第二章 技術提供会
第10話 練習する、もっと。上手くなる。
早朝の日課であるランニングの途中、なずなは足を向ける先を変えた。電力系統管理区を大きく迂回する。自室とは真逆にあたる方角へ。
Tシャツにホットパンツという出で立ちで、なずなは地を蹴る。邪魔にならないように束ねたポニーテールが、一歩を踏むたびに左右に揺れた。
人の姿はまばらだった。何せまだ午前六時を過ぎたばかりで、出勤にも通学にも早すぎる。もう一時間もすれば賑わってくるだろうが、いまはなずなだけが街路樹からの木漏れ日を浴びていた。
木漏れ日といっても、光源は人工的なものである。街全体を覆う天板に埋め込まれた擬似太陽光が、プログラムされた周期に従って一定時間照射しているに過ぎない。
また、それそのものが一枚の巨大モニターともなっているドームには空が映し出され、太陽光と同様のプログラムにより昼夜を演出している。
だからドームで暮らす、戦後にアシハラで育った者達は、天候という概念をほとんど持っていない。
気温調整により、四季の演出は施されていた。動植物の育成環境への影響を、最低限にするためだ。五月である今は寒暑が穏やかで、運動には最適といえた。
十分ほども走ると、研究区画に入る。棟の一つに入り、地下への階段を下った。陽光の届かない地下の廊下は、非常灯の小さな赤色を唯一の照明としていて、静謐とした暗さが漂う。ただでさえ汗ばんだ身体に、夜気の残滓は刺すように冷たかった。
「うー……寒い寒い」
身体をさするように汗を拭って、なずなは廊下を進む。
間もなく到着したのは、Cラボである。
堅牢な鉄扉を前に、ポケットからカードキーを取り出す。生徒会役員だけが所持できるマスターキーだ。認証盤に掲げると、ピッという短い電子音と共に扉が開錠した。
「やっぱりここにいたのね」
呆れ半分、感心半分。嘆息交じりの言葉の先に、彼は机に突っ伏すようにして寝息を立てていた。
高天原桐吾。
二週間前に、ここ――第五防衛都市アシハラの市民となった少年である。同時に、生徒会役員として、覇権奪還を共に推進する間柄となった。
彼には主にCラボでの研究開発を頼んでいたのだが――
「何ていうか、若干やりすぎよねー」
彼の机には乱雑に、うずたかく書類が積まれ、山のようになっている。いまにも崩れそうだ。というか一部崩れている。
書類の上に寝ているというより、桐吾が書類の山に埋もれている。
なずなは憮然として、書類の一枚を取り上げる。
数式と図式が殴り書きされたそれは、設計図である。より克明に表現するならば、設計図になる前のラフ案といったところか。工学はなずなも授業で学習しているが、正直、複雑すぎて何が書いてあるのかほとんどわからない。
とても二週間で書きあげられる量ではない。
なずなが同様の設計を行うとしたら、数か月はかかるだろう。それも、誰かから教わりながら、言われた通りに書いたとしての期間だ。
着想から行えと言われたら何年かかったって出来ないかもしれない。
「むう。何かむかつくわね」
うりうり、となずなが桐吾の頬をつついていると、少し呻いてから目を覚ました。
「ん……朝か」
寝ぼけ眼をこすりながら、桐吾は身を起こした。
「おはよ、桐吾君。そろそろ起きないと遅刻するわよ」
「ふぁあ……。なずな? どうしてここに?」
伸びをしながら、桐吾はなずなに問いを向けた。身体が凝り固まっているようで、肩を回しながら、時々「痛てて……」等と呟いている。
「様子見よ。近くを走ったついでにね。というか、そんなバキボキ身体鳴らさないでよ怖いから」
「変な体勢で寝てたら、身体が固まっちゃってさ」
この二週間で、桐吾も随分とアシハラの環境に順応してきた。いつのまにか、なずなや他の同級生に対する敬語もなくなっていた。
「運動不足なんじゃないの?」
「まあ確かに、ここに来てからラボに籠もってばかりだしね」
「なら走る? 朝、その――私と」
そう提案すると、なぜだか顔が熱くなった。ランニングで上気した肌は、もうすっかり落ち着いていたというのに。Cラボが暑いからだ、うん。きっとそうだ。
「ん、やめとくよ」
「えー、気持ちいいし、頭もスッキリするわよ?」
