全装置を設定した。


「全く、傷だらけじゃないの。痛むとこない? 後で保健室行くからね」

「……う、うん」

「アンタにお礼言うまでは、絶対に死なせないんだから」


なずなは軽くウインクして見せた。


「お礼……?」

「そ。歌誉は命の恩人よ。アンタが魔法で受け止めてくれなかったら、私はいま、こうして生きてなかったんだし」


そう言いながら歌誉の頭を撫でてやりながら、舞台奥で呆然としたままの他の役員へ、悪戯っぽい笑みを向けた。


「桐吾君たちも、酷い有様ねー」


声を向けられてようやくなずなの帰還を実感した一同は、揃って相好を崩した。

虹子はその場で声を上げて泣き出して、言葉にならない言葉で彼女の生還を喜んだ。

その横で、田路彦は気が抜けたように息をついた。


「全く。人間離れしているとは常々思っていたが、不死身だな会計殿は」

「人を超人みたいに言うんじゃないわよッ」


巳継が恨めしそうな目で、文句をぶつけてくる。


「なずなテメエ! 美味しいとこ全部持ってくんじゃねえよ!?」

「私が持ってかなくたって巳継先輩には回ってませんでしたよ、どうせ」

「しかも何だその髪! 戦闘民族のスリーかッ! それとも、終わってもいいからありったけをとかそういうのか! 変身とか羨ましいが禿をディするのもいい加減に――」


無視した。

桐吾は不思議そうな、色々と訊ねたそうな顔をしていたが、ひとまずは――


「おかえり」

「うん、ただいま」


挨拶の儀式を交わす。自分がいて、相手がいる事を証明するための儀式を。

再び無事に顔を合わせられた事に安堵の息をついて、なずなは改めて周囲を見渡す。


舞台も傍聴席も、壊滅的な有様だ。スポットライトは残らず割れ、舞台には砕けたガラスが散っている。傍聴席には資料やら端末などの私物が散乱している。

怪獣が暴れたような荒れ模様に、なずなは頭を抱えた。


「ったく、修繕予算どっから捻出するのよ」


などと、会計役員らしい悩みの種を抱えつつ、腰に手を当て傍聴席を睥睨する。


「静粛にッ!」


よく通る声はマイクさえ必要としない。反響した大喝は、騒ぎを一気に引き締めた。

傍聴席が再び舞台に傾注する。意外な人物の闖入によって祭りの如き騒ぎに発展してしまったが、まだ、何も終わってはいないのだ。

自害こそ未然に防いだが、被告人・歌誉への、アシハラとしての結論は決していない。


弛緩したように立ちつくした歌誉を庇うように、なずなは立つ。


「私――私ね、魔族ってただ、悪逆非道なんだって思ってた」


なずなは真摯な眼差しで皆を見渡す。


「皆の中にも、そういう人多いんじゃないかしら。自虐戦争前を知る人は直接的な仇として。後に生まれた子達は、その嫌忌を親から血のように継いで育ってきた」


異族に肉親を殺された者は多い。寧ろ、揃って無事でいる一家の方が珍しい。


「私は異族を憎んだ。力を蓄えて、いつか覇権を奪還してやろうって、それだけが人生の目的だった。そのためなら、どんな辛い訓練も歯を食いしばって耐えてきた」


それは容易な事ではなかった。

幼い頃、シミュレーションの異族に敗北を重ねる日々だった。その身を牙に裂かれ、魔法に焼かれ、何度蹂躙されたか分からない。

なぜ想像通りの動きが出来ないのか。なぜこの弾丸は敵を射抜かないのか。なぜこの剣は敵の皮膚に届かないのか。


己の無力を呪い、しかし平気を装ってきた。周囲を頼る事が、無力を証明してしまう気がした。だから彼女は毅然と、凛とし続けた。

内包しきれない激情は自室の壁に刻み込んでいった。何度も、何度も何度も。負けた数だけ泣きながら刃を振るった。敗北の記録を、悔しさを忘れないように。

バネにするつもりで始めたそれは、いつしか彼女自身に自負という幻想の強さを与えた。


「でもそれは、少し間違ってたのかもしれない」


どよめきが生まれる。彼女を良く知るクラスメイト達が、奇妙なものに遭遇したような形相を浮かべていた。

なずなは苦笑する。


「私のこの身体ね、魔族に治してもらったの」


動揺が広がる。驚きの声や疑いの声が、あちこちで生まれる。

支配者が下等種族を治癒するなど、未曾有の事例だった。まして、わざわざアシハラを訪れてまで。

目覚めて事態を把握した時、なずなも我が目を疑った。何か途方もない対価を求められるのではないかと懸念もした。

だが――


「もしかして、ファアファルさん……?」


背後から上がった虹子の推測に、なずなは首肯した。


「そ。ファアファル・ラオベン。魔族代表の彼女が、わざわざ治療しに来たの。姫ちゃんに聞いて驚いたんだけど、絶対に助からない状態だったらしいのよ、私」


だが、魔法は不可能をさえ超越する。

ファアファルの詠唱は二時間にも及んだ。奇跡にも等しい、尋常でない魔力の発露。抑えきれずに漏出した魔力が光となって、手術室を満たした。

自己治癒能力に干渉した膨大な魔力は、生物の法則を無視した領域にまで到達した。

光が収束した頃、手術台に横たわった身体は完全に健康を取り戻していた。

その時の様子を思い起こしながら、伸びた頭髪に触れる。


「治癒力を高めたもんだから、髪もこんなに伸びちゃって。ラプンチェルみたいよね」


何がファアファルを駆り立てたのか、人族の皆は理解に苦しんでいた。


「もちろん訊いたわ、何で私を助けたのか。もしこれをネタに法外な対価を請求するようならいますぐ死んでやるって意気込んでね。そしたら――」


皆が固唾を呑んで真意を探ろうとする中、なずなは告げた。


「――お詫び、だってさ」


皆、呆気に取られる。折しもその顔は、病床で解答を聞いたなずなが浮かべた表情と、全く同質のそれだった。それがおかしくて、なずなは破顔した。


「そりゃそうよね、そんな顔するわよね。アシハラの既得権益全部渡せって言われてた方が、まだ納得出来たわよ。魔族って本当にどうしようもない、唾棄すべき相手だって。でもね、でも……どうやら本当らしいのよ」


狐につままれた顔のまま表情を戻せずにいたなずなの頬を、ファアファルは憮然として摘まんで引っ張った。痛みを訴えたなずなは、初めてそれが現実なのだと認識した。

魔族代表は申し訳なさそうな苦い顔で、謝辞を述べてきた。


「昨日の襲撃は、魔族の不徳だったって。あれは魔族として望んだ状況じゃなくて、一人の魔女の暴走を止められなかった自分の責任だって、そう言ってきたの」


あまつさえファアファルは、恥じ入りながら頭さえ下げたのだった。

他人の所業の責任を自らが取る姿勢は、なずなの思い描く魔族像を破砕するに十分な衝撃をもたらした。

魔族はもっと傲慢で、奔放で、悪辣な種族であるはずだったのだ。まさに、昨晩に夜襲を仕掛けてきた魔女のように。


戸惑いを隠せないまま、なずなは二の句が継げなかった。

頬をつねるだけでは足りなかったかと、魔女は指を弾いて、なずなの額を叩いた。

魔族には魔族としての矜持がある。責任は取らねばならないし、それは相手が人である場合に放棄して良いものでもない。

彼女は噛んで含めるようにそう説いてから、困ったように眉を伏せた。


――魔族にも色々いるのよ。貴方達が個性豊かなようにね。


「私と虹子の性格が違うみたいに、桐吾君や歌誉と喧嘩しちゃう事があるのと同じみたいに、魔族にも色んな考え方をする人がいるんだって――私はそれまで考えもしなかった」


なずなは異族との交流を極力避けてきた。殊更に、人心掌握の魔眼を持つ魔族とは。例えそれが異性にしか通じない術であったとしても、気持ちのいいものではない。技術提供会にも参加した事は一度もなかった。

異族に人の言葉が届こうはずもない。嘲罵と侮蔑を浴びせかけられ、己が無力を改めて痛感するのがオチだ。

だから積極的に交流を持とうとする虹子が、全く理解できなかった。正直なところ、その楽観的な一面を嫌悪し、侮った事もあった。


だが、それは違った。

魔族を魔族としてしか評価せず、ファアファル・ラオベンという一人の女性と向き合った事は、いまだかつて一度もなかった事に気づかされた。


「魔族だって一括りにしないでちゃんと向き合いさえすれば、もしかしたら……もしかしたら通じ合える相手もいるんじゃないかって、そう思ったの!」


皆、戸惑いに満ちた固い表情でその訴えを聞いている。

当然だ。己が胸中でさえまだ整理しきれていない。見識を変えるには、圧倒的に時間が足りていない。肯定と否定とが、波濤のように激しく繰り返しぶつかり合っている。


「だからこの裁判は、魔女裁判なんかじゃない。歌誉の裁判なのよ。七夜月歌誉っていう一人の女の子を裁こうとしているんだって、まずはそこから認識を改めるべきなんだって――私達はもう、気づかなきゃいけないんだと思う」


十七年という歳月をかけて築き上げてきた、自身の核が揺らいでいく。強さだと信じて固めてきた意志が綻びて、崩れていく。

怖い。自分の存在意義を自ら否定している錯覚に陥る。それだけなずなは、自己の正当性を異族の排斥に依存してきた。


怖い。それでも、歪に凝固した正当性など、壊してしまうべきなのだ。

槌を振るうように勇ましく、なずなは声高に叫ぶ。


「歌誉は何も悪くない! 歌誉は私の命を救ってくれた! それが断罪されるべき悪だというなら、救われた私の命もまた悪に他ならないッ!」



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