第36話 決戦の金曜日・後編
戸塚先輩。あの顔、覚えてる。前回あたしを襲った不良の中で、唯一あたしが倒せなかった男。
今回なんて、一人も倒せていないけれど。
ああ、なんだろう。これからとても嫌なことをされるってわかってるのに、目の前のことが考えられない。
ぼんやりと思い出すのは、倍巳だった頃の最後の記憶。
複数の不良にタコ殴りされた最悪の瞬間。向けられた拳の一つ。その中に、いた。そうか、あいつ。倍巳にも潤美にも牙を剝いた不良だ。
それが何故、今回は助けようとして動いてくれたんだろう。
「あ……。嫌っ、嫌だよ……」
太ももを撫でられた。現実に引き戻される。
鳥肌が立った。
手首の拘束が外れない。気持ち悪いのに振りほどけない。
「だめ! やめてよ!」
男の手がスカートの中に侵入した。
直前の殴り合いが変な作用でも引き起こしているのか、完全にケダモノになっている。荒い息遣いは半ば狂人のそれだ。
「助けてお兄ちゃん……。……哉太!」
閉じた瞼の裏で星が散った。
数瞬遅れて、頬にじわじわと痛みが拡がってゆく。
「……ったくよお。叫ばなきゃ、殴ったりしねえってのに」
力が抜けた。地面を這いずることさえできなくなる。
あたしは非力だ。たった一人の不良さえ、ろくに対処できない。
「俺がオンナにしてやんよ」
オンナ。あたしが本当の女に。
どうせ抵抗できないのなら。もうこの際、それで——
「俺の潤美に何しやがる!」
鈍く重い音が響いた。
瞠目する視界の中、あたしにのしかかろうとしていた不良の体が宙に浮いている。
「ぐは……」
路面を転がってゆく不良。起き上がろうとして力尽き、大の字に伸びてしまった。
「ち。蹴りだけで寝やがって。立てよオラ。拳も味わえ」
哉太! 哉太だ!
「か——」
だめだめ。
「哉太……兄。口調が不良さんみたいになってるよ」
哉太はあたしのじゃない。あたしの……あれ。哉太、さっき何て言ったの。
俺の……潤美。まさか。聞き間違いだよね。
「おう。さすがに頭に血が上ってる」
あ。誰かがあたしの肩に手を。
「詩奈先輩」
「待ってな。すぐ拘束を解いてやる」
「ありがとうございます」
「おう。あーしが言うべきはごめんなさい、かな」
あたしの手首に集中しているのか、しゃがんだ姿勢の詩奈先輩の声は少し聞きとりづらい。
「え、なんで」
「マスミンに誤解させるようなこと、したからな」
誤解、なの?
「ああ。今日は絶対、マスミンと田中を引き離しちゃいけねえ。それだけを考えてたはずなのによ」
あ、手首の紐が緩んできた。
詩奈先輩は説明を続ける。
放課後、他クラスの女子からの呼び出しに応じる哉太を見て、すぐに告白だと思ったとのこと。一方、そんな経験が皆無だった哉太はと言えば、用件には全く思い当たる節がなく、首を傾げながら屋上へ向かったそうだ。
「案の定告白だったんだがよ。なにテンパってたんだろうな。相手の女からの告白を阻止しようとしたんだが、うまいやり方が思いつかなかったんだ」
「あのとき先輩、他人のものをとるな、って」
「他人ってのはおまえのことなんだよ、マスミン」
「え」
紐がほどけた。
「ありがと——」
「で、田中の腕を掴んだのは、一刻も早くマスミンのとこへ連れて行きたかったからだ。でもまさかマスミンがあの場に間に合うとは思いもしなかったんでな。振り返った途端に固まっちまった。今思えば、誤解させて当然だと思ってるよ」
