第四話

 二〇三八年十二月十八日、協定世界時(UTC)の午後十一時――日本時間に置き直すと、同日の午前八時。


 東雲がシェルの中で『鷹』の格納完了連絡を待っていると、ベルイマンから個別通信が入った。

(お疲れ様。それから、ラインバッハを止めてくれて有り難う。助かったよ)

「いや、礼を言われても困る。部下がまた全滅した」

(あれは、お前の部下よりラインバッハのほうが上手だったからであって、お前のせいじゃない)

 ベルイマンはそう言うが、今回東雲の下についた部下達からは何の連絡もない。

 勝利者ボーナスで機体は修復可能だし、手元に残る分も相当あるだろうが、持分が減ったことに腹を立てているに違いない――そう東雲は考える。

(それから、戦闘ログを見させてもらった)

 ベルイマンは改まった声で話を続けた。

(相変わらずハイリスクな戦い方だ。聴覚センサの感度を上げたところが二箇所もあるが、これじゃあ大きな音がしたら耳だけでなく脳も無事ではすまないぞ。どうしてここまでやったんだ。やる必要が本当にあったのか?)

「あった」

(いや、そんなことはないはずだ)

 ベルイマンは強い口調で断言する。

(お前は自分の身体、いや、自分の命が大切じゃないのか。こんな、誰も死ぬはずのないお手軽な戦争ごっこで、どうしてお前は自分の命を運命の天秤に載せようとするんだ?)

 ベルイマンの言葉に東雲は唇をゆがめる。

「ああ、確かにな。ただの戦争ごっこだから、誰も本気で仕掛けてこない。敵も味方も安全マージンをしこたま手元に抱えて攻めてくる。だからこそ俺のやり方が有効なんじゃないか」

(理屈はその通りだ。しかし、繰り返すがその必要がどこにある? これじゃあ、一歩間違えばお前は殻の中で御陀仏おだぶつだ。そんな話、今まで聞いたこともない)

 ベルイマンの溜息が聞こえた。

(それに、そのやり方では部下がついて来られない。副隊長どまりが不満だったんじゃないのか?)

「今日の戦闘でよく分かった。俺は部下なんかいらない。ずっと一人で充分だ」

(いつまでも一匹狼でいるわけにはいかない。どこかで必ず助けが必要になる。何故それが分からないんだ?)

 珍しく絡んでくるベルイマンに、東雲はふと残酷な気分になった。

「分からないよ――なにしろ俺は日本人だからな。最後には誰も助けになんか来ないんだよ。そうだろう?」

 ベルイマンが息を呑む音が聞こえた。


 *


 シェルから出て、シャワーを浴び、建物から外に出る。太陽は都会の空で大分傾き始めており、町の中を吹き抜ける風は冷たかった。

 目の前の大通りを、自動走行の電気自動車が行き交ってゆく。いつもと変わらない町の風景――東雲は下を向き、街角をいつもの道順で歩き始めた。

 そうすると、先ほどのベルイマンとのやり取りが自然に頭に浮かんでくる。確かにベルイマンの意見は正しかった。


 東雲はその日の朝から、一歩もあの建物から外には出ていない。


 シェルの中で五時間過ごしただけである。

 一方、東雲の愛機である『鷹』は、太平洋上に浮かんだ民間が所有する空母から発進して、今はもう住む者が一人もいない日本の大阪で戦闘を行い、そして太平洋上の空母に戻っていた。

 仮想現実技術の延長線上にある遠隔機器操作技術リモート・マン・マシン・オペレーションの発達により、いまや世界のどこにいても兵器を操ることが可能になっている。

 それによって生み出された戦闘バトル行動は、「RMMOB」と呼ばれていた。

 もちろん遠隔操作による時間差タイムラグはあるのだが、操縦者という足枷あしかせの無い兵器は安全確保のためのリミッターを殆ど必要としないから、運動性能を極限まで高めることが出来る。

 感覚器を保護するためのリミッターはあるものの、その制限以下でも充分に速い。衛星通信技術の進歩もあり、現時点で実際に乗るよりも遠隔操作のほうが遥かに機体の反応速度が速かった。

 それに「誰も死なない人道的な戦場」が実現するのだから、反対するほうがどうかしている。

 従来の「非人道的な乗用兵器」はすっかり骨董品アンティークとなり、「人道的な遠隔操縦兵器」に置き換わった。

 ただ、遠隔操縦兵器の弱点は通信が切れたらどうにもならないところである。初期の頃はそれを狙った通信霍乱戦術が横行し、時代が逆行しそうになった。

 そこで搭載されるようになったのが「暴走パーサーカーモード」で、これだと通信を遮断した途端に兵器は無差別攻撃を開始するから、自陣に攻め込まれた敵にとっては厄介なことこの上ない。

