[14]

 本条は伍代が暮らしている鳥ヶ崎官舎を訪ねた。伍代の住まいは4階建てマンションの三階にあった。間取りは6畳一間と4畳半二間。夫婦と小学生になる息子1人の家庭には十分な広さだった。引っ越しの手伝いも終わり、伍代と一緒にリビングで夕食を共にしていた。伍代が本条のグラスに日本酒を注いだ。

「今日はお手伝い、ご苦労さん。これは新潟の辛口の地酒だ。まあ、呑め」

 伍代の妻が「さあ出来ましたよ」と言って、鮎の塩焼きを運んできた。

「奥さん、ご馳走ばかりで恐縮です」

「あら、いいのよ。ウチの人呑んでばっかで、あんまり食べないから。たくさん食べてくださいね」

 伍代の妻はそう言って、また台所に戻っていった。本条は伍代が厳しい表情を浮かべていることに気づいた。伍代はテレビから流れるニュースをじっと見ている。尖閣諸島沖で中国の海上警備艇が領海を侵犯しようとして、海上保安庁の巡視船と睨み合い、緊張した場面があったという内容だった。

「こういう話が最近、多いですね」

「もし本当に中国が侵攻してきたら、出るのは本条、お前のことだぞ」

「横須賀からですか?距離なら呉の方が近いですが」

「こういう事態の時は、市谷が直接、コントロールしたがるだろう。最新鋭のそうりゅう型が実戦でどこまでの能力を発揮できるかという点を、本部も把握しておきたい。そうなると、市谷に近い横須賀の第2潜水群司令が陣頭指揮を執ることになる」

「横須賀には米軍との連絡もありますしね」

 伍代は首を横に振った。

「おそらく、アメリカは出てこない。中国が本気で尖閣を足掛かりにして、第1列島線、すなわち沖縄まで攻めるかどうかだ。そうなれば、アメリカが動かざるを得ない。基地があるからな。もし中国が尖閣の占領で停まるなら、俺たちと中国の問題だとして、アメリカは静観するだろうな」

 伍代は苦い酒を呷るように、ぐいとグラスを干した。

「湿っぽい話は終わりにしよう。コンサートには行くんだろうな?」

「あれ、今晩でしたかね」

「せっかくチケットを回してやったのに、忘れるとは何事だ。その様子だと、一緒に行く相手も見つけてないようだな」

「今は水雷長の試験と格闘中ですので・・・」

 この前の訓練航海は水雷長就任に備えたものだったが、副長から咄嗟魚雷戦の試験をされた上、思いかけずロシア原潜と遭遇してその追尾に神経を磨り減らした。正直なところ、昨日に封筒で受け取ったコンサートのことはすっかり忘れていた。

「先輩こそ、そろそろ赴任の準備は出来たんですか?」

 伍代は人事異動で、日本大使館付き防衛駐在官としてローマに赴任することが決まっていた。妻子は日本に残して単身赴任する。息子はすでに妻の実家に預けているという。

「バカモノ。そんな準備はとっくのとうに済ませてある。明日の今頃はもう成田だ」

 その時、電話が鳴った。

「何だ、こんな時間に?」

 8時を過ぎた時計を見ながら、伍代は自分で電話を取った。本条はもしかして2人のどちらかが呼び出されるのではないかと緊張した。潜水艦乗りは休日でも、2時間以内に自艦に戻ることが出来るよう行動することが暗黙のうちに義務付けられていた。

「はい、伍代。ああ、真田さんですか。いえいえ、こちらこそ・・・そうですか。何か分りましたら、また・・・ご連絡ありがとうございます。失礼します」

 伍代が受話器を下した。

「真田って、真田健吾ですか?」本条が言った。

 伍代はうなずいた。真田とは本条の同期で、防大の学生寮では伍代とも一緒だった。脳裏にちらりと同期の顔が浮かぶのと同時に、過去の苦い記憶が甦える。

「真田のお母様からだった。出国する前に声だけでもと思ってたんだが、アイツ、徳島の実家にもここしばらく顔を出してないらしい。一体どこへ行ったのやら・・・」

 盛り上がっていた酒席の雰囲気が冷めてしまった。今日はもう帰るべきだ。本条が席を立ち上がろうとして、伍代が念を押してきた。

「明日のコンサートはちゃんと行けよ?相手にくれぐれもよろしくと伝えておいてくれ」

「ええ、分かってますよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る