そうだったの。あたしバスターなのに、本当にやられちゃってたのかな、佳織のスレイブによる恋愛脳汚染とやらに。
「にしてもマスミン、えらく脚速いのな。あーしはともかく、田中でさえ追いつけねえなんて。あいつ、見失ってすげえ焦ってた。随分電話したみたいだぜ」
「うん、着信いっぱい来てました。教えたんですか、リア充襲撃計画のこと」
「ああ、教えずにいたことで、もしあいつがマスミン探すのを諦めでもして——。それで襲われたりしたら、あーしは……」
そう言うと唇を噛む。あたしは思わず首を傾げてしまう。
「詩奈先輩、どうしてそこまで気にかけてくださるんですか」
がばっと音がするほど両手を広げたかと思うと、そのまま抱きついてきた。
「ふえっ」
「理屈なんかいるかよ。一目見た瞬間から気に入ってんだよ、マスミンのこと。守りてえよ、好きなんだよ、悪いか」
悪いか、と囁くような声でくり返す。
あたしは彼女の背に腕を回した。
「悪いわけないじゃないですか。嬉しいです、詩奈先輩。あたしも好きですよ」
「あたしの好きとマスミンの好きは、多分違うんだが……。いや、なんでも」
ごにょごにょと呟く詩奈先輩。
あたしなんかに一目惚れですか? 大丈夫です、どんな意味でも嬉しいですから。
でも、ごめんなさい。今は気付かないふり、させてくださいね。
だってやっぱり、あたしは哉太が——
「どうした。頬腫れてんじゃねえか」
優しく包み込むような手つきであたしの頬に触れ、背後を睨む。
「野郎、女の顔を殴るとか最低最悪のクズだな」
先輩の手に自分の手を重ね、あたしは微笑んだ。
「だいじょぶです。こうして哉太兄と詩奈先輩が助けてくれたから。こんなの、すぐ治っちゃいます」
実際、この体は怪我の治りが驚くほど早い。この程度の腫れ、帰る頃にはすっかり引いているだろう。
「マスミンお前……。優しすぎるぜ。あんなクズ野郎、絶対に許しちゃだめだ」
「んー。今はもちろん許せませんけれど。多分ですけど、あたしの胸を揉んだ人は、時間が経てば更正するんですよ」
きっとそう。そうですよね、戸塚先輩?
ああでも、なにそれ。自分で言っておいてなんだけど、嫌すぎる。
立て続けに打擲音が響いた。
息を呑む。そうだ、まだ終わってない。
音の方に目を向けると——
「美沙姉。……藍先輩!?」
美沙姉は平手を振り抜いた姿勢だ。ビンタをしたらしい。
相手は佳織。美沙姉の正面でうずくまっている。
ふと哉太を見ると、自分の頬を押さえていた。ああ、経験者だからね。痛みがわかるんだろうな。
「おおよそのことは倍巳から聞いたわ。あなたの考え無しの行動で、あたしの大事な潤美が酷い目に遭った。猛省なさい」
美沙姉ってば、こんな冷え切った声出せるのね。それより、誰から聞いたって? 何を?
いやいや、そんなことより。あたしの大事なって。うひゃー。
「顔赤いぞマスミン」
「だいじょぶです。嬉しすぎるだけですからっ」
「はあ。あわよくば二号にでも収まれねえかと思ったが。どうやらライバルは多いみたいだな」
「え、なんですって」
今日は鈍感キャラで通します。ごめんね詩奈先輩。
視線を巡らすと、藍ちゃんがいた。拳を振り抜いた姿勢だ。
その正面では矢井田先輩がうずくまっている。
「鉄っちゃんを正気に戻すためなら、僕は拳に訴えることさえ厭わないよ。鉄っちゃんならいつか自分で気付くと思ってたのに、ちっとも気付かないから。らしくないよ、そんな人魂なんかにあっさり操られるなんて」
え、えっ。ワームが見えてんの、藍ちゃん!?
