ユーレイの両足

加科タオ

ユーレイと春

 あれはユーレイなのかもしれない。


 男の存在を認識してから少し経ったある日、急にそう思った。その時私は自分の席で頬杖を付き、教室から窓の外を眺めていた。黒板の前に立つ先生の話は眠気を誘うBGMでしかなく、ありがたいお言葉も私にとっては何の意味も持たないただの音になる。耳から耳へとすり抜けて私の中には何も残さない。


 男は校庭にいた。私がそうやって外に意識を飛ばしている時、よくそこにいた。青い葉が目立ってきた桜の木の下、だいたいそこで何をする訳でもなくただぼんやりとしている。白い半袖のTシャツに、薄い色のジーパン。いつもいつも同じ格好。あんまりこの学校に似合わない姿だから、最初は変質者でも来たのかと驚いた。驚いて、隣の席の子に言ってみたんだ。何か変な人がいるって。でもその子はどこ?って言うばかりで全然その男に気付かなかった。ほら、あの、桜の下。じっと立ってる人。私はそうやって何とか伝えようと食い下がったけれど、彼女には理解できなかったようで、最後には言葉もなく困ったように微笑まれてしまった。そんな顔をされるぐらいなら意味わかんないって馬鹿にされた方が何倍もマシなのに。私はそれから誰にもその男のことを話さなかった。


 放課後、男の前を通ってみたこともある。でも不思議なことに、近づけば近づくほど男の存在を忘れそうになる。確かにそこに居るはずなのに、そこに居る、という雰囲気が全くない。すれ違いざま、彼の方をちらりと見る。男は焦点の合わないぼんやりとした目で少し上を見ていた。どうやら桜の散るのを見ているらしかった。ちらちら、ちらちら、間隔を空けずに散る桜。それは彼の上にも平等に落ちているはずなのに、男の身体にはただの一枚もその花弁は乗ってはいなかった。


「あの」


 ユーレイかも、と思ったその日にすぐ私は声をかけた。男はぼんやりとした目で私を見て、それからすぐにまた視線を上へと戻した。


「あの、聞こえませんか」


 再び声を掛けると、男は今度は目をまん丸にして私を見た。それから周りをぶんぶん見回して、また私を見た。ぼんやりとしていた目に光が差して、その焦点が私に合う。


「君……えっと、僕に話しかけてる?」

「あ、はい。そうです」

「君、僕が見えるの」

「えぇ、はい、一応」

「へえぇ、そう、そっか……」


 男はそう言って、興味深そうに私をしげしげと眺めた。私はそんな風に見つめられたことがなかったので何だか恥ずかしくって、思わず視線を下げた。その過程で、男の足元も見える。いや、正確には見えなかった。あるべき場所が見えただけで。男の足元は下からグラデーションがかかるように薄まって、透けていた。


「……ふーん、やっぱり君みたいな人もいるんだね。視える人ってやつか。今まで信じてなかったけど、この身になってやっと分かるもんだな」


 そう言うと男は少し楽しげに口角を上げた。


「あの、やっぱり、ユーレイってやつですか。あなたは」

「あぁ、うん、どうやらそうみたい。君みたいな人でも最初は分からないもんなんだね」

「いえ、私も見たのはあなたが初めてで……」

「え、そうなんだ?……じゃあそこの道路にいる猫の集団とかも見えない?」

「ね、猫の集団……?」

「……ふーん、なるほど」


 男はそう、ひとり納得したように腕を組んで頷いた。私は猫の集団が気になって気になって仕方ないのだが、それについてはもう話す気はないらしい。また楽しそうに笑って言葉を続ける。


「つまり今のところ、君は僕しか見えない。僕は君にしか見えない。そういうことだな」


 その言葉に何故か私はぞくりとする。嫌悪感からくるものではない。もっと違う、でもなにか胸の奥でドロドロと沸き立つような。


 私がその感覚、そのあとの余韻までもに浸っていると、男は再び口を開く。


「君は仏じゃなく、神を信仰しているのかな」


 唐突な質問に私は思わず「は?」と声を漏らす。男はそれを見て、ハハハと笑った。わざとらしくて乾いたような笑い方だった。


「いや、だってここはカトリック系の学校だろ。生徒はみんなイエスを信仰してるのかと」

「たしかにそうですけど、本当に信じてる人なんて数えるほどしかいませんよ。私なんかは中学からいたわけじゃないし、むしろちょっと疑問なんです。聖書とか読むと神様は結構むちゃくちゃで、何でこんな人に心酔できるのか……」