 同時に通信妨害戦術を禁止し、違反したらその場で敗者と認定する国際ルールの制定もあって、今回の東雲のように戦術の一つとして「暴走パーサーカーモード」を利用することはあっても、大規模な遮断行為は見られなくなっていた。

 また、遠隔操縦兵器が普及してくると自前で軍隊を組織する意味が失われてくる。命を懸けない軍隊は、モチベーションの維持が困難になり、存在意義が希薄となるからだ。

 むしろ金で割り切るプロフェッショナルな傭兵会社のほうが、戦場でのモチベーションは高いから、次第にそちらが幅を利かせるようになり、徐々に置き換えが進んでいった。

 これは大国のほうが顕著で、いまや自前の軍を抱えているのは貧困で傭兵を雇う金が無い貧乏な国でしかない。

 そういう国はいまだに有人兵器を所有しているが、最初から遠隔兵器の運動性能の敵ではないので、よほどのことがないと戦闘を仕掛けてこない。

 従って、実質的な対人戦闘は皆無である。

 禁止されているわけではなかったが、東雲がこの仕事を始めてからは一度も有人兵器との戦闘の機会はなかった。

 無論、傭兵である以上は有人兵器と戦闘する覚悟もしてはいるが、誰も殺すことなく無効化できるのだから結果は同じである。


 しかし、それなのに東雲は自分の身体をぎりぎりの瀬戸際に置いて戦闘を行っている。


 確かにベルイマンの言う通り正気の沙汰ではない。人道的な戦闘における自殺行為と言われても返す言葉はない。それでも東雲はそのやり方しか出来なかった。

 別に何かこだわりがある訳ではないのだが、そんなぎりぎりの世界でしか戦えなくなっていた。そして、その原因が過去の体験によるものであり、それ自体に意味が無いことを東雲自身も強く自覚している。

 彼は死者のない戦場で死をもてあそぶ厄介者でしかなかった。

 冷たい風が首筋を撫でる。その冷たさが彼をかたくなにする。誰からも理解されないことが、理解されないためのシェルを厚くする。彼は殻から出て、殻の中にもる。頭は一層下を向いた。


 と、そこで遥か前方のほうから昔懐かしい音が聞こえてきた。


 東雲は頭を上げて音がする方向を見る。

 すると、前方からガソリン・エンジンの音を鳴らして、手動航行車マニュアル・クルーザーが走ってきた。

 東雲は目を細める。その車は確か三十年以上も前に発売された日本車で、昔、自宅にあったのと同じタイプである。

 よろよろと自動走行車を交わしながら進むそれは、いかにも公道の厄介者でしかなかった。

 ――なるほど、ベルイマンの言う通りだな。

 東雲は苦笑した。自分はあのクラッシック・カーと同じである。他の車とは全く異なる原理で動いており、周囲にとっては時代遅れの厄介者に過ぎない。最新式のやり方のほうが、安全で、効率的で、礼儀正しい。

 ――それは分かっている。

 しかし、東雲はやり方を変えるつもりはなかった。拘りはないが目的を達成するために金が要る。そして、今のやり方はハイ・リスクかも知れないがハイ・リターンが望める最善の手段であり、なによりも自分の生き方に似合っていた。

 東雲は背筋を伸ばし、公道の厄介者を見送る。


 米国西海岸の時刻は、午後四時を回ったところだった。東雲は、米国西海岸の明るすぎる日差しの中を、背筋を伸ばして歩く。

 そうすると、普段は見ないようにしていた不愉快な現実が目に飛び込んできた。

 アメリカでは、どこの街角に行っても日本人が無気力に座っている姿を見ることが出来る。


 *


 あの日以降、独立した巨大な経済圏という具体的な存在感を喪失し、多額の経済的支援という見返りが期待できなくなった日本人を、難民として受け入れてくれる国はなかった。

 より正確に言うと、その経緯はどうであれ、日本人を「難民」と考える国はなかった。

 難民認定というのは、

「本国に帰還した場合、人種、宗教、国籍、特定の社会集団構成員であることや政治的意見を理由として迫害を受ける危険性がある」

 と考えられる者に対して、人道的見地から居住許可を与える制度を指す。

 そして、難民認定の方法には大きく分けて二つの種類があった。


 まず一つ目は、国際法である「難民条約」上の定義に該当する事実をもって、難民と認定する方法である。

 これに照らし合わせると、日本人の場合は日本に帰国するという選択肢が物理的に失われたのであって、帰国後に迫害を受ける危険性があるわけではなかった。そもそも迫害してくれる相手がいない。

