四季彩カタルシス
深水千世
春
サクラチル
山から吹き下ろされる風はどうっと音がするほど強い。四月の桜は見頃を過ぎ、葉桜へとその姿を変えようとしていた。
桜、散っちゃうな。サクラチルの俺みたいだ。
そんなことを思いつつ、無人駅で電車を待つ。人影のないホームは春の光で溢れているくせに殺伐としていた。ホームの側にあるでっかい桜の花吹雪だけが空しくひらひら舞い落ちる。
ベンチに腰を下ろし、予備校の参考書で膨れるバッグの重みから逃げた。
俺は今年、大学受験に失敗して予備校に通い出した。
今頃は、どのサークルにしようかなとか考えているところだったかもしれないのにね。最近じゃ
重いため息とともに、腕時計を見る。次の電車まであと三十分はあった。家にいるのも息が詰まりそうで、いつもこうやってホームで時間を潰すんだ。メンツとかお金のことを考えたら、両親に合わせる顔がないんだよ。彼らは「来年頑張れ」って励ましてくれるけど、それがありがたくもあり、惨めにもなる。
「天気、いいなぁ」
俺の心とうらはらだ。そう思いながらぼんやり桜の梢を見上げた。ざあっと風が起きれば白い花びらが舞い散り、風の足跡を見せてくれる。綺麗だなと思いながらも、頭の中で早く全部散ってしまえという声もする。桜が散るたびに、俺は思い描いていた大学生活の夢の欠けらが無残に剥がされ、捨てられているような気持ちになるからだ。
今日何度目かわからないため息をついたときだった。踏切が大きな音をたて、電車が来たことを知らせる。けれど、それは反対側の下り線のホームだ。
小さなワンマン電車が止まり、また去って行く。こんな無人駅に誰も降りないよなぁと見ていると、思わず「あれ?」と腰を浮かせてしまった。
ホームには、大きなスーツケースを持った女性が一人降り立っていた。携帯電話をいじりながら立っているが、垢抜けた服で身を包み、すらっとした長い足をしている。俺はその顔に見覚えがあった。
「……多恵ちゃん?」
彼女は何年か前に他県に嫁いだはずの近所のお姉さん、多恵ちゃんだったんだ。携帯電話を耳にあて、多恵ちゃんは誰かと通話を始めた。
「あ、もしもし? うん、着いた。今から帰るから! うん? あぁ、はいはい! じゃあね!」
相変わらずの大きなよく通る声が向こうのホームから響いてくる。携帯電話を切った彼女は、疲れたような、うんざりしたような顔をしていたが、こちらに気がつくと表情が一変した。みるみるうちに目が丸くなり、口が大きく開いた。
「こうちゃん!」
さっきまでの辛気くさい顔が満面の笑みになり、ぶんぶんと手を振っている。
「ちょっと待ってて、今、そっち行くから!」
「えっ? あの、ちょっと……」
俺が呆気にとられているうちにガラガラとスーツケースを引っ張って線路を渡り、こちら側のホームに駆けてくる。
「久しぶり!」
がしっと力強い抱擁に、思わず「ぐえっ」と変な声が漏れた。
「相変わらずだな、多恵ちゃん」
苦笑すると、彼女は白い歯を見せて笑った。
六つ年上の多恵ちゃんは昔から威勢がよかった。近所にある酒屋の娘で、小さい頃から身体が弱くていじめられっ子だった俺をかばって守ってくれた姐御肌。今だから言うけど、多恵ちゃんが他県に嫁に行くって聞いたときは「あんなじゃじゃ馬が?」ってびっくりしたもんだ。見送りまでは行かなかったけど、旅立ちの朝にはやっぱりちょっと寂しくてこっそり泣いたっけ。
「多恵ちゃん、どうしてここにいるんだ?」
彼女は「へへ」と笑い、きまりの悪い顔をした。
「離婚しちゃった」
「はぁ?」
無人駅に俺の素っ頓狂な声が響き渡った。だが、当の本人はケロッとしている。
「だから、出戻りなの」
「マジかよ!」
いや、手にしているスーツケースを見ればマジなんだろうけど。多恵ちゃんはベンチにどかっと腰を下ろし、思いっきり伸びをした。
「これからは実家の酒屋を手伝っていこうと思ってさ」
「……ずいぶん早かったね」
二年前に結婚して、もう離婚かよ。
「いろいろあったのよ」
ニッと白い歯を見せて笑う。けれど、俺は隣に腰を下ろして多恵ちゃんの頭をわしわしっと乱暴になで回した。
「無理すんなよ」
俺は知ってる。多恵ちゃんが何かを我慢しているときは、こうやって歯を見せて笑いながら握り拳をしてるんだ。そっと固く握りしめられた手を取り、自分の膝の上に置いた。
「泣いたっていいよ」
「一丁前になによ……こうちゃんなんて……」
おどけようとしたものの、多恵ちゃんは最後まで言葉にすることができなかった。その声はすぐすすり泣きになったからだ。