「いや、単純についてけそうにない。百メートル五秒の鬼神だって噂だし」
「世界新よそれ。誰からそんな話聞いたのよ」
「姫先生、だったかな」
それは想像した通りの名前で、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえる。
「姫ちゃんの言う事は十回に十一回が嘘よ」
「余った一回って?」
「嘘そのものが嘘な時ね」
「禅問答みたいだ……」
そう言って、桐吾は渋い顔を見せた。
よく見れば、あまり顔色が良くない事に気づいた。照明の具合もあるだろうが、少しばかり青白く、目元には疲労の跡が見られる。
「また徹夜?」
「いや、五時には寝たよ」
「アンタねえ、一時間しか寝てないじゃないの」
慨嘆するなずなの横で、桐吾は大きく欠伸をした。
「確かに開発を任せるとは言ったけど、そんなに根詰める事ないのよ?」
寮室があてがわれているにもかかわらず、桐吾はほとんど戻っていない。ラボでの研究開発に没頭するあまり、ここで起居するのが当たり前のようになっていた。
「根詰めるとか、そういうんじゃないんだ」
桐吾は設計図を整理しながら、浅く笑みを浮かべる。
「なんだかんだ言って楽しくてね。これだけ設備の充実したラボなんて外にはなかったから。それに手を動かしてる時は夢中で、余計な事考えなくて済む」
「……余計な事、ね」
彼の脳裏にちらつくのは、やはりドラコベネの脅威や、覇権奪還構想についてだろう。アシハラに慣れてきた彼も、いざ戦いの話題となると、露骨に口数が減った。
彼が設計図に走らせるペンは、勝利への執念ではなく、主に「楽しさ」を動力源としているのだろう。
なずなは頭を振ってから、持っていた設計図をひらひらと振って見せた。
「ところでこれ何書いてるの? 私にはさっぱりなんだけど」
「アビス・タンクの強化構想だよ」
「へえ、どんな?」
「積めるだけ、武器を積んでみようと思う」
アビス・タンクに搭載されている標準装備は、大剣とアサルトライフルを主とする。加えて、ハンドガンに連射式グレネードランチャー、地対空榴弾砲までを携行する。
それだけでも歩兵には考えられない重装備だが、桐吾の構想はそれを遥かに上回った。
「まず百五十五ミリ榴弾砲を二門――」
「ちょっと待った」
と、思わず桐吾の声を寸断してしまった。
「百五十五ぉっ!? アンタ、それがどんなデカブツか分かって言ってるの!?」
なずなは声を荒らげて、桐吾の鼻先に人差し指を突き付ける。
彼女の剣幕は無理もない。桐吾の言う榴弾砲は、本来戦車に相当する砲架に搭載される代物で、とても歩兵には扱えない。いくらアビス・タンクといえど、砲身長が五メートルを超えるような砲筒を搭載出来るはずがないのだ。
にもかかわらず、桐吾は若干の狼狽を見せつつも、彼女の言葉に頷いた。
「そ、そりゃまあ、分かった上で」
「……動くの?」
なずなの瞳から逃げる事なく、桐吾は頷いて見せた。
「理論上は」
「机上の空論――ってわけでもないんでしょうね?」
「単純に考えてさ、過積載になるなら、その分スラスタの推力を上げてやればいいんだよ」
そう言いながら、桐吾は設計図の一枚を取り出して見せた。
そこに描かれたアビス・タンクは、なずなの良く知る形状とは異なっていた。背部には桐吾の発言にあった通りの百五十五ミリ榴弾砲が二門備えられている。
それだけではない。腕部や腰部にもそれに劣らぬ重装備が備わっている。冗談のように大きなスラスタが括り付けられた脚部は、本来の数倍の太さになっていた。
ただでさえずんぐりとしていた体格が、より一層仰々しくなっている。それこそそれ単体が、兵士というより武器庫を想起させる程に。
その発言を裏打ちするように、桐吾は続けた。
「アビス・タンク・アーセナルタイプ――仮称だけどね。一対一よりも多対一を想定して設計した兵装で、目指してるのは、これ単体での場の制圧を可能にする事」
「あのねえ、水差すようで悪いけど、こんなの誰も着れないわよ? 重すぎるし、スラスタの反動で着た子にかかる負荷が大きすぎて潰れちゃうわよ」
「だから無人なんだ、こいつは」