躊躇なく佳織にビンタした美沙姉といい、二人ともある程度事情を知っていそうな雰囲気なんだけど。
【遅くなってすみませんマスミ様。非常手段として、マスミ様と親しく適合率が高い方々にサブマスターになっていただきました。もちろん上位管理者様の裁量権の一部を強だ——いえ、強訴して、裁量権の一部をこのアルガーに任せていただいた上での行動ですが】
うわ、アルガー、居た。
あなたお兄ちゃんの演技は? てか、サブマスターって、なに。
【後ほどご説明します。まずは一つ、懸念すべき情報を】
アルガーがいなくなってたことと関係ある情報なのよね。
【仰る通りです。難敵が現れました】
そっか。同時に攻撃されちゃうと、あたし役立たずよね。悔しい……。
【いえ、マスミ様には一切の落ち度はございません。想定外の道具を使われたこと、敵がそういった類いの技術を持ち得る可能性を失念していたこと。全てこちらの手落ちです】
想定外の道具?
【コマンドジャマー。いえ、名称は便宜上のものですが、未知の技術によって妨害を受けました。実体化を果たしたばかりの倍巳様の肉体は、このアルガーとのリンクが切れた状態にてご自宅で寝ておられます】
妨害って。一体どこの誰が。
【サイトウですよ。ついこの間マスミ様がマーキングしたワームキャリアです。今回はしてやられました】
今回、コマンド使えなかったことと関係があるのね。
【ご名答です。一気に襲ってこないところを見るに、サイトウとしてはただの示威行動。いつでもこちらに勝てるという余裕を示しているものと思われます】
嫌だなあ。あたし、厄介な奴をマーキングしちゃったのね。
【そこで賭けに出ました。ミサ様、アツシ様——いえ、アイ様。ジャマーの効果範囲外におられたお二方なら、このアルガーのサポートによってバスターコマンドを使えるのではないかと】
ジャマーと言うものがピンと来ないんだけど。バスターコマンドに対する妨害電波みたいなものかしら。
【その理解で合ってます。もしサイトウがジャミングを続けていたら、お二方もコマンドが使えない可能性があったのですがね。全くの推測ですが、ジャミングには効果範囲および持続時間に制限があるものと考えています】
本当に賭けだったのね。
じゃ、矢井田兄妹はさっきのビンタとパンチで。
【はい。ヤイダ様のワームは消滅しました。カオリ様は、まあ放っておいても同じ結果ではあったでしょうが、スレイブ状態が解除されたことによって正気に戻るかと】
美沙姉と藍ちゃん、二人同時にこちらを向いた。と思ったら同時にウインク。
これってもしかして。
【ご想像の通り。サブマスターとして登録なさいましたので、お二方にはこのアルガーの言葉、聞こえております】
ど、どこまで知ったのかな。あたしの事情。
あ、美沙姉がスマホ取り出してる。十メートルと離れていないのに。あたしのも電源入れろってことかな。
うひゃ、着信。
「潤美。大体知ったわよ。あなたが
どうしよう。なんて言おう。
「あのね美沙姉。……ごめんなさい」
「謝る必要はないわ。今のあなたは
優しい。でも有無を言わさぬ口調。
「美沙。あたしは——僕は」
「今さら口調を戻すのは許さないわよ。これからはずっと……。あなたのこと、愛してます。もちろん大事な妹として、ね」
熱いものが頬を伝った。
詩奈先輩が無言でハンカチを差し出す。
お礼を言って受け取り、そのまま詩奈先輩の胸に顔をうずめた。
「妬けちゃうわね。そういうことはあたしと——あと、そうね。哉太以外には、あんまりしないでほしいな。後で思いっきりハグしちゃうんだから。覚悟してなさ——あっ」
「やっほー潤美」
声が変わった。加奈だ。顔を向けると、加奈が美沙姉のスマホを使っている。その横には菜摘がいて、美沙姉にぺこぺこと頭を下げていた。
加奈は最初の一言だけでスマホを口から遠ざけると、菜摘の口許に寄せた。
