そっちはどう?
僕は足の震えが止まらず、腹の底からこみ上げてくる重圧感に横隔膜を押されて息が出来なくなった。腹部を両手で抱え、目を強く瞑った。
「伸也、どうした、腹でも痛いのか?」 父が呆けた声で僕を覗いたが、その時の僕にはそれを否定する言葉しか発する事が出来なかった。
「い、いや、なんでもないよ。ビール取ってくる」
冷蔵庫の扉を開け、わざと冷気の中に頭を突っ込んで頭の中を整理しようとした。頭の芯が熱くなっているのがわかる、頭を冷やさなければいけない。
その体勢のままどのくらい自分が居たのかわはわからないが相当長い時間だったことは、父がキッチンの扉を開く音によって気づかされた。
目を瞑り 頭を少し左右に振り、冷蔵庫の中段の野菜室にある瓶ビールをおもむろに取り出し父に手渡した。父はそれを受け取りながら何をグズグズしているんだ、とでも言いたげに台所に膝まづく僕を一瞥してリビングに戻っていった。
それを見届けてから冷蔵庫を閉め、わざと大きな音を立てて階段を駆け上り、二階の自室に飛び込んだ。エアコンに支配されていない六畳間はムッとした熱気と開け放たれた窓から滑り込む乾いた空気が目に見えない渦巻きを形成し、漂っていた。
たしか、彼女……奥田美和、住所録、転居先……勉強机の一番下の引き出しの奥の方のプリントの束の中……それと社会科の地図帳、どこだ?
あった、二年前の僕の字はあいかわらず汚かった。あの時担任が黒板に彼女の転居先の住所を書いたのを書き写しただけだ。たぶん、というよりきっと、どうでも良かったのだろう。手紙を書く予定などないし、まして訪ねることもない、惰性的に皆がそれを書き写したから自分もそうしたに過ぎない。
社会科の地図帳を開く……県……北岸市……尾町。さして大きくもない彼女が住むであろう北岸沿いのこの町に今何かが起こっているというのだろうか。
彼女が転居したのは父親の仕事の都合、つまり転勤と記憶している。たしか発電所関係。ああ、クラスで環境問題を話し合ったときにそんなことをいっていたような気がする。
北岸市といえば原発の街として少しは名が知れている。だけど原発が正確にその街のどこにあるのかも知らない。けど、今までさして大きな事故などもなかったのだろうことは判る。僕がなんという原子力発電所なのかを知らないからだ。自慢じゃないが、これでも新聞には毎日目を通している。
そもそもさっきの番号は本当に彼女の携帯番号なのだろうか、すでに解約されて他の人間が使っているとしても不思議ではない、電話越しで女性の声を聞き分けられるほど僕は多くの女性と触れてはいないし、二年も経てば彼女だって大人の声に変わるだろう。僕とてあの時とはすでに全く声が変わってしまっている。
額から流れた汗が地図の上に一滴落ちた。 こわばった左手は携帯電話を握ったままだった。
町の遠くで街宣車が叫んでいる。どこの団体だろうか、のどかなこの町にはふさわしくない声を荒げて戦意高揚を謳う。
《……れわれは、断固敵外国からの不当な侵入に妥協することなく、拳を振り上げて戦うべきである、国民として、そして地域に根ざすものとして、国を愛し郷土を愛し、家族仲間を愛し、それらを守るために平和を蹂躙する者達に立ち向かわねばならない! さあ、たちあがろう!》
なぜああいう輩のトーンはいつも二オクターブ以上もキーが高くて、無理に声を裏返すのだろうか。そんなことを冷静に脳の片隅が考えていた。
僕がまだ小さい頃は右翼だとかいって、軍隊のような格好をした人たちがあらゆるヒトの集まるところに来ては演説を繰り返していた記憶がある。だけど近頃はトンとそんなものも見なくなっていたし、メディアを始め世論は右翼団体を疎んじて無視を決め込み、学校でもとにかく平和だけが尊いと教え込む時代にそぐわないと考えたのか、それとも運動家なんてダサイと言われ、若い次世代が育たなかったのか。
まあ、僕らにとってはちょっと大仰な暴走族と変わらない様なものだったから世の中が静かになるのは歓迎すべきことだった。
だけど、そんな世相を経てきて今日は彼らの決起の日だったのかもしれない。それはある意味で自分たちの存在意義がクローズアップされる最高のチャンスだろう。
「伸也ぁ、母さんたち自治会の集会に行ってくるからね、出て行くときは戸締りお願いね」部屋のドア越しに母が声をかけ、すぐに階段を下りてゆく。
僕は聞こえないだろうとおもいつつもくぐもった生返事で返す。 自治会の集会に両親が参加するなんて珍しい話だ。きっとそれも戦争が始まったせいだろう。
もう一度左手の握り締めた携帯電話を見やる。着信履歴がある。 さっきからコールは一度もなかった、おそらく一瞬発信された電波が届いたのだろう、少なくとも奥田の番号を持つ携帯電話から僕に返信しようとしたことは確かだ。
奥田美和。この電話の持ち主が奥田美和であれそうでないにせよ、本人はまだ電話を持っている、いや、生きている。
ディスプレイを見つめながら震える指先を発信ボタンの上に添える。押せない。 真実を知るのが怖い。彼女は確かにさっきの電話で「助けて」と言っていた。僕に何が出来るというのだ。「そっちはどう?」なんて悠長なこと聞けるのか?