一瞬、何を言っているのか理解しかねた。そして理解してから、なずなは辛辣にもこう評した――何を口走っているのかこの馬鹿は、と。
「遠隔操作型のアビス・タンク、それを僕は設計してるんだ」
「そんな事が出来るの……?」
「ラジコンや産業ロボットが当たり前に出来てるんだから、設計コンセプト自体は別に目新しいものじゃないよ。技術的にも実現は十分可能なはずだ。問題になってくるのは、アビス・タンクと操縦者間の、レスポンスの部分だね。いかに正確に、戦場での膨大な情報量をタイムラグなしに送受信するか」
このコンセプトでのアビス・タンクが本領を発揮するには、操縦者が戦況を正確に把握している必要がある。それには、実際に戦場に居るのに匹敵するだけの情報量を、タイムラグなしに受信しなければならない。また、実際の戦場で戦えるだけの緻密な動作を、命令としてアビス・タンクに送信しなければならない。
そうした技術上の問題をクリアする事で戦場に降臨するのは、およそ人間の膂力では実現できないだけの速度と、火力と、制圧力を持った鋼の兵である。
「その情報量の確保とタイムラグをゼロに近づけるのが鍵になるんだけど、その辺がCラボのアブセント9と、上手く噛みあえばいいと思ってるよ」
Cラボで頻発する意図しない結果の事を、アブセント9と人々は称した。それは、アシハラがまだ科学研究開発都市だった当時、研究員が八名であった事に起因する。
意図しない結果を生み出したのは、いないはずの九人目――すなわちアブセント9が悪さをしたからだと、そういう皮肉と揶揄の籠もった呼称である。
「ところで田路彦は? 一緒じゃないの?」
桐吾と田路彦とはやはり気が合うのか、一緒になってラボに籠もる事が多かった。
無理やりな笑顔が幸いしたか、桐吾の顔から固さが和らぐ。
「プリメラってアニメを見るとかで、夜帰ったよ」
「あいつか借りてったの」
続巻楽しみにしてたのに。あんにゃろう。
レンタル済みであった棚を思い出しながら、心中で悪態をついた。
「なんて?」
「何でもないわ。こっちの話」
そっぽを向いて話を打ち切る。と、視線を向けた先に人影を見つけた。仮眠用の布団で華奢な身体を丸めながら、安らかな寝息を立てている。
男くさいラボには不釣り合いな無垢な寝顔に、なずなは半眼になった。
「あの子も相変わらず、桐吾君にべったりね」
「あー……まあ」
桐吾も苦笑するしかなかった。二人で向けた視線の先に眠る少女、七夜月歌誉。
桐吾と同じく新たにアシハラの住民となった彼女は、桐吾にひっついて離れなかった。それこそ親鳥に追随する雛のように、四六時中べったりである。
「そんだけくっつかれて、可愛くて仕方ないんじゃないの?」
「いや、まあ……うーん」
「何、はっきりしないわね」
「うーん……」
「開発に集中できないとか?」
「んー……まあ、正直、それはある」
彼も人がいいだけに、好いてくれる女の子を邪険にする事も出来ないのだろう。
と、なずなは渋面する桐吾に助け船を出す、妙案を思いついた。
「じゃあ私も行くし、放課後、連れてってみましょうか」
「連れて――って、どこに?」
桐吾の疑問に、なずなは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「い・い・と・こ・ろ♪」
◆
いつしかそこは、旧世資料館と呼称されるようになっていた。だが、もちろん自虐戦争以前から残るその施設が、初めからそう呼ばれていたわけではない。
当初は、アシハラに勤務する研究者御用達の図書館として設立されたものである。五万平方メートルという途方もない敷地面積には、科学や工学に関するあらゆる文献が所蔵され、研究者達に研鑽を積ませていった。
しかし、無窮の蔵書は戦時中にその数を激減させ、いまはその様相を一変させている。
戦を生き残った者達は、その図書館を再生させようと努めた。失われた技術書や研究書の棚を埋めるのに彼らが選択したのは、戦前の文化であった。小説や漫画、スポーツや趣味に関する書物、音楽や映画、ゲームの記録媒体、知育玩具に至るまで――焼け残った、かつて彼らが夢中になった様々な娯楽を持ち寄っていっぱいにした。
いつか生まれてくる後世の子供達への現代の遺産として。
