シュルそれぞれリスム

橙田千尋

たのしい数学ⅠA

「では、始めてください」


 一斉に紙をめくる音が聞こえる。めくる音が止んだと思った瞬間、それは鉛筆やシャープペンシルの芯を叩きつける音に変わる。

 1月某日。11時20分から始まった数学ⅠAのテスト。高校生を中心に沢山の人々が様々な会場で同じテストを行っている。これがセンター試験である。

 普通なら、数学ⅠAが終わると、数学ⅡBが始まり、その後理科へと続いていく。そして夕方、ぞろぞろと高校生たちが帰路につく。この光景を見た人はさながら、死者の行進と思うかもしれない。半分ぐらい当たっている。まあ、これがいつものセンター試験2日目である。

 しかし、この年はいつもと違った。結論から言ってしまえば、数学ⅠAがテストであることを放棄してしまったのだ。異変はテスト開始3分後に起こった。とある会場の、とある学生が手を上げた。試験監督官が学生のもとへと向かう。学生は動揺した面持ちで、試験監督官のほうへ顔を向けた。

「す、すいません、第3問の(3)の三角形が、無いのですが」

 試験監督官は最初、学生の言っている事が分らなかった。緊張のしすぎで、頭が煮えてしまったのだろう。しかし、無視をするのも悪いので、一応第3問のページを見ることにした。

 第3問の(3)は三角形の問題だった。文字で見るとそう書いてある。おそらく正弦定理や余弦定理を使って解く問題だろう。

「どこもおかしいところは無いと思うけど」

「違うんです、三角形が、頂点ABCが、頂点になってくれないんです」

 学生は青ざめた顔を小刻みに震わせている。

 おそらく、頭の中がエラーを起こしているのだ。別にこれは彼自身の問題であって、問題の問題ではない。この状態では問題を解くことはできないだろう。

「救護室に行った方がいいかもしれない」

「し、信じてくれないんですか。それなら、あなたもやってみればいい」

 涙ぐみ、口元から泡を出しかけている学生を見て、試験監督官はいたたまれなくなった。仕方なしに、学生の言うとおり、頭の中に三角形を思い浮かべて......

 できない。三角形ができないのだ。頭の中でABCはひたすら動き回り、頂点になろうとしない。頂点にならないということは、頂点から頂点に向かって真っすぐ進んでいく線もない。線もないということは、つまり、三角形はおろか図形すら完成しない。

 試験監督官は焦った。目が頭の中のABCと同じようにひたすら動き回っている。何とか視点を制御し、顔を叩き、改めて教室の中を見回す。教室は数学ⅠAが始まった時とはまるで違っていた。まず、音が全く聞こえない。まだ10分も経っていないのにも関わらず、教室からは何の音もしなかった。学生たちの顔を見る。みな同じ顔をしていた。絶望を擬人化すれば、この教室の学生たちの表情をしているに違いない。鉛筆やシャープペンシルは宙を彷徨い、行き場を失っている。試験監督官はたまらず、廊下へ逃げるように飛び出した。

 ほぼ同じタイミングで隣の教室にいた、小太りの試験監督官が廊下へ出てきた。汗をびっしょりとかいている。2人は目が合うと、お互いに奇妙な現象について話し出した。

 どうやら、隣の教室でも同じような現象が起こっていた。第4問に出てくる赤、青、黄色の玉がどこかにいってしまったらしいのだ。玉が無ければ、確率をはじき出す問題が成り立たない。誰も手を上げた人はいなかったが、手を上げた学生のいる教室と状況は何ら変わらなかった。

 結局打開策を思いつくことのできないまま、12時20分になり、数学ⅠAのテストは終了した。廊下から学生たちが出てきたが、全員が仮面を被っているかのように、悲しみがはりついていた。

 その後は何事もなかったかのように試験は進み、2日目の全日程が終わった。数ⅡBや理科の問題も同じような状況になるのではと皆が戦々恐々としていたが、杞憂に終わった。のろのろと学生たちが、駅に向かって歩いて行く。葬送行進曲が流れていてもおかしくはなかった。

 控室に戻ると、試験監督官たちの話題は数学ⅠAで持ちきりとなった。グラフのX軸とY軸がどこかに行ってしまって頭の中で思い描けない、分数の横線が消えてしまってどれが分子でどれが分母だかわからなくなってしまった、円を思い浮かべようとすると、どこかで線が千切れてしまい、円にならない等々、様々な現象が起こったらしい。

 翌日、全国の高校や予備校は、まさに阿鼻叫喚と呼ぶにふさわしい惨状だった。泣き出してしまう学生は数えきれなかったし、自己採点の途中で失神し、全国の高校の保健室で沢山の生徒が担ぎ込まれた。中には自殺者も出たという。また、数学ⅠAの平均点が後日発表されたが、6点とあまりにも悲惨極まりないものだった。しかし、全員が同じような状況に置かれていたため、得点調整などはされなかったし、その後の大学毎の試験も、あまり受験生に点数面で大きな影響は無かったのが不幸中の幸いである。メンタル面での影響は計り知れなかったが。

 こうして、この年のセンター試験は幕を閉じた。


 数ⅠAはその後、何もなかったかのように普通の問題に戻った。もうこんな事態は起こらないかもしれないし、また起こるかもしれない。ただ1つ言えるのは、他の科目もテストであることを放棄する可能性は十分にあるということだ。試験管が逆さまになって、試薬が全部こぼれてしまったり、重りをぶら下げている糸が急に切れてしまったりしても、驚くのはやめたほうがいい。テスト問題の中には、数ⅠAのように、自分の役割を放棄し、勝手に遊びに行ってしまうものだっておそらく存在するのだから。

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