天翔る麒麟
鯊太郎
第1話 人として
京より北、日本海に面したこの地をその昔
国内に平坦な土地は少なく、領土の半分を丹後半島が海へと迫り出している。けっして
時は折しも戦国時代、近畿に勢力を伸ばしていた織田信長は、上杉謙信の死去に伴い
この時も義道の命を受けたその子
当然若狭武田氏側も黙って見ていたわけではない。高浜城より
そんな中、兵の組長を務める
「おい桂、内藤様とは離ればなれになってしもうたな」
「声を立てるな与六、ここは敵地の真っ直中ぞ」
結城桂は同じ組兵の
「しかし、ずいぶんと腹も減ったではないか」
それもそのはずである。与六の身体は人一倍大きい。
そんな身の丈六尺三寸の彼が構える朱槍は太く、これまた二間二尺の
そんな彼は、この結城桂の同郷の友でもあり、また信頼のおける
当時一色家では、この組兵という兵の組織を作っていた。各重臣の下には何人もの侍頭がおり、その更に下には一組から五組までの組兵達が配属されているのだ。ひとつの組兵は六人ほどから成り、そのまとめ役が組長である。
吉坂峠砦に攻め入ったときには六人いた結城桂の組兵も、今では桂と与六の二人だけとなっていた。
彼らの侍頭でもある内藤弘重ですら、今ではどこにいるのか分からないのだ。当然他の組兵のことなど、この時の二人には知る
そんな彼らの前に、一軒の屋敷が
「おい桂、あれを見よ。あそこじゃ、明かりが灯っておるぞ」
与六はその大きな槍の穂先で、灯りが見える方を指した。
結城桂は背中より弓を引き抜くや、音も立てずにその弦に矢を
「敵の兵がいるやもしれん、忍んで行くぞ」
二人は背を丸めながら小走りに畑を横切ると、木々の間から
屋敷までほんの目と鼻の先にと迫ったとき、突然屋敷の中から女子の悲鳴が聞こえて来た。
表門を抜ける二人の眼には、意外にも屋敷への入り口が間近に見えた。
戸は外側より壊されたのか、戸板が内側へと傾く格好で外れている。その入り口から続く土間は、これまた意外にも広く感じられ、光の届かぬ奥はただ真っ黒な空間が広がっているように思える。
灯りは点いていないものの、その異様さはそこに居る二人にもすぐに感じることができた。
不意に、桂が忍ばす足先に無機質な感触が伝わって来た。それは
彼にはすぐに、それがすでに死んでいる人間の身体であることが分かった。
しだいに眼が暗がりになれてくると、そこには転がる木桶や
誰も
与六は目一杯彼の眼を見開くと、その槍の穂先で、音も立てずに一体一体のその生死を確かめている。
二人の嗅覚は
桂は顔を上げた。暗闇に一点、土間から続く廊下の突き当たりの壁が
「どんなに泣きわめいても、誰も助けに来る者などおらんわ」
その声は野太く、相手を
どうやらその声の主には、まだ二人の存在は知られていないらしい。桂はその灯りを頼りに、部屋へと続く廊下に足を掛けた。与六も後に続く。
彼らは全身の神経を踏み出す自分の
ところが、廊下の突き当たりにと差しかかったとき、
「誰じゃ?」
部屋からは二人の男が飛び出してきた。
暗がりに眼が慣れていた桂には、男の持つ槍の穂先が鈍く光っているのが見える。
「誰じゃと聞いておる」
男はもう一度尋ねた。
しかし、桂も与六もその男の声には確かに聞き覚えがあった。それは内藤弘重が配下である、別組の男のものに相違なかった。
「おぬしは五平ではないのか?」
今度は桂がその声の主に聞き返す。
「そう言うおぬしは誰じゃ?」
「わしじゃ、二組の結城桂じゃ」
言い終わると、にわかに部屋の灯りがまた点けられた。桂と与六はその灯りを横から受けた男達の顔を確かめる。
それは紛れもなく、一組の中村
