23
「パルムークス公アレッセイ閣下――軍籍を持っているはずです。階級は確か帝国軍中将。直属ではないですが、俺の上司に当たります」
「え、でも叔父様は軍なんて……」
「義父上は元々、文官ではありませんでしたか? だったら弟のアレッセイ閣下が軍部に属すというのは割と考えられるんだ。中央政権と中央軍部で、互いに別の権力を担うことが出来る」
夕食の席で、ティーナはロイズからそんなことを聞いた。今日は奇跡的に定時で仕事が終わったらしいが、その顔には色濃い疲労が浮かんでいた。
「しかし、こういうことがあるとやはり嫌というほど思い知らされる。あなたがロスガロノフの姫君だということを、俺は最近忘れそうになるんです」
ティーナからしてみれば、忘れてもらえる方が有り難い。
コンプレックスというには根が浅いかもしれないが、ロイズは二人の身分差に引け目を感じている節があるのだ。男性で、しかも軍人である彼にそれを気にするなというのは些か酷かもしれないが、自分はロイズの妻であるのだ。それを先に考えてもらえた方が、ずっと気分が楽だ。
根菜のスープを一口含んで、ティーナは首を横に振った。
「ばっちり旦那様のことも売り込んできますから、ご安心なさってください!」
「これ以上何を……いえ、ありがとうございます。でも、いいんですよ。俺は元々権力というのが得意じゃない。昔の功績で今はこうして中央にいるけれど、中央で用無しと言われたらすぐに引っ込むつもりでいます。あなたにはあまりいい話ではないかもしれないが、地方の方が向いているんです」
「わ、私だって田舎育ちですっ!」
張り合って前のめりになったティーナに苦笑して、ロイズはそっとその肩に手を置いた。近くで見ると、やはり切れ長の目の下にはうっすら隈が出来ている。
明日も早いのだろう。ならばゆっくり寝かせてあげよう――ティーナがぼんやりとそう思っていると、ロイズは妻の細い肩に頭を置いた。
「そう、でした。あなたはあまりそういう事に捉われないというのも、忘れそうになる。本当は、ただゆっくりしたいだけなんだよ。俺はきっと、今すごく疲れているんです」
「そうです、旦那様はお疲れです。ですから今日はゆっくりお休みになってください」
ロイズが弱音を吐くことも普段では考えられないが、最近緩みがちになっていた敬語が復活している。
彼がティーナに対して使う敬語を少しずつ取り払おうと努力しているのは、彼女も知っていた。不器用故に距離感がつかめず、それからずるずると互いに敬語で話す習慣がついてしまったのだ。普段は意図しているのだろうか、素だと敬語の割合が少しだけ多くなっている。
「申し訳、ない……本当はあなたと、もっと話がしたかったんです」
「はい、わかっております。でも旦那様はお疲れですから、このまま眠ってしまいましょうね。ゆっくり休んで、それで明日の朝にまたお話ししましょう」
「……ティーナ」
何かを言おうとして、それでも限界だったのだろう。ティーナを抱きしめるような体制のままで、ロイズの体はゆっくりと傾いた。
「きゃ、」
しかし意識のない人間はかなり重いものである。重力とロイズの重さに耐えかねて倒れそうになったティーナの体をトーマが、深い眠りについてしまったロイズの体をユリウスがそれぞれ支えていた。
「あ、ありがとうトーマ。助かったわ」
「いえ、お嬢様」
頭を下げたトーマの向こうで、ユリウスがロイズを抱えようとして失敗していた。筋骨隆々の大男というわけではないが、彼だって軍人である。筋肉の鎧はそれなりに重たいのだろう。
座り込んで肩を組んだ体制のまま立てないユリウスが近くから数人の使用人を呼んで、ようやく彼の体は持ち上がった。ぐったりとその方に寄りかかったまま、それでもロイズはピクリとも動かなかった。あそこまで来ると、最早生きているのかすらも怪しい。
「驚きましたね。軍人である旦那様があそこまでされて起きないとは……流石ですお嬢様」
「いいえ、私は特に何もしてないわ。最近あまり休まれていないようだし、よっぽどお疲れだったのね」
中央軍部よりも地方が好きだというのは、彼の本音だろう。ティーナにそのあたりの事情を詳しく知るすべはないが、中央の方が彼にとって煩わしいしがらみが多いというのは、何となく理解が出来た。
ロイズが残した食べさしの料理を下げる時、ニンフェも少しだけ心配そうな顔をしていた。彼女も長くワイズマン邸で働いているというが、ここまで弱り切った主の姿を見るのは初めてだという。
「旦那様、お疲れでした……私、あんな旦那様見たことありません」
「私もあんまり見たことがないけれど、それくらい激務ってことよね――申し訳ないけれど、朝ごはんは何か消化のいいものにして差し上げて。果物もいくつか」
「わかりましたっ! あと奥様、その『申し訳ない』っていうの、ダメですよっ! またお姉様に叱られてしまいます!」
ちょこんと唇を尖らせて腰に手を当てたニンフェの様子は、確かに最近リリアに似てきたかもしれない。まだ子供っぽさが残るものの、彼女も最近は色々働いてくれている。
忙しい中申し訳ないという意味だったのだが、と苦笑して、ティーナは応と頷いた。
やがて食事を終えたティーナの料理も下げられると、カインからの宿題にとりかかろうとした彼女にリリアから声がかかった。
「お嬢様。今日はもうお休みください」
「けれど、まだこれが終わっていないし……最近忙しくて、なかなか手が付けられなかったの」
「カイン様もお忙しいのですから、今度お嬢様がお手透きの時でいいではありませんか。今日は旦那様と一緒に、ゆっくりお休みになってくださいまし」
そう言われ、それもそうかと納得する。
ロイズが忙しいということは、副官のカインも忙しいということだ。加えてカインは、どちらかと言えば文官のような線の細さである。或いは激務によってロイズより体に負担がかかっていることだって、十分に考えられた。社交シーズンが一段落するまでは、宿題の提出は控えた方がいいかもしれない。
「そう、じゃあ今日はもう休もうかしら。そうだリリア、出来れば近く叔父様のところを訪ねたいんだけれど」
「でしたらお手紙でお伺いを立てて、後日ユリウス様に馬車を出していただきましょう。あ、お手紙はお嬢様が書かなきゃだめですよ? 今は何処も警備が厳しくて、使用人が出した手紙だと突っぱねられてしまうかもしれません」
確かに、アレッセイもアイザックと同じく所領住まいだ。社交シーズンや貴族院の集まりがある時は王都に出てきているから父と違って完全な領地引きこもりではないにしろ、やはり十七公家の一席を担う家であればそれなりに警備も厳しいだろう。
なるほどと納得したティーナは、明日にでも手紙を書くことを決意した。
「それでは、お休みなさいませお嬢様」
扉の前で腰を折ったリリアに挨拶をして、ティーナは寝室の扉を開けた。突っ伏すようにして眠っているロイズの顔はティーナには窺い知ることはできなかったが、あの寝方では苦しくないのだろうか。僅かに灯るランプの明かりでロイズを起こしてしまわないように、遠い位置からそれを確認する。
――それでも、ゆっくり眠れてはいるようだ。
規則的に背中が上下するのを確認して、ティーナはそっとランプを消した。暗い部屋の中、幸せな静寂が部屋の中に漂っている。
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