 それに、感情的に「日本に帰りたい」と言う者を、理性的に「そんなことをしたら生きていけない」と説得しなければいけない状態である。

 従って、日本人は難民条約上の難民とは言いがたい、とする意見が大勢を占めていた。


 続いて二つ目は、国際連合の難民高等弁務官事務所(UNHCR)が行っている第三国定住プログラムの対象国家としてリストアップされることである。

 そうすれば、難民受け入れを行っている国で受け入れ枠が設定されて、その保護を受けることが出来る。この「UNHCRが認定した難民」は、マンデイト難民と呼ばれていたが、これを日本は受けられなかったのである。

 なぜなら、日本は過去において、このマンデイト難民を積極的に受け入れようとしなかった。それどころか、世界で初めてマンデイト難民に認定された者を本国に強制送還した国、という不名誉な実績を持っているほどである。

 例えば、ある年に日本国内で難民申請を行った者の人数は五千人を越えていたが、そのうち日本政府が難民として認定を行った人数はわずか十一人に過ぎなかった。

 同じ年に世界で難民申請を行った人数は百六十万人以上であり、そのうち二十七パーセントが難民認定されており、他の先進国が万単位で受け入れているにもかかわらず、である。日本の難民認定率は世界平均の百分の一にも満たなかった。

 その事実に対する日本政府の説明は、

「そもそも申請数が少ないのだから当たり前だ」

 というものであったが、実際に難民申請を行う者からすれば、

「申請しても認定されないのだから、出しても無駄なんだよ」

 というのが真実である。


 それに出したところで、その認定に膨大な手間がかかった。


 これについては、日本で難民認定を行っていたのが法務省の入国管理局だったという点が影響している。そして、それがそもそもの間違いの元凶だった。

 入国管理局というのは、基本的に強制退去事由に該当した外国人を本国に強制送還するための機関であるから、基本的なマインドがそうなっている。

 そして、そこの職員が人事異動で難民認定を担当することになるから、基本的な姿勢がまずは偽装難民でないかどうか疑ってかかる、になる。

 もちろん、偽装難民を排除することは重要であるものの、最初から疑念を持って偽装でないことを確認しようとするため、認定に余計な時間がかかることになった。

 難民は現時点で困っているから難民なのであって、その迅速に保護すべき者を相手にしている当局が、保護すべきかどうかを慎重に審査する姿勢を崩さないのだから、話にならなかった。


 また、入国管理局の難民認定基準が厳しすぎるという批判があった。


 難民条約の基本的な定義は、前述の通り、

「人種、宗教、国籍、特定の社会集団構成員であること、政治的意見を理由として迫害を受ける危険性があること、国家の保護を受けられない」

 ことである。

 また、それに関して難民高等弁務官事務所の難民認定ハンドブックには、

「定義に含まれている条件を満たせば、同条約上の難民となる」

「認定されたが故に難民となるわけではなく、難民であるが故に難民と認定される」

 と明記されている。

 つまり、各国の難民認定基準が存在する余地はなく、難民条約上の条件を満たした者はどの国であっても、難民認定されるというのが基本なのだ。

 ところが、日本は難民条約に加盟し、ウィーン条約を批准しているにもかかわらず、その難民認定基準が国際標準よりも明らかに難易度が高い。他の国であれば難民認定されるはずのものが、日本においては認定されないことがたびたびあった。


 当時の日本の難民認定基準は「個別的把握論」と呼ばれていた。


 これは平たく言うと、

「難民は本国政府によって監視されているか、またはそれに近い関心を持たれていなければならない」

 というものである。

 具体的な例を挙げると、政治的迫害から日本に避難してきた者に対して、入国管理局が、

「反政府運動に参加したことは事実であっても、その他大勢に過ぎず、それにより政府より逮捕や抑留、あるいは拘禁等をされた事実がない。従って、帰国しても再度反政府運動に参加しない限り、個人に危険は及ばない」

 という理由で認定を却下したことがある。

 難民認定を要する国の場合、逮捕されることは「死」を意味する。その事実がないことを「危険がない」ことの理由として持ち出すのは、著しく国際感覚に欠けていると言われても仕方がない。

