第80話 水



いつもの土曜日と同じく、10時に準備を始める。ランニング用のスニーカーを履き、Nikeのキャップを被る。たまにサングラスを忘れてしまうが、今日は忘れない。部屋にいても日差しの強さがわかるからだ。楽天で買った2000円のサングラスをかける。そして、iPhoneから繋いだイヤホンからMIKAの軽快なメロディが流れ出す。マンションのエントランスからエイヤと飛び出る。


まだまだ日差しは強い。ゆっくり走っても汗はとめどなく出てくる。20分も走ればもう喉が乾く。30分を超えると、通り過ぎる自動販売機がすでに魅力的な存在に見えてくる。日常では目に止めることなんてないのに。自動販売機にセクシーささえ感じてしまう。コカ・コーラの赤色はただしい。それは喉の渇きに訴える色だ。


もう喉はカラカラで、スピードさえも落ちるほど。


走り出して、40分を超えだすと、「公衆トイレの手洗いの水を飲もうか」といった妄想をし始める。「なぜ小銭を持ってこなかったんだ」と自分の過ちを叱咤する。しかしながら、それでも同じ過ちを毎週繰り返す。「小銭をもってきたら飲み物が買えたのに」と思うのを分かっていても、私は小銭を持たない。


喉の渇きは限界にくる。ふらふらする。しかし、もう戻れない。前に進むしかない。ゴール後のあの水の美味しさを想像し、それを光に足を少しでも踏み出す。音楽の音量をあげて、お気に入りのBGMにして、テンションを上げる。ゴールまであと1キロ。


最後の1キロは、根性で走りきる。もう自動販売機もみない。ただゴールの水を求めて一歩一歩足を進める。


マラソンで一番つらいのは疲労ではない。喉の渇きだ。


なんとかマンションのエントランスをくぐる。BGMを止める気力もない。エレベーターがなかなか来ないとエレベーターのメーカーへの批難さえも脳裏に浮かぶ。「次はエレベーターが2機あるところにしよう」と考える。


エレベーターから出て、部屋の鍵をあける。台所にいく。iPhoneをおいて、帽子とサングラスを置く。冷蔵庫をあけると、キンキンに消えたペットボトルの水が待っている。


焦らない。もう水はそこにある。水は逃げない。この水の快楽をゆっくり味わいたいため、少し動作を緩慢にして、ペットボトルの蓋をあける。


そして、一気に身体に流し込む。衝撃がそこに走る。それはもはや性的な快楽とは全く別の快楽がそこにはある。荒野に嵐がきて大地に雨が染み込むように、身体に水が染み込んでいく。身体の細胞の1つ1つが歓喜しているのがわかる。第九が流れているようにさえ感じる。


この快楽を知ってしまうと、毎回、辛い思いをするとわかっていても小銭を持っていく気にはならない。この水の美味さはあの辛さを味わった後でしか味わえないのだ。


料理の最高のスパイスは空腹であるのと同様に、水の最高の飲み方は渇いた喉に流し込む水である。あまりの美味しさに声もでる。生きていることの喜びを感じる。大地が歌い、空が息吹をふきかける。


この水を飲むために私は今日も走る

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