「もちろんお二人は潤美さんにとって大事な方。でもあたしたちにとっても、潤美さんは大事なんです。お二人の次で構わない。でも、あたしたちだって潤美さんの側から離れませんから」
「な、菜摘、加奈まで……。知っちゃった、の?」
二人に知られたなんて。声が震えた。
「そゆこと。これらは一人で抱え込まないで、僕たちにも相談しなよ。少し前はお兄さんだったらしいけど、そんなの関係ない。今は僕たちにとっても大事な妹なんだからね」
「な……んで。なんでそんな嬉しいこと言うんだよお。もう、さっきから涙、とまんないよう……」
「あたしたち二人ともサブマスターですからね。もう、潤美さん一人にだけ、危ないことはさせませんから!」
「え、それはだめだよ」
「聞きません。潤美さん。今回あなたが周りにどれだけ心配をかけたか、もう少し考えてください」
「あう。ごめん……なさい」
あれ。詩奈先輩が離れていく。
「俺も聞いた。いっぱい泣けばいいさ」
「…………」
上目遣いに見上げる。
彼は同じタイミングで空を見上げ、しかし観念したようにこちらを見下ろしてきて——まっすぐに目が合った。
「悔しいことに俺だけサブマスターとやらになれなくてな。適合率とやらがめっちゃ低いらしいんだ」
【むしろ男性なのに適合率が恐ろしく高かったマスミ様やアツシ様が異常なのです。アツシ様に至っては、ミューテーションなしでコマンドを使いこなしてしまわれましたから。この国では、男の娘は特別なお力をお持ちなのでしょうか——ごめんなさい黙りますね】
「————————っ、か」
哉太。
頭に乗せられた大きな手。優しく撫でられる。
「哉太……兄」
「いいよ。今まで通り、哉太で」
もう、もう我慢できないよ。目をそらせないよ。
「男なのに。……男だったのに。今は女として、哉太。あなたのことが……」
「言っただろ。俺の潤美だ。……その気持ち、心から嬉しいよ」
もう四月も終わりだというのに、まだ涼しさを感じさせる風が吹き抜ける。
でもそれは、あたしの頬を伝う滴から熱を奪うにはほど遠い。
【お取り込み中失礼します】
ほんとに無粋だな、アルガーはっ。黙るって言ったくせに。
【まだワームが九体。任務は未完ではありますが、こうしてサブマスターも増えました。サイトウは難敵です。それでなくてもこちらから手を出すわけにはいきませんが……、同時に奴としてもこちらの陣営のパワーアップに気付いているはず。しばらくはお互い、様子見の状態となるでしょう】
警戒は続けなきゃ、だね。だって今回、アルガーの予測は当たらなかったし。
【耳が痛いです】
仲間が増えて嬉しいけど。あたし、誰にも危険な目に遭ってほしくないよ。もう一つ何か、パワーアップなり保険なり、欲しいところね。
【では、完全ミューテーションをご希望なさいますか?】
今までと何か変わるの、それ?
【はい。まず、倍巳様としてのお身体に戻ることができなくなります】
問題ない。
【そして、このアルガーによるサポートなく、バスターコマンドが使えるようになります】
なにそれすごい。でも、だとしたら今回のピンチは。
【まだマスミ様は迷っておいででしたので。それに、コマンドジャマーの存在は予測できておりませんでした。申し訳ないことです】
あたし、もう迷わない。
「哉太。あたし、なるよ」
省略だらけの短い言葉。
しかし、ある程度の予備知識を得ていたらしい哉太は、迷わずに返事を寄越した。
「おう。それは潤美だけじゃない。俺の——俺たちの望みだ」
菜摘、加奈。美沙姉、藍ちゃん。それに詩奈先輩。みんなが微笑み、頷いてくれた。
全員の目を見つめ、あたしも微笑む。
「本当のあたしに」
マスミ・ミューテーション!
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