「へぇ、聖書持ってるの?」

「はい、入学した時に渡されました。キりんの授業でも使うんです」

「キリン?」

「"キリスト教倫理"の略です」


 そう言えば男はまたハハハと笑う。なんだそりゃ、さすが名門女子校は違うな、僕のいたバカ高では考えられない、なんて。その言葉にはこちらを少し小馬鹿にする気持ちも混じっていたと思う。でも、だからこそ何だか心地よかった。ここに来て初めてちゃんと息ができた気がした。


「ねぇ、その聖書、ちょっと僕に貸してくれないかな。授業がある時は返しに行くから」

「ええ、はい……構いませんけど、」


 散る桜のひとつも乗らない身体の男。私がそれを見て言葉に詰まっていると、彼は少しだけ目を細めて薄く笑った。それから私に向かって手を伸ばす。その腕は木漏れ日の下、日光が強く当たる部分だけ透け、見えなくなっていた。まだら模様に、腕が見えるところと見えないところが混在する。その光景は不思議だったけれど、怖いとは思わなかった。ぼんやりそれを眺める私の頭に何かがそっと触れた気がした。風がふっと掠めたようでもあった。


「大丈夫、触ろうと思えば触れるんだ」


 男はそう言って自分のところへ腕を戻す。顔の横に掲げられた手、その指先には花びらが一枚つままれている。さっき私に触れたのは彼だったようだ。


「ただ、すごく疲れるんだけどね。ちょっと集中するから」


 そこまでして聖書が読みたいなんて。変わったユーレイだ。


「ハハハ、何でだろう、死んでから仏とか神とかに興味をもってね。自分がユーレイなんて曖昧なものになったからかな。彼らも存在するのかもと思えてきたのかな……」


 男はそう言って、摘んだ花びらをパッと指先を開いて落とした。まるで私の考えたことが分かっているようだった。ちらちら、ちらちら落ちるその一片ひとひらを眺めていると何だか妙な気持ちになってくる。頭はふわふわ、胸はじりじり焦げて、落ち着かない。それで、私は口を開いた。


「あの、お名前とか聞いてもいいですか」

「……僕の名前?」


 それ以外に何があるっていうのか。頷く私に男は少し目線を斜め上へやり、口を開く。


「トーゴ。トーゴって呼んでくれればいいよ」


 トーゴ。トーゴさん。


 私がそう声に出して反芻すると、トーゴさんは「はい」と頷いて笑った。


「君はなんて名前なの?……あ、あだ名とかでもいいよ。知らないおっさんに、しかもユーレイに本名はちょっと怖いだろうし」


 おっさん、というような年ではないと思うし、トーゴさんみたいなユーレイは全く怖くないんだけどな。


「……スー、とか、呼ばれてました」

「へぇ、いいね」


 何がいいのか分からないが、トーゴさんは満足気にそう言った。それから私のように私の名を反芻する。


 スー。スーちゃん。


 久々に聞いたその響きに何だか胸がぎゅっとしながらも、私も「はい」と頷いてみた。するとトーゴさんはまたハハハと笑う。


「君はなんか、いい子そうだよね」


 薄く笑うトーゴさん。その言葉の意図はよく分からなかった。だから私が何も言わずに、何も言えずにいると、トーゴさんはまたハハハと笑うのだった。


 風が吹き、木が揺れるとその下の差す光も形を変える。お腹の辺りを急に光で刺されたトーゴさんはその部分だけ透明になり、そこから向こう側が見えた。桜がちらちら、ちらちら落ちている。それはまるでトーゴさんの身体の何かが崩壊しているようにも見えた。ちらちら、ちらちら。お腹から崩れるトーゴさん。なんだかとても儚くて、とてもきれいで。私はその光景を、その感動を、きっとずっと忘れられなくなる。そんな気がした。

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