そうして出来上がった旧世の記録は、数少ない遊技場として、過酷な環境に生きる子供達に親しまれている。
放課後。なずなに連れられて、桐吾と歌誉は旧世資料館に初めて訪れていた。
「かなり賑わってるなあ」
桐吾は目を丸くして、そんな感想を漏らした。
無数の書棚に無数の岐路。その岐路の先にもまた、無数の書棚が並ぶ。その圧巻な光景を賑わせているのが、アシハラ学園の生徒達だ。書棚の間で、あるいはテーブルを囲んで、あるいは上映施設に座して。談笑する者達で溢れ返っていた。
「こんなとこがあるなら、もっと早く教えてくれたら良かったのに」
「そういうけど、何となく怖くて誘いづらかったのよ」
「怖いって、誰が?」
「開発に夢中な桐吾君がよ。何か鬼気迫ってて話しかけづらい雰囲気っていうか、そうかと思ったら急にヘラヘラし出したりして。何て言うか――見ててキモい」
「……そんなに?」
「自分じゃ気づかないもんよね、そういうの。まあここで息抜きの趣味でも見つけなさいよ。根詰め過ぎて気づかないうちに死んでそうだもん、桐吾君」
呆れたように言って、なずなは歌誉へ視線を転じた。
「歌誉。ここは戦前の娯楽が集まった場所なの。小説とか漫画は、あー……字読めないからなしか――でもアニメとか映画とか音楽とかアニメとか、好きなの案内するわよ?」
「何でアニメって二回言ったのさ」
「うるさい。大事な事だからよ」
歌誉の興味を桐吾以外に向けようというのが、往訪の主な目的だった。歌誉の異常なまでの執着は、桐吾の研究の阻害にもなりかねないし、周囲から向けられる眼も――主に男子から――厳しかったりする。
何か別のものに関心を寄せる事で状況が改善するのではないか――それがなずなの提案だった。
問われた歌誉は視線を右往左往させてから、なずなへとその淡白な視線を戻した。
「好き。桐吾」
「殴り倒したいくらい素直ねー。でもそうじゃなくて。趣味みたいなの、ない?」
「……。……。……。……。……。……。……。」
「熟考に入ったわねー」
なずなは肩をすくめる。
「桐吾君は? だいたい何でも揃ってるわよ?」
「戦前のアシハラの資料とかも?」
「勉強熱心だ事」
桐吾の回答にもまた、なずなは嘆息して肩を落とす。
ここまで勉強一筋だと、感心するよりも呆れが先に来てしまう。
「R区画に歴史のカテゴリーが揃ってるわ」
なずなは支柱に張り付けられた案内図を見せながら、桐吾に道順を教示した。
礼を言って、桐吾はR区画へと向かっていった。
その姿を見送ってから、なずなは熟考する少女へと振り返る。と、中空をさまよっていた視線が、何かを決めたような眼差しでなずなを凝視していた。
「歌」
「へ?」
その発言があまりに端的だったため、理解が遅れてしまった。間抜けた顔で問い返すと、歌誉は小さな声で、しかし強い口調で言い切った。
「好きなもの。歌」
「ああ、歌ね。そう、良かったわ好きなものが見つかって」
「ある?」
「もちろん。こっちよ、ついてきて」
歌誉が首を傾げるとまるで小動物のようで、なずなは表情を綻ばせた。
歌誉の手を引いて、なずなはリノリウムの床を進む。
音楽関連の区画には、普段以上に利用者が多かった。音楽はデータ化が進んでいるため、普段は各自の携帯端末による視聴が主流だ。そのため、わざわざ資料館まで足を運ぶものは少ない。
しかし、いまは節電期間として、各自で使用できる電力量が極端に制限されている。二週間前の龍魔の襲撃による、植物制御区画の一部崩壊が原因である。
この節電は復旧の目途が立つまで続けられる見込みのため、おちおち携帯端末の充電も出来ない、というわけだ。公共施設である旧世資料館の電力は通常稼働しているため、皆の足先が向いたのだろう。
クラシック、童謡、民族音楽に洋楽邦楽に至るまで、あらゆるジャンルが取り揃えられた棚から、なずなは適当に何枚かのCDを取ってテーブルについた。
資料館には貸出用の端末もあるが、識字の知識のない歌誉には操作は難しい。なずなはCDと一緒にポータブルCDプレイヤーを歌誉に差出し、一通りの操作を説明した。
「入れる。スイッチ押す。聞く。――出来る」
同じ動きを反復しながら、歌誉はそう繰り返し呟いた。