「お願いです、止めて下さい・・・」
「聞き分けのない娘じゃの。手こずらせるでないわ」
部屋の中からは、また違う別の声が聞こえてきた。咄嗟に部屋の中を覗き込んだ桂の眼には、一人の若い娘が甲冑を着けたままの大男にのしかかられ、今まさに手込めにされようとしている姿が飛び込んできた。
「弘重様の
五平は部屋の隅に座ると、二人にも座って見ているよう促した。もう一人の男杉吉之助は彼らと入れ替わるように廊下へと出る。
「二組の者か。しばしそこで見ておれ」
その大きな男は娘の衣服をはぎ取ると、その
彼が着ける甲冑の
と、突然。
「内藤様、
桂はその娘の声にも負けないくらいの大声を張り上げた。
にわかに部屋の中には絹糸を弾いたような緊迫した空気が張りつめる。
男はその大きな身体はそのままに頭だけ振り返ると、桂をじろりと
「お前か、今何とか申したのは」
言いながら、男はその場にゆっくりと立ち上がった。その右手にはすでに太刀が握られている。薪の炎が男の顔を照らし出す。
侍頭の内藤弘重である。
同時にその灯りは先程までは見えなかった部屋の隅々をも照らし出した。
何と、娘の傍らには男女の骸が一つずつ。この娘の親であろうか、一人は
いくら戦乱の世とは言え、このような
「内藤様、何故このようなことをなさりまするか?・・・」
なおも弘重は桂に近付く。
「
言うが早いか、弘重は桂の左肩を
隣では与六が、ほぼ反射的に槍の穂先を弘重目掛けて突きつけた。弘重を挟んで与六とは反対側にいた五平は、この光景に半分腰を抜かしかけていたが、廊下に出ていた杉吉之助は、そんな与六の首筋に向け真っ直ぐに槍をたがえている。
「わしらは皆、同郷の仲間ではないか。このようなことで
弘重は床に刺した太刀先を引き抜くと、もう一度不敵な笑みで桂を睨み返した。
「その槍でわしを突いてみるか?」
言いながら、彼は与六の繰り出す槍の穂先の前に、自分の胸を押しつける。与六には灯りを背にして立つ内藤弘重の身体が黒い
与六は片膝を付くと、その槍を床に降ろした。
弘重はゆっくりと振り返りながら、今度はその娘の顔を覗き込む。
「わしが憎いか。憎むならこの世を憎め、力のない
そう言うと、彼は横たわる骸を右足で蹴飛ばすように部屋の隅へと払いのけた。
再び彼の手が娘に伸びたとき、弘重のその大きな身体めがけて今度は桂が身体ごとぶつかって行った。
「
しかし、彼の身体は立ち上がるのではなく、そのまま仰向けにひっくり返った。
見ると、弘重の腰の辺りからはおびただしい血が吹き出ている。
桂は起きあがると、もう一度弘重の脇腹辺りに太刀を突き刺した。今度は弘重の片足が
桂はこの闇の中、もがく弘重の鼻と口を手探りで探ると、両手で力の限りにそれを覆った。
脇腹を刺された弘重の口からは、生暖かい、それでいてぬめりのある液体が次々と
この様子に廊下で控えていた吉之助も槍を手に部屋の中へと入ろうとしたが、その首元にはすでに与六が繰り出す朱槍がその鈍い光を放っている。
しばしの沈黙が続いた。まるでそこには生きている者などいないかのように、音のない静寂の時間が流れる。
桂が再び薪に火を入れると、そこにはまた、少しずつ生きた人間の様子が浮かび上がってきた。
彼の横には、もうすでに呼吸をする事を止めた内藤弘重の身体がある。
その顔を薪の炎が仄かに照らし出している。それは先程のものとは違い、桂には
桂は娘の着物を拾い上げると、それを娘へと放った。娘はそれを肩に掛けたまま、未だ身動き一つしようとはしない。
無理もない話であろう、突然進入してきた武者共によって家の者をはじめ眼の前では両親を殺されたあげく、今まさに自分の