 要するに、死んでからでないと、難民として認められない、と言っているようなものである。

 あるいは、難民高等弁務官事務所が、

「迫害の主体が政府でない場合であっても、政府がその行為を容認している場合や、効果的な保護を行わない場合や行えない場合も、迫害に当る」

 と主張しているにもかかわらず、日本の入国管理局が、

「正式な政府組織が維持されているのだから、無政府状態にあるとはいえない。治安維持機能があるのだから、そこが保護すればよい」

 として、難民申請を却下した例もある。


 また、日本の入国管理局は難民認定において、難民である事実を自ら客観的な証拠により立証する責任が申請者側にある、としていた。


 難民は、迫害の危険性から身一つで避難することを余儀なくされた者であり、その際に客観的な証拠を持ち出す余裕があるはずがない。

 それに、政府から命を狙われていることを客観的に証明できるわけがなく、多くの者は「その可能性」によって避難する。

 自分が語る言葉でしか、事実を表現するすべを持たない難民に対して、日本政府はわざわざその立証責任を難民本人にあるとしたのである。

 さらに、難民には母国で充分な教育を受けていない者が多い。日本語は当然のことながら、母国語ですら状況を正しく説明できない者も珍しくはない。

 詳しい状況を聞けば明らかに強制労働に他ならないのに、本人がそれを強制労働と認識出来ていない場合や、本国政府から噓の説明を聞かされていて、それをそのまま語ってしまうケースもある。

 虐待によるPTSDで説明自体が困難な場合、本人に説明させるべきではない場合もある。

 従って、まずは当該国の内情をつぶさに調査し、その上で個々のケースを詳しくヒアリングして、両者を照らし合わせて総合的に判断してこそ、客観的な事実による認定になるはずだが、入国管理局はそれを行わなかった。

 難民本人が客観的な証拠を提出できないことや、個人の供述に信憑性がないことを理由として、認定を却下し続けたのである。

 その結果が、国際標準から見て明らかに低すぎる難民認定率となり、「難民を本国に送還してはならない」というノンルフールマン原則の破棄となり――日本人を「マンデイト難民」として認定することへの反対意見に結びつく。

 いまや日本人の大半は、強制送還する先のない不法滞在者と化していた。


 また、あの日時点の日本の人口は、約一億一千万人強だったと言われている。

 その大量の日本人が、未曾有の緊急事態における人道的な措置として、韓国や中国、台湾を中心とした日本周辺のアジア諸国と、安全保障条約締結国であるアメリカに、あくまでも臨時措置の扱いで保護された。

 事件そのもので命を失った直接被害者と、その後に生じた大規模な二次災害や救助活動の遅れによる間接被害者を合わせると、概算で三千万人強の日本人の命が失われたと言われているから、残りの八千万人近くが各国に散らばったことになる。

 そして、事件発生時点で事態の全貌を把握出来ていた者は、犯行を計画・実行した者以外には誰もいなかったし、それがどのような結果に結び付くのか理解していた者もいなかった。

 従って、各国とも受け入れ人数に制限を設けることなく、手当たり次第に保護するしかなかった。

 しかし、日本が受けた被害の状況が次第に明らかになり、最終的に、

「日本人が日本へ帰国することが、少なくとも人道的な見地からすると絶望的である」

 と判明する。

 そこでやっと臨時受け入れ先の国々は、自分達がどのような負担を押し付けられることになったのかを理解した。そこから様々な面で、微妙な温度差が確実に広がってゆく。その経過は次の通りだ。


 まず、事件の真犯人は現在まで依然として不明なままである。


 事件の規模から考えると、国家レベルの組織が関与していることは間違いないはずなのに、その証拠がどこにも見当たらない。大胆かつ大規模な犯罪であることが、逆に犯人の具体像をぼやかしている。

 加えて、日本という国家そのものを対象としてテロ行為を仕掛ける理由が見当たらないことも、犯人像を曖昧なものにしていた。

 下請けと思われるクアラルンプールの運営会社は、そもそも事件前からその実態が不明であった。

 その上、事件が発覚したと気がついた途端にすべてのサーバからデータを消去し、完全に姿をくらませていた。事件後にマレーシア警察が一斉摘発に乗り出したときには、もぬけの殻である。

 サーバも、日系企業が他の会社名義で販売したものがいつのまにか数回の転売を経て設置されており、途中経過を追いかけてもダミー会社やペーパー会社ばかりで、正体は掴めなかった。

 そのため、ネットでは犯人として「僅かでも日本と意見を異にする国家、中東のテロ組織、昔の過激派集団」が乱立しており、挙句の果てには秘密結社による陰謀説まで現れる始末である。

 日本人による自国民へのテロ行為という説までが、まことしやかに喧伝されることもある。有象無象の犯人説が乱立し、収集がつかなかった。現在でも、真相に至るまでの道筋は混迷の度合いを深めている。