はじめこそヘッドホンから耳朶を打つ音楽に衝撃を受けていた歌誉だったが、しばらくして慣れてくると、様々な音に触れられるその装置に夢中になっていった。
「じゃあ私も行きたいコーナーあるから、しばらく時間潰してて」
「どこ行くの?」
「趣味よ、趣味」
「ふうん」
なずなが歌誉に背を向けたところで、背後から声が届く。小さく細く端的な、しかしこの二週間で聞きなれた声は、珍しく躊躇いがちに放たれた。
「……な、ずな」
「ん?」
振り返ると、歌誉は両手に支えたヘッドホンを首まで降ろして、丸く猫背気味になずなを見上げていた。どこか言いにくそうに口をすぼめて言う事には、
「……ありがとう」
「どういたしまして」
なずなは笑顔で応じる。普段は遠慮など微塵もせずに淡々とマイペースを貫くくせに、この不意の愛らしさと言ったら。反則だ、と口を尖らせながら、しかし内心では悪くない心地で、なずなは半眼でその感謝を受け取った。
「さて、と……」
連れてきて正解だったなと自負しながら、なずなは弾むような足取りで目的の場所へと向かう。例のアニメが田路彦から返却されている頃だろう、と当たりをつけて、アニメのコーナーへと。
そして広漠な敷地面積を誇る資料館を巡り、目的の棚を眼前にしたなずなは、その期待に膨らんだ表情を曇らせ、嗚咽のように呻いたのだった。
「え、延滞、だと……ッ?」
貸出中のタグが巻かれた空のケースを手に取る。その軽さが忌々しい。
「んもうっ!」
煮え湯を呑まされた思いで、なずなは乱暴にケースを棚に戻した。思わず力が入ってしまったのか、叩くような音と共に棚が震撼した。
周囲の生徒たちが一様に何事かと視線をなずなに向けてくる。いたたまれなくなって、なずなは逃げるようにその場を後にした。
「あんにゃろう、あんにゃろう……ッ。役員が延滞なんてするんじゃないわよッ」
毒づきながらなずなは思う。面と向かって田路彦に言ってやりたいが、彼ならにべもなく己が腕章を示唆してこう言ってのけるのだろう。
「役員? おいおい会計殿、仮。あくまで仮なのだ」
「何よもうっ!」
叫ぶと同時に拳が出ていた。右に放たれた拳は支柱を捉え、案内板を覆うアクリルには罅が入った。
「あ……」
ぱらぱらと砕けた破片が散る眼下には、小等部低学年の女児が驚愕に目を剥いていた。
忘我の表情をくしゃりと歪ませ、いまにも泣き出しそうになるのを見て、なずなは慌てて笑顔を作って早口に言い繕う。
「あ、あははははゴメンね驚かせて! その、そうっ、あれ! 虫! 悪い虫が壁にくっついてたから追っ払ったの! 怖かったねもう大丈夫だからね! 安心して放課後を満喫するといいと思う! うん、そういう事! じゃあね! あはははは」
とにかく笑って誤魔化して、なずなはその場を後にした。
案内板の修理の事を思索する。修繕予算は植物制御区画にほぼ全額を当てているし、自分で解決しなければならないと思うと、気が滅入った。
成果なく気落ちしたまま、なずなは歌誉を迎えに行く。
遠目に見ると、歌誉は別れた時のままの姿勢で、ヘッドホンから流れる楽曲に没頭しているようだった。机上には十枚程度のCDが積まれている。
瞑目して聴いているようで、こちらにはまだ気づいていない。なずなは少し驚かせてやろうかと一計して、背後からそっと忍び寄っていった。
と、歌声が聞こえてきた。囁きのように静謐とした旋律は、歌誉の小さな口から紡がれるものだ。春の朝を思わせるような、穏やかに澄んだ歌声だった。
その声音は聴衆の心を落ち着かせる。滑らかに音を繋いでいく。上手い、と感心するなずなの心に、紙に落とした雫のように、じわりじわりと沁み渡っていく。
雫の染みが紙の形を変えるように、なずなの心も変容していった。
先程までの荒ぶった心地が弛緩していく。
揺籃で眠る赤子のように、揺られるたびに、落ち着けられていく。
その平穏は強制力でも持つかのように抗いがたい。
睡魔となって瞼をそっと押さえてくる。
このまま
身を
委
ねてしまいたい。
「――なずな?」
「え?」
呼ばれた瞬間、感覚が現実に引き戻された。暗い深層から、一気に光の当たる表層へと意識が切り替えられる。