再び下腹部からせり上がる意味不明の重圧が胸を締め付ける。どうすればいい。まるでこの発信ボタンを押すと地獄の底の閻魔大王につながる気すらする。
いや、だけど、奥田が持っていてもそうでなくても、けして「たすけて」という文言が戦争の被災者という当事者にすぐにつながるわけじゃない。何かほかの事情……そう、例えば誰かに追われているとか、誰かに襲われそうになっているとか……つまり、ええと、どちらにしても良くないことには違いないんだけど。
「くそっ」僕は目を強く閉じて念じるように発信ボタンをおした。
数回のコールの後、電波が弾けたような、そんな印象の音と共に受話部に小さな衝撃波が走りやがて沈黙がよぎる、遠くかすかに空気の流れる音が聞こえるような気もする。
僕は自分から声を発すことをためらった。 この電話はもしかしてこの世ではない何処かとつながっているのではないか、そんな恐怖を想像したが次の瞬間現実に引き戻された。
「……もしもし」
僕が言葉をさがすより、女性の声が僕の耳に届くほうが早かった。少し大人びた、疲れたような声、奥田美和の声といえばそう取れなくもなかった。
「あ、あの、お、奥田……さん?」
「……うん」 重苦しい沈黙が胸を締め付ける。やはりそうなのだ、彼女は、電話のむこうの彼女は奥田美和だ。
「ニュース見たよ、その、そっちの、あ、俺のこと覚えてる?」
「うん、木田くん、だよね? まだ電話番号残してたから。こっちはね、ニュースではなんて言われてるのかな。今やっとこっちの軍隊が到着したみたい。私は近くの学校に避難してるの、近所の人たちと一緒なの……それで、突然、むこうの国の軍隊に襲われて、散り散りになって逃げているうちに家族とも離れてしまって、それで……」
「な、なんで、こ、こっちのニュースでは、そんな……そんな報道やってないよ! だから少し思い出して向こうに行った奥田がどうしてるのかなって、思って……それで」
僕は一生懸命自分の電話の動機を弁護しようとしていた。軽率だと思われないために。
予想していた通り最悪の事態、いや、予想なんてしていない、自分の大好きなドラマの主人公が劇的な死を遂げたくらいの受け止め方しか出来ていなかった。
のどかなこの南岸の町に住み、さっきまで対岸の火事のようにテレビを見ながら朝食を食べていた自分と、彼女とのギャップを必死でこの短時間の会話で埋めようとしている。しかし、いきまく僕をよそに彼女は深いため息をついた。
「いいよ、無理しなくても、木田君には実感湧かないと思うよ、私だってまだ信じられないもの。今は頭の中が混乱してうまく話せないけど、私のトコだけじゃない、この町全体が今は戦場になってるんだと思う。木田君のところはまだ平和なのね、みんなは無事なのね、よかった……」
僕はその冷静と悲しみと絶望に満ちた電話の向こうの彼女を記憶の中で懸命に探した。気丈に振舞っているのか、泣く余裕すらないのか、電話の向こうの彼女はとても落ち着いた声だった。しかし、どうしても彼女の顔が浮かばなかった。
かつて僕と同じ町にいて、同じクラスにいて文化委員をしていた彼女、戦渦の中からひそやかに、半ば諦めたかのような、なす術なく絶望を受け入れるしかない一人の少女と重ね合わせることが出来なかった。
「ごめん」 なぜかそう呟くしかなかった。
やがて電波の状態が悪くなり、ザラっとした雑音に乱され、徐々にかき消されるかのように僕達をつないでいた道は姿を消した。彼女の電話の電池が切れたのだろうか、携帯電話の中継アンテナが破壊されたのだろうか、プツリと細い糸が切れるかのように最後はあっけなかった。
接続先を失った電話は僕の耳元で無機質な反復音を繰り返した。
鬱蒼とした空気と緩やかな風が渦巻きを描く六帖間で、僕は不自然な格好のまま膝を付いて動けずにいた。 地獄との通信が途切れ、やがて僕の周囲に平和という、何もない安らぎの空間が舞い戻ってきた。
もう電話は繋がらなかった。何度かけても圏外のアナウンスが流れるだけだった。僕は携帯電話を投げ出してベッドに顔をうずめて身をもたげた。
カーテンが顔のすぐ近くを風にあおられて行ったり来たりしている。枕もとの目覚まし時計をぼんやり見つめていた。
ギャップが大きすぎる。同じ時間を過ごしているはずなのに。こっちも向こうも同じように秒針は動いているはずなのに。そしてかつて彼女もここにいたはずなのに。
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