 このように責任を取るべき「誰か」が不在のままでは、各国とも自分達の裁量の範疇で対応せざるをえない。

 自らの責によらない事象に継続的な熱意を保てる国家や、莫大な労力をかけられる団体は存在しないから、次第に日本人への支援活動は下火になっていった。


 それと同時並行で「日本人が日本へ帰国することは絶望的」と判明する。


 自国の領土を失い、だからといって難民の定義にも合致しない日本人は、その帰属が曖昧になってしまった。

 暫定的な日本国政府は、アメリカの旧日本大使館内に設置されていたものの、国土を持たない国家の主権が保証されるはずもなく、単なる名目上の存在でしかない。

 日本人は、自分達がどこから来たのかは明らかであるのに、自分達はどこに行くのかが明確ではない漂泊の民として、各国の臨時保護施設に逼塞ひっそくする生活を送ることとなった。

 そうなると、当初は同情する世論が強かったアジア各国も、避難生活が長期化するにつれて負担感が大きくなってゆく。

 そこで、各国は技能や知識を有する日本人に対して、各国の入国管理法に従った正式な入国申請手続きを行うよう促した。有望な人材は速やかに居住許可や就業許可を取得して、その国の経済的発展に貢献する立場を得る。

 例えば、日本の生産技術が移植されることで、受け入れ先国の産業は飛躍的に効率化が進み、それによって国際競争力が増し、雇用が生み出されることもあった。

 では、それによって特に技術を持たない日本人が恩恵をこうむることが出来たかというと、決してそうではない。

 就労許可の基準は日本人への特別な配慮を含まないので、何か技術がなければ認定には通らないし、自国民の雇用を優先するのはどこの国でも同じことである。

 日本でも弱者であった者は就労許可という恩恵から外されて、次第に各国の中でも厄介者扱いされるようになっていった。


 特にその矛盾が顕著に現れたのは、高齢者に対してである。


 本来であれば国民年金を受給して安穏とした生活を謳歌できたはずの年代が、社会保障制度の消滅により今更各自で生活を何とかしなければならないことになった。

 だが、言葉も分からない外国人の、しかも高齢者を雇用する余裕はどこの国にもない。

 運の良い者は現地に定着した日本人家族のベビーシッター役という職を得たが、それ以外の者は、ごく僅かな額の義捐金を得て、仮設のはずの住宅に永住しなければならない。そのような日本人が大量に発生し、各国で社会問題化し始めていた。

 最も大勢の日本人を受け入れたアメリカでも、状況は同じであり、労働市場を圧迫する日本人に対して目に見えない差別意識は既に醸成されており、後は口実を与えるだけになっている。

 日本人自身も外界から孤立する方向に進み、自分達だけの世界に引きもってゆく。さらに引き篭もる場所すら失い、だからといって何が出来るわけでもない日本人は路上に溢れ、犯罪の温床となり始めていた。


 *


 東雲は道を歩きながら、町のあちらこちらから彼に向かって投げられる敵意のこもった視線を感じていた。

 そしてそれは、本来のアメリカ国民が発する差別的な視線だけではなく、旧日本人の怨嗟えんさに満ちた視線が入り混じったものだった。

 日本人自身は、中国人や韓国人と同国人を外見から区別することが出来る。そして、路上生活に近いその日暮らしをしている日本人は、普通の生活を送っている日本人に対して、激しい憎悪を抱いている。

「自分達だけ上手くやりやがって」

 という彼らの恨みは相当根強く、日本人による日本人襲撃のニュースは、決して珍しいものではなかった。

 しかも、東雲はRMMOBの攻撃者プレイヤーであったから、日本人からすると「我々が悲惨な生活に陥ることになった根本原因である利術を逆に利用して、桁違いの報酬を得ている非国民」となる。

 正体がばれた途端、路上で日本人による集団暴行にあっても不思議ではなかった。

 だから、所属する会社からも、

「外出の際は必ず護衛を同行させて、防護措置を施した車両を使うように」

 と再三言われていたが、東雲は決してそれに従わなかった。そんなことをしたら、車から降りた瞬間を狙って日本人が殺到するだけのことである。むしろ逆に、街の風景に溶け込むように行動したほうが目立たない。そう、東雲は考えていた。

 だから、怨嗟の視線に取り囲まれたとしても、徒歩での移動を繰り返している。幸い、今までのところは視線以外の脅威を感じることはなかったが、それもいつまで持つか分からなかった。


 なぜなら、RMMOBをエンターテインメントとして大々的に売り出そうという動きがあるからだ。


 そう――「人道的な戦争」は、たやすくエンターテインメントとして利用可能である。

 誰かの命が失われるわけではない、視聴者自身も決して巻き込まれることがない安全な戦争というのは、興味本位で見ていても人々の罪悪感を喚起しない。

 人道的な戦争を見ることは純粋なスポーツ観戦と似たようなものだと考えられ始めており、しかも戦争であるからその勝敗を決する過程は刺激的である。むしろ刺激的であればあるほど、よい。そのほうが一般大衆にとって価値がある。