思考の霞みが残るのを感じつつ振り返ると、歌誉の無表情と眼が合った。
気づけば彼女はヘッドホンを外して、振り返りながらなずなを見上げていた。
「なずな?」
「え、ああゴメンっ。ぼーっとしちゃって」
「大丈夫?」
彼女が振り返った事にも気づかなかったのだから、あまり大丈夫ではないのかもしれない。彼女の歌にそれだけ没入していた事に、自分でも驚きを禁じ得ない。
「大丈夫よ。ちょっと聞き惚れちゃって。歌上手いのねー、びっくりしちゃった」
「そう?」
と言う歌誉の口元を、なずなは見る。
普段は必要最低限の言葉しか紡がれないその口から、聴衆の心を奪う旋律が導かれようとは。これもギャップ萌えって言うのかしらねーと思いながら、なずなは頷く。
「正直、自信持っていいわよ」
「喜ぶ? 桐吾も?」
「まあ、きっとね」
「なら、嬉しい」
「そのうち生徒会主催で、ライブやるのもありかもね」
「歌うの?」
「歌誉がね」
「なずなも?」
「う……。検討しておく」
目を逸らしながら返答を濁す。歌唱力には自信がない。人前で歌う事がそもそも気恥ずかしいし、何より歌誉と比較されると思うと及び腰になった。
「そういえば歌誉って、歌の誉れって書くのよね?」
「? そうなの?」
識字の知識のない歌誉はぴんと来ないようだったが、なずなは笑みを浮かべた。
「そ。いい名前だと思うわ、歌誉にぴったり」
「なずなは?」
「へ?」
「名前、意味」
「あー……」
そりゃあそういう返しにもなるわよね――。
失策だったと思いながら、なずなはバツが悪そうに頬を掻く。
今は亡き父母から与えられた名前。由来は承知しているが、少しばかりいまの自分とはかけ離れすぎていて、なずなは気恥ずかしさを隠せない。
「秘密よ、秘密」
視線をさまよわせた挙句、苦笑で誤魔化すことにした。
「分かった。なずなの意味――口に出せない恥ずかしさ」
「違うわよ失礼ね! 変な方向に察するな!」
その誤解だけはしっかりと解いておいた。
なずなは興味深そうに、歌誉のうなじから覗くようにして机上へと視線を転ずる。
「それで? 何か気に入ったのあった? 何枚か借りていけるわよ」
「これ」
歌誉は即断した。余程気に入ったのだろう。変わらぬ無表情の奥に、少し輝くものを感じた。
が、なずなは彼女の差し出したそれを見て、困惑の表情を浮かべた。
「が、合唱曲? 渋いわね……」
それは古くからある混声合唱曲だった。なずなが知る由もないが、数十年も前から全国の小中学校で歌われてきた曲目だ。
釈然としない面持ちながらも、本人が気に入ったのならとカウンターで貸借手続きを取る。手続きを終えて歌誉にCDを渡した頃、桐吾が顔を出した。
「二人とも、ここにいたのか」
「桐吾。おかえり」
桐吾は脇に本を数冊抱えていた。どれも年季の入った、且つ分厚い代物だ。
と、すかさず歌誉が小走りに桐吾へと寄り添い、制服の端をつまんだ。
簡単には親離れできないか、と内心でへそを曲げつつ、なずなも桐吾へ歩み寄る。
「聞いてよ桐吾君、歌誉ったら歌すっごく上手いのよ?」
「成程、それで音楽コーナーなんだ」
「そ。きっと桐吾君も驚くわよー」
「へえ、それは聞いてみたいな」
「駄目」
歌誉に視線が集中したところで、彼女は意外にも首を横に振った。
気持ち眉を吊り上げ、口をへの字にしているように見える。断られて面食らっている桐吾の眼下で、歌誉は意気込むように鼻を鳴らした。
「練習する、もっと。上手くなる。桐吾には、それから」
へえ、となずなは感心する。
という事は、彼女は歌の練習をするために、一定時間桐吾から離れるという事か。
桐吾の研究の妨げにならないようにと歌誉を連れてきたが、上手い形に収束したものだ。
2
一つの街を壊滅させた。交渉が決裂してから滅ぼすまでに二日間を要した事を鑑みれば、ドラコベネ・ゼゼブ・ベネ・レゼにとっては手を焼いた方だ。数日で完治する程度ではあるが、いくつかの手傷も負わされた。
領主の龍は名も知れぬ郎党だった。終極の日前後の混乱に乗じて成り上がった、便乗屋の類だろう。寧ろ彼に荷担していた魔族の力が強大であった事に、ドラコベネの手傷は起因する。魔族を盾に尻尾を巻いた領主を思うと、同族として腹立たしい限りだ。