娘は口を
一方、部屋の隅では五平が小太刀を握りしめたまま腰を抜かしている。
桂はゆっくり振り返ると、与六の方に眼をやる。与六は未だにその穂先を吉之助の
「すまぬ与六、かようなことになってしもうた」
桂は太刀を囲炉裏へと放り投げた。
与六は眼だけはじっと杉吉之助を
「こうとなっては仕方があるまい。それよりこれから如何にするかじゃ。まずはこの二人の始末を何とする?」
その言葉からは、容易に彼の意図が伺い知れる。
桂は中村五平の前に座ると、小さく一つ頭を下げた。
「すまぬ五平、人としてわしには内藤様の行いを見過ごすわけにはいかなんだ」
「わ、わしは内藤様の言うがままに従ったまでじゃ。むろんおぬしらのことなど誰にも言わんぞ。だ、だから命だけは助けてくれ」
五平は立て膝のまま小太刀を放ると、両手を拝むように合わせた。
「吉之助、そちは如何じゃ?」
吉之助は槍を廊下の隅にと放るなり、どっかとそこに
「わしはわからん。おぬし達のことを言うとも言わんとも約束はできん。できぬ約束はわしはせん」
桂と与六は供に顔を見合わせた。与六はその穂先を吉之助から離すと、襖越しに五平の脇腹へと一気に突き刺した。
途端に襖と畳は彼の血で真っ赤に染まっていく。五平は一言も発する間もなく絶命した。
「すまぬ五平、一度人を裏切った者はいずれまた必ずや裏切るものじゃ」
反面二人には、吉之助が容易に自分達のことを
「わしは殺さんのか?」
伏し目がちに一点を見つめるようつぶやく吉之助に、桂は自分の言葉を押し殺すように答える。
「我らとて、無駄な
当然この場で殺すことは簡単だが、二人にはこれ以上仲間を
与六は吉之助を柱に縛り付けると、その傍らに短刀を置いた。
いくら殺さぬとはいってもここは敵の領地の真っ直中、このまま縛り付けておいてはみすみす敵の手にかかるは目に見えているからである。自分達が出払った後に、それで縄を切って逃げろと言う意味である。
それから、桂と与六は足早にその部屋を後にしようとした。
「やっ、桂・・・」
与六が見つめる方を振り返ると、そこにはあの娘が裸で立ちつくしている。
娘は囲炉裏の中から太刀を引き抜くと、それを頭の上に振りかぶり、今はもう動くことをやめた内藤弘重の胴に目掛けて思い切り打ち付けた。一度、二度、三度と・・・
弘重の胴には、その度に鈍い音ともに刀傷が幾重にも付けられる。
桂は泣きわめきながら太刀を振り下ろす娘の手を掴むと、今度はいっしょに彼の手を添えて振り下ろした。
すると弘重の首が不自然な方向へと転がった。
「この娘は
「ここに置いていくしかしかたあるまい」
桂は傍らに座り込む娘を見下ろす。
「じゃが、このままではまた誰ぞの
与六には両親や家族、家を一瞬にして失ったこの娘が哀れでしょうがなく思えたのだ。
桂は娘の細い肩にその着物を羽織らせると、暗がりの中、手探りで娘の帯を探した。娘は未だ眼を見開いたまま、微かに震えている。
桂は真っ直ぐに娘を見据えた。
「いずれこの者達も手厚く
それは、今この現状から回避できる唯一の方法でもあり、いずれこれから追われる身になるであろう彼らにできる精一杯の言葉でもあったのだ。
しかし、意外にも娘はそれを承知した。娘は着物の
結局彼らは、桂が与六の朱槍を担ぎ、与六が娘をおぶってそこを後にする事にしたのである。
空には先程よりも、いっそう沢山の星が瞬いているのが見える。遠くの森では、何羽かの
それから半時ほど後、杉吉之助もまた、一人その屋敷をあとに丹後への道を戻って行った。
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