 そういう意味では、東雲が大阪で見せたような作戦行動は、極めてエンターテインメントに相応しい「見世物」だった。

 実際、大阪戦で空に浮いていた監視用の機体にしても、国際紛争調停委員会の判定機プローブ以外は報道機関と調査会社が派遣した監視機ピーパーである。

 報道機関や調査会社にも硬軟様々あり、自称「調査会社」を名乗る組織の中には、戦闘の勝敗を非合法で賭けの対象としているところも含まれていた。

 戦争を賭けの対象とすることを忌み嫌ったイギリス人ですら、RMMOBは賭けの対象として容認している。それを、さらに進めて合法化しようという動きは、既に最終段階を過ぎていた。後はサービス提供開始を待つだけである。

 それに伴い、これまで賭けの対象が傭兵会社単位であったのを、今年中に個人レベルの戦闘結果まで賭けの対象にしようという動きがあり、それを見越して会社側も、個別の機体にスポンサー名の塗装処理を行うよう勧めているところである。

 となると、勝率だけで見れば桁違いな東雲には各社からのオファーが殺到してもおかしくないのだが、そんな声はどこからもなかった。

 それに、あったとしても会社の広報担当者が「いや、これは機密事項なんですがね」と耳打ちして、立ち消えになっているだろう。それには東雲も薄々気がついていた。 


 誰もが知っているのだ。

 日本人がRMMOBに参加することの意味を。

 それがいかに馬鹿げたことであるかを。


 仮に傭兵個人が賭けの対象となり、さらにそれが主流となれば、流石に東雲の存在を無視することは出来なくなる。それは、東雲の名前と顔が表に出ることを意味しているから、そうなれば決して無事では済むまい。

 東雲に対する個人攻撃は頻発することにある。それは、もちろん日本人からの直接攻撃であり、彼が日本人であることを知った他の傭兵会社の連中、特にラインバッハのような奴からの集中砲火を浴びることも含まれる。

 同じ会社の連中、例えば整備担当者達にしても、東雲に気軽に声をかけてくるのは昔からアメリカで弱い立場に置かれてきた南米出身者が殆どである。

 白人の整備員は裏で何を言っているか分からなかったし、同僚の中にも彼と組みたがらない者が山ほどいる。仕事だから我慢しているだけのことである。

 彼が単独行動を好むのは、他の者が彼についてこられないからという理由の他に、同僚ですら自分を助けてくれるとは限らないという認識があるからである。

 実際、同じ部隊にいる彼をデコイに使おうとした同僚は、これまで掃いて捨てるほどいた。

 そのような人間関係の中で、ベルイマンのような信頼出来る同僚というのは希少価値である。しかし、東雲は彼すら近づけようとはしなかった。

 それは過去の経験から、東雲が二人の特別な存在を除いて、他の誰も信用できなくなっていたからであったし、東雲と親しく付き合ったところでベルイマンには何のメリットもない、と考えたからでもある。

 むしろ、デメリットのほうが多いだろう。ベルイマンの恋人であるロレインの東雲に対する嫌悪感は、東雲にとっては至極もっともなことだった。表向きビジネスライクに応じてくれる相手のほうが助かる。

 さもなければ敵意をあらわにしてくれたほうが分かりやすくて楽なのだ――この路上にいる日本人のように。

 東雲は唇の端を歪めた。


 *


 会社から大通りを真っ直ぐに二十分ほど歩いてゆくと、道路から奥まったところにある白くて横に長い五階建のビルが見えてくる。

 建物の玄関付近は巨大な駐車場になっており、日中は隙間なく自動航行車が並んでいた。

 東雲はそれを見ながら、

 ――目的地まで自動で移動することが出来るのに、どうして車を個人所有するのだろうか?

 と思わずにはいられなかった。

 ――運転する楽しみがあるから、あるいは誰かが運転しなければ思った通りの目的地に着かないから、人は車を所有するのだ。

 と、彼は思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。

「自動航行技術が確立されてしまえば、個人が車を所有する習慣はすたれるよ」

 そんな話を昔どこかで聞いたこともあったが、実際にはそうならなかった。

 自動航行技術の僅かな差異に優越感を感じ、より安全性の高い車に乗ることを名誉と同じレベルのステータスと考えるアメリカ人は少なくない、という話を聞いたこともある。

 ――さすがはモータリゼーション発祥の国だ。

 東雲は苦笑した。

 彼は運転免許証すら所有していない。試みたことはあったが、車のあまりの反応の鈍さに辟易へきえきし、このままでは『たか』の操縦に影響が出ると考えて、やめてしまった。

 自転車のほうがまだましだったが、そちらは何度も盗まれたのでやめた。今はもっぱら徒歩であり、長距離の場合はタクシーを利用している。

 自動操縦なのに、法律の関係でドライバーが乗っているのだが、

「こいつ、本当に運転出来るのか?」 

 という者が大半だった。但し、その点は手動走行の時代とさほど変わっていないともいえる。


 東雲は駐車場の脇にある、自転車が二重に並べられた歩行者用通路を歩いて、建物の正面玄関まで移動した。このようなところに置かれた自転車は、盗んだり盗まれたりして循環しているのだろう。

 正面玄関の大きなガラス窓の向こう側には、会計を待つ人々の背中が見えた。全員が申し合わせたかのように背中を丸めていた。東雲は正面玄関から中に入らずに、その前を通り過ぎる。

 建物の横に沿って設けられた歩道を進み、人の気配のない中庭を横断した後、彼は五階建のビルの裏側にひっそりと開いている非常口のドアに手をかけた。扉を開くときしむような大きな音がする。

 中には受付があり、カウンターの向こう側には目つきの鋭い巨漢の黒人が座っていた。東雲が軽く会釈すると、男も軽く首を横に振る。入館許可の合図。

 東雲は医療機関とは思えないほど照明が落とされた廊下を、五十メートルほど歩いた。エレベーターホールの前に出る。

 目の前には何の変哲もない古ぼけたエレベーターの搭乗口があり、ボタンを押して待っていると、派手な稼動音を響かせながらエレベーターが上ってきた。

 扉が開く。

 東雲は、アメリカにしては落書きのない綺麗なボックスに乗り込む。扉が閉まり、エレベーターは正面玄関からは決して入ることの出来ない地下に向かって降りていった。

 地下二階分を移動したところで、エレベーターが停止する。

 扉が開く。

 途端に、眩いほどのLED照明が目の前にあふれた。

 全ての素材に金がかけられている廊下を十メートル進むと、今度は白いスモークガラスが嵌め込まれた扉があり、その横にあるカウンターには、非常口のカウンターに座っていた男と雰囲気の良く似た黒人が、同じように座っていた。

 ただ、双子ではないらしい。

 東雲が同じように軽く会釈すると、男も同じように軽く首を横に振る。入館許可の合図。

 もしかしたら実は双子かもしれない。

 スモークガラスの扉が開く。

 中から規則正しい落ち着いた足音が流れ出してきた。地上の施設には、人か象か判断に迷う看護婦しかいないが、地下の施設には人か天使か判断に迷う看護婦しかいない。どうして地下なのに天使なのか、東雲は疑問に思う。

 東雲はその中の一人、彼としてはリアルで顔と名前が一致する数少ない相手――アンジェに声をかけた。

「Hiya、アンジェ」

「Hiya、シノン。お姫様は今日もご機嫌よ」

「Thanks、助かる」

 東雲はいつも通りの短い挨拶をしてから、廊下を進んだ。

 廊下には『鷹』ほどではないか、それでも高価な医療用検査機器が二つ、無造作に置かれている。

 それを倒さないように注意しながら間をすり抜けると、ベッドの上で大声を出して喚き散らしている白人男性を横目で見ながら、その先へ進んだ。

 入口にカードリーダーのある病室が現れる。東雲は常時胸のポケットに入れてあるカードをかざした。軽い電子音の後、病室の扉が開いたので、東雲は中に入った。

 扉が閉まる。

 それと同時に、東雲は扉が開いたかのように表情を和らげた。

「今日も無事に戻ったよ、葵」

 それに対して、壁に敷設されたスピーカーから音声が出力された。


(おかえりなさい、龍平ちゃん)