王政への迎合が、こちらの要求だった。焦土と化したその土地は、いまごろ王政直下の兵士が大挙している頃だろう。生存者の捕縛と、王政都市としての再建がその目的だ。
交渉役と、破談となった際の破壊がドラコベネの仕事なら、再建管理は部下の仕事だった。それがドラコベネの、王意の代行者としての在り方だった。
夜。ぽっかりと浮かぶ月を背に王城へと帰還したドラコベネは、僅かな疲労を抱えながらも、まずは王室へと足を向けた。
荘厳な造りの煉瓦壁、等間隔に並ぶ灯篭。頑健な足で踏むのは真紅の絨毯。見た目には豪奢だが、強度には難がある。アシハラに採用されている回廊と比較すれば、砂上の楼閣も同然だろう。だが、別段その事に危惧は抱いていなかった。
龍王の城は、標高三千メートルに建立されている。かつての長野県と岐阜県とをまたぐ、奥穂高岳山頂がそうである。日本列島のほぼ中央に位置し、且つ治安維持には最適な場所がここだった。
全種族において、空を飛べるのは龍族と魔族を置いて他にない。仮に異種が攻め入ってきたところで、山頂への長い道程に苦しみ、その難路を龍族は眼下に睥睨しつつ、いくらでも対応出来る。標高差こそが、王城の堅牢なる城壁となっている。
王城の最奥、一際頑健に鋳造された扉を開け、王室への敷居をまたいだ。
「戻りました。我が王」
ドラコベネは膝をつき、その巨体を小さく丸める。翼をたたみ、頭を垂れ、視線は床に落とす。そして敵意がないことを示すように、両掌を上へ向けて差し出した。
対するは龍王。世界で唯一、彼が平伏する相手である。
「ご苦労だね、ベネ」
労いの声は随分遠くから聞こえた。何せ広大な王室で、彼我の距離はまだ五十メートル以上もあった。その上、王の姿は御簾に隠され判然としない。
王の声は涼やかで、親和的だった。そこに厳格さはない。それこそ、ここに傅く宮廷闘士の声の方が余程厳めしい。ドラコベネはそれを、あまり面白く思っていなかった。
「顔を上げて、楽にしてくれ」
「御意」
姿勢はそのままに、ドラコベネは顔を上げる。
が、これといって何が観察出来るわけでもない。装飾という概念を極限までこそぎ取ったような部屋だった。壁面に描かれた代々の王の肖像画を除いて王室を彩るものはなく、窓も、照明さえもない。室内には深淵の闇が落ち、冷たい夜気が漂う。
これは夜目の利く龍族ならではの文化だった。王族は光そのものであるのだから、別の光源に照らして拝顔する事は無礼に相当する、という考えだ。
ドラコベネの視界には、はっきりと御簾が見えている。その向こうの玉座に腰を据える王は、その御名をカザロロフ・ヒドリョフといった。
「怪我をしているのか、ベネ?」
「王に懸念いただく程の傷ではありません」
「しっかり養生してくれ。お前がいなくなっては、この王政はおしまいだ」
「御意」
ドラコベネは即答する。胸中の苛立ちを億尾にも出す事なく。
ドラコベネの力に依存しなければ王政を維持できない非力を、王自身が認めている。元来、王とは絶対的な武力をもって民衆を支配するべきだというのに。
「また、戦争をしてきたのか」
「恐れながら、争いとは拮抗する双方の力比べを差すものです。私が行ったのは、単なる清掃に過ぎませぬ」
その声には何の情感も籠もっていない。誇示するでもなく、ただ無機質な記号を読み上げるように、彼は戦果を供述する。
「二百在った離反都市のうち、本日をもって九十五の処理が完了、うち二十二が王へ迎合し、七十三を滅ぼし、再建中です」
「あと六都市で過半数か」
「王政復古の悲願まで、あと僅かです」
終極の日に召喚されたのを契機に、王権は一度、失墜した。
王直属の宮廷闘士団が、次々に離反したためである。蓄積していた王への不信が、混乱に乗じて爆発したのだ。
「すまない。僕が弱いばかりに、ベネにばかり負担をかける」
「そのような事は、決して」
言下に否定するものの、それは事実だった。
そもそも宮廷闘士団が離反したのも、王の弱さに起因するのだ。
元来、龍族は武力がそのまま権力となる種族である。その種をまとめるのだから、当然、王族の力は他に類を見ない程に強靭だった。宮廷闘士団長のドラコベネでさえ、先王に勝利した事はなかった。
