第42話 座禅とLINE既読と禅問答と

汝、このことはご存知か。


座禅というものがある。座禅には大きく分けて、2種類の流派がある。「臨済宗」と「曹洞宗」だ。聞いたことがない?では黙って聞くが良い。詳しいことは知らなくとも良い。ただ、知っておくべき点はこれである。曹洞宗の座禅は黙って座り続ける座禅。臨済宗は禅問答をしながら座禅をする座禅、ということだ。


前者はわかりやすいわな。ただ座り続ける。それだけだ。座って座って座れば悟りが見えてくる。後者の禅問答は考え方が難しい。非常に難しい。


禅問答とはいかなるものか。たとえば「両手をあわせると音がするが、片手で出す音はどのようなものか」「いま、まさにどうか」といったような公案と呼ばれるお題が出される。そして、それについて考える。答えに近いものがあるものもあれば、ないものもある。それを考え続けることで悟りの境地に達するという思想である。「考えて考えて考える」という過程を得て、やっと目的にたどり着くというものだ。


しかしながら、これは曹洞宗の座禅も広い意味では同じとも言える。言えるのである。どういうことか。座禅では心を無にすることが求められる。しかし、人の心は無にできる時間は限界がある。するとどうなるか。雑念が出てくる。そして、この雑念を追い払う過程自体が悟りに近づく境地となる。一説では、だが。つまり「無心の境地へ」というのは建前であり、そんな無心の境地にずっといられないのである。なるほど。こう考えると、これも「雑念を抱かない」のではなく「出てくる雑念を払って払って」という歩みを得て、やっと目的にたどり着くという考えとなる。「戦ってあちらにたどり着く」という点では、臨済宗も曹洞宗も同じ考え方ともいえる。


ならば、である。


この21世紀に年端もいかない子供たちが、やれ「彼からLINEが返ってこない」「彼女の、また次回ね、ってどう意味?」といった男女の戯れも、もはや禅問答とはいえぬだろうか。答えのない問答との孤独なそもさんせっぱとはいえぬだろうか。「駄目だ、彼のことを考えちゃだめだから勉強しよう」「彼女のことはもう忘れよう」と、忘れようとしても忘れれぬ雑念を振りほどきながら、夢幻泡影の人生を駆けずり回り、そして、彼ら、彼女らは、いつか悟りを得るのだ。「次の恋にいかなくちゃ」と。


そして、またいつしか恋に落ち、禅問答の無間地獄への落ちていくのだ。嗚呼、素晴らしきかな人生。

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