 東雲しののめ龍平りゅうへいは、昔のように「もう『ちゃん』という歳でもないよ」とは言わなかった。

 その声を聞いて嬉しそうに微笑むと、ベッドサイドに置かれたスツールに腰を下ろす。そして、目の前のベッドに横たわっている女性を、穏やかな表情で見つめた。


 ベッドの上に横たわる女性――たちばなあおいは、ごく控えめな表現で「とても健康体とは言い難い」状態だった。


 あの時は長かった頭髪がすべて剃り落とされ、そこに目の細かいネット上の金属が被せられている。

 目はFMD(フェイス・マウント・ディスプレイ)、耳はヘッドフォン、口と鼻は不透明なプラスチックで覆われており、それぞれが大仰な外部装置に接続されていた。

 機械や服の隙間から僅かに覗く肌は驚くほど白く、その下にある血管の色が透けて見えるほどに薄い。

 布団から外に出ている首筋や肩、両腕は現実感を失わせるほどに細く、皮膚の下にあったはずの筋肉が、すべて必要最小限の繊維質まで痩せ衰えてしまったように見える。

 いや――実際、その通りだった。

 五年という歳月が、彼女の身体から運動機能を全て削ぎ落とし、ベッドの上にある薄い布団と同じような、自らは何の運動も起こせない存在に変えてしまった。

 布団の下の肉体には、無作法なまでに生命維持に必要な管が取り付けられており、それが辛うじて身体の機能を支えている。

 背中の側にはひときわ太い配線が這い回っており、それは葵の脊髄に外科的措置によって物理的に接続された信号検出装置と結合していた。

 その変化の一部始終を五年間に亘って見つめ続けてきた龍平は、触れただけで折れてしまいそうなものを大切に扱うように、葵の右手にそっと丁寧に自分の両手を重ねる。

 壁から音声が出力された。

(あのね、龍平ちゃん。今日、葵は龍平ちゃんに大切なお話があるの)

「なんだい、葵」

(今日ね、スコット先生が視覚制御の訓練だからと言って、病院の監視カメラシステムへの接続を許可してくれたの)

「あ、そうだったんだ」

 龍平は随分前にその話を聞いていたが、それが今日のことだとは全然知らなかった。

(それでね。今日はずっと病院の中と外をお散歩していたの。さすがに個々の病室や手術室への出入りは駄目なんだけどね。他のカメラは好きに使うことが出来たの)

 龍平は、葵の楽しそうな音声や「お散歩」という肯定的な言葉を聴きながら、胸が張り裂けそうになる。

 しかし、それを押し殺しながら、にこやかに笑って言った。

「楽しかった?」

(とっても)

 葵の音声がひときわ弾む。

(でね、病院の一番外れのところにある防犯カメラまで行った時に、龍平ちゃんの姿が見えたんだ)


 龍平はどきりとした。


 葵は急に落ち着いた音声を出力する。

(最初のうち、龍平ちゃんは下ばかり向いていて、なんだかとても悲しそうな顔をしていた。私が、その、別にそんな機能がついているわけじゃないんだけどね、胸が痛むような気がするくらいに疲れて見えたの)

「……」

(でもね、途中から龍平ちゃんが顔を上げたので、ちょっと安心した。無理しちゃ駄目だよ、龍平ちゃん。それから、辛い時は必ず私にそう言うんだよ。隠すのは絶対に駄目だからね。そんなことしたら、二度とこの部屋に入れてあげないからね)

 最後のほうは冗談めいた音声になっている。

「うん。分かっているよ。今日はちょっと乗っている時間が長かったから、疲れていただけだよ。だから、大丈夫」

(ならいいんだけど。本当は龍平ちゃんに黙っていようかなって思ったんだ。そうしないと、龍平ちゃんの本当の姿が見られないかもしれないから)


 葵はそこで一呼吸分だけ間を空けて、話を区切った。

 そして、このような生々しさが龍平の心を途方もなく切なくさせる。


(でも、盗み見するのは嫌だったし、龍平ちゃんなら分かってくれると思ったので、正直に話しちゃった。龍平ちゃんはいつも私の前で明るく優しく振舞ってくれるけど、もっと正直になっていいんだよ。私、何だって受け入れるから大丈夫だよ)

「分かったよ、葵にはいつも正直でいると約束する」

 そう言って微笑みながら、龍平は心の中に深くえぐるように言葉を刻み込んだ。

 ――病院から見える範囲では、絶対に元気な顔しかしないこと。

 それに今、本当に自分の心に素直になってしまったら、龍平の涙は二度と止まらなくなる。


 龍平は、葵の枕元に置かれているフォトフレームを見つめた。そこに入っているのは、あの日、葵を背中のほうから撮影した画像のコピーだった。

 二人にとっては、最も残酷な瞬間の寸前を切り取ったものだったが、昔の写真を全て失ってしまった二人にとって、それだけが昔の葵の姿を知ることが出来る最後の、そして唯一のものである。

 その次の瞬間に起きた出来事は、あの事件の残酷さを最も雄弁に物語る衝撃映像として、在日米軍の報道官によって世界中に配信された。

 その衝撃映像が、世界中から、

「あの日本人の少女は無事なのか。無事ならなんとかして助けて欲しい」

 という声を集めたからこそ、彼女の命は救われたといえる。

 そうでなければ、日本人の生死なんか誰も問題にはしなかっただろうし、こんな政府高官専用の特殊病棟を利用することも出来なかっただろう。そして、龍平が『たか』に乗ることもなかった。

 それが嫌だと思ったことはない。彼にはやらなければならない使命があり、それには『鷹』が必要だ。

 龍平は画像を見つめながら、改めて心に誓う。


 ――葵をこんな風に変えた奴らを、僕は絶対に許さない。

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