王政は古くから世襲制が採用されているが、別段、その事に問題は起こらなかった。現王――カザロロフが誕生する、その日までは。
「呪いの子、か」
「面白くもない事を思い出すものではございませぬ」
「そう言うな。いざ王政復古を目の前にすると、つまらない事が思い出されるものだよ。思い出し、重くのしかかってくる。だからベネ、君にも一緒に背負ってほしいと、僕はそう考えている」
「仰せのままに」
「あるいは僕は、生まれるべきではなかったのかもしれない」
召喚前の、旧世の頃の話だ。
先王が、次期王の卵を産み落とした。合計で五つあった。
しかし、カザロロフ以外の卵は一切が孵化しなかった。
本来であれば孵化した直後、蠱毒の如くに兄弟で殺し合い、一人に淘汰されるはずだったのに。
生誕直後の殺し合いに生き残った者が次期王となるのがしきたりであったにも関わらず、カザロロフは一切の暴力を経験する事なく、王位継承者の座についたのだ。
「僕は呪いの子と揶揄され、その噂は世界中に伝播した……」
「根葉もない噂です」
「だがそれが王政不信を呼び、成人の儀で更に加速した」
十歳を迎えたカザロロフ王子は、成人の儀式を執り行った。伝統的に行われるこの儀式は、宮廷闘士団の一人と戦闘を行うというものだった。
宮廷闘士に王子が勝利するというのが、これまでの慣例であった。圧倒的な力の前に、宮廷闘士が命を落とす事さえあったのだ。
しかし――
「たった一撃も見舞う事無く、僕は地に伏した」
それが一気に不信を膨張させ、王政打倒の声も日に日に増していった。
「そこに来て父が病に伏せ、支持率が底をついたまま王位を継ぎ――たった一月後に、終極の日を迎えた」
王としての尊厳も実力も備わらないままに未曾有の境地に陥り、彼に出来たのは、せいぜい慌てふためく事くらいだった。
「そうして、いまの構図が出来上がってしまった」
離反した闘士達は各々で支配した土地を領土とし、その地の王となっていった。宮廷闘士ばかりではない。身分は低くとも腕に自信有りと立ち上がる者達が追随し、続々と異界の地を分有化していった。
群雄割拠する乱世に、唯一ドラコベネは王下に残り、その牙と爪を王のためだけに振るった。王政復古を謳い、叫び、王下の都市を増やしていった。
異世界に召喚されてからの十五年間、彼はずっとそうしてきた。
彼以外の全ての宮廷闘士が王から離反したその瞬間から、ずっと、ずっと――。
過半数を王下都市とする事で、正式な王政復古の宣言が許されている。それがこの乱世のきっかけを作り上げたオルテラと交わした契約だった。
「……なあ、ベネ」
「はい」
「世を総べるには、武力しかないのだろうか」
「お言葉の意味が、分かりかねます」
「戦前、人族は法と経済によって統治を実現し、それを政治といったそうだ」
それはドラコベネも文献で読んだ事があった。
それだけに、否定の言葉に迷いはなかった。
「しかしそれが成立しなくなったがために、武力を用いたのではありませんか」
自虐戦争。
異界の者達が召喚される直前まで行われていた、人族同士の戦争のことだ。彼らは未来予知という技術を掌握するために、法を捨て、剣を取った。
つまり法とは、利益のためとあらば容易に捨ててしまえる程度のものなのだ。所詮、言葉の羅列程度で、欲を律する事など出来はしない。歴史がそれを証明している。
「ああ、そうだな。そうだ。……すまない、妙な事を言った」
「いえ」
「多分、僕が弱いからそんな事を考えるのだろうね」
「王」
咎めるような口調は、カザロロフに自重を促す。
「すまない」
謝意を告げた声から、しばらくの間が開いた。
「下がってくれ」
「御意」
ドラコベネは立ち上がり、王へ背を向ける。扉へと手をかけたところで、背後から王の声が届いた。思い出したように言う事には、
「ああそうだ、人族の技術提供会が明後日だったろう」
どうという事もない些事だ。ドラコベネは鼻を鳴らし、自負の顕示を王への返答とした。
「芥の知恵等、我らの牙に代わる所以もなし」
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