そのうち、また踏切にカンカンという警告音が響き渡る。俺が待っていたはずの上り線の電車が近づいてくる。そして、誰も乗車しないことを確認すると、扉が閉まり、無人駅を発車した。
「……乗らなくていいの?」
ずびっと鼻をすすりながら、多恵ちゃんが呟く。
「うん。今日はサボる」
俺と多恵ちゃんはホームのベンチに座ったまま、小さくなる電車を見送った。
「サボるって何を?」
「予備校。俺、今年の大学受験、失敗したんだ」
「はぁ、サクラチルだったの」
泣いてすっきりしたせいか、彼女は元々の遠慮のない性格丸出しで頷く。
「そうだよ。みんなが学生生活エンジョイしている中、俺は浪人ライフだよ」
なぐさめるんじゃなかったろうか。ちょっとふくれっ面の俺に、彼女はへへっと笑う。
「いいじゃない。みんなはさっさと上にいっちゃったわけだけど、こうちゃんは深みを増すってことでしょ?」
「へ?」
「だってさ、みんなが大学行っている間に、こうちゃんは本を読んだり綺麗なもの見たり、四季を感じたり、感性を磨けるわけだ。失敗したことから痛みもわかるわけだ。んで、そのあとでゆっくりみんながした勉強をやれるんでしょ。有利じゃん」
「えぇ?」
「だから、どんどんひょろひょろした枝を伸ばすよりもさ、どっしりと根っ子生やしたほうがいいこともあるって」
「なに、その屁理屈」
「いいのよ、屁理屈でもなんでも。だって、理由をこじつけてでも自分を納得させて前に進まなきゃならないときって、あるじゃない」
そう言うと、彼女はまた大きな伸びを一つした。
「焦ることないよ。たかが一年、されど一年。無駄にするかはこうちゃん次第だよ。私も同じだけど」
多恵ちゃんが自嘲するように口を開く。
「結婚したらいずれ子どもできて幸せになるイメージってばかばかしいと思わない? 子どもができるとは限らないし、幸せになる保障なんてないし。そのレールに適応できなきゃ異端児なの? ちょっと寄り道したっていいし、違う道だってある。大学も一緒でしょ。結局は結婚も受験も、奇跡と努力のタイミングだよね」
「奇跡と努力?」
「奇跡を呼び寄せるのは努力だもん」
「……はぁ」
「でもね、奇跡は滅多に起きないから奇跡なわけで、こうして離婚してきたわけだけど」
多恵ちゃんが笑って立ち上がった。
「くよくよするなよ、こうちゃん。胸張っていこうよ。私たち、痛みを一個知っただけだよ」
呆然としながら、俺は「あ、あぁ」と呟いた。
多恵ちゃんは昔から前向きというか、強いというか、とにかくめげない性格だったのを思い出していた。
「帰ろうよ。こうちゃん、車?」
「チャリです」
「なんだ、まだ免許取ってないの? 送ってもらおうと思ったのに。このスーツケース重いんだよね」
多恵ちゃんは俺の自転車に乗り、のろのろとゆっくり進む。そして、何故か俺が大きな彼女のスーツケースをがらがら引いて隣を急ぎ足で歩いた。
多恵ちゃんは俺の知らない歌を口ずさんでいた。お気に入りの歌なのかと思ったが、もしかしたら誰かとの思い出の曲なのかという気もした。
線路沿いにある神社の境内から、大量の桜吹雪が舞い降りてくる。服の袖に桜の花びらが一枚ついているのを見つけ、そっと手に取った。柔らかく薄いそれは、軽く力を入れただけでくしゃっと丸まってしまった。
ふと、隣を歩く多恵ちゃんを見やる。昔より痩せて、髪も伸び、強い目になった。でも、笑顔と歩き方は記憶にある多恵ちゃんそのものだ。
きっと、俺の知らない痛みを彼女は隠し持っているんだ。
俺は結婚もしたことないし、離婚がどんなものなのかわかりっこない。けれど何も言わないだけで、心の中ではたくさんの生々しい傷がうずいているのかもしれない。
彼女が屁理屈をこねながらも異様に前向きで強いのは、心の奥底に桜の花びらみたいにもろくて綺麗な部分があって、それを守ろうとしているからなのかな。
風が路面に落ちた桜の花びらを撫でて、去っていく。多恵ちゃんの中にある桜の花びらはどんな風の模様を描いているんだろうか。吹き荒れた嵐に、傷んで茶色いシミを作っているかもしれない。
今度は、優しい風が吹くといいね。そう思った。
俺も、来年はサクラサク。多恵ちゃんの心の桜も、安心して咲き誇れる風と出会えたらいいよな。焦らなくていいさ。無駄じゃなかったって言えるようにすればいいんだ。
桜の花びらが、傷を一つ抱えた俺たちを慰めてくれたようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます