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「ひりゅう」は第5バースに停泊していた。吉倉桟橋の一角で、「ひりゅう」への魚雷の積み込み作業が始まった。弾薬輸送艇からクレーンで吊り上げられた魚雷が、斜めにセットされた台の上に置かれ、「ひりゅう」の艦内に吸い込まれていった。

 輸送艇にも潜水艦の艦橋にも赤い旗がひらめいて、弾薬取り扱い作業中であることを示していた。金色に光る魚雷の前方部分に黄色い帯が書かれている。弾頭に爆薬が入った実弾を示す帯だ。

 本条は自分の手が震えていることに気づいた。あまりに衝撃的で、潜水艦乗りサブマリナーとして多くのことを考えさせられた。自分が会報に呼ばれたのは、原潜の領海侵犯の様子を見せるためだったのか。なぜ自分に。

 からからに渇いた喉を潤すために、本条は第2潜水戦隊司令部に入る。洗面所へ行き、両手に水を受けて一気に飲み、ほてった頬に冷水を浴びせる。ふいに背中を叩かれた。振り返ると、船務長の森島が角ばった顔に優しい笑みを浮かべて立っていた。本条は慌てて頬を拭う。

「群司令のオペに初参加できたそうだな」森島が言った。

「はい、私のような一介の船務士にどうして、お声がかかったのか・・・」

「そりゃあ、見込まれたからだろう。国籍不明の原潜が領海侵犯している件については、小耳に挟んでいる。本当にそうなのか?」

「すでに尖閣諸島の領海内に潜伏している可能性が高いそうです・・・」

「そうか。お前はけっこう強運な持ち主だな。俺なんかいまだに群司令のオペなど、出たこともない」

 森島と一緒に、本条は「ひりゅう」の艦内に入った。実戦を眼前に控えて、確認しなければならない項目は無数にある。装備の動作確認、安全点検、機器の交換部品や食料の搭載状況、出航に備えた修理作業場の清掃など。本条は発令所に入る。海図を広げていた航海科員が声をかける。

「本条二尉、先程から何度も電話が入っています」

「どこから?」

 本条が問い返した時、電話が鳴った。電話を取った艦内当直が「お電話です」と受話器を差し出した。停泊中は電話回線をつないでいるため、各所から連絡が入る。

「本条二尉です」

「情報保全隊の伊東だ。本条二尉だな?」

「はい」

「伍代が消えた」

「消えた?」

「トランジットで、イスタンブール空港に降りたのは分かってる。その後、姿が見えない。ローマの日本大使館の職員が本省に連絡して、さっきこちらに情報がきた」

 本条は耳を疑った。呆然として言葉を失う。

「防大で、伍代は君の部屋長だったな?何か心当たりはないか?」

「いえ、特に・・・」

「出航準備中に失礼した。伍代について何か思い出したら、すぐに連絡して欲しい」

 受話器を手にしたまま、本条は数秒その場に立ち尽くした。

 ―伍代が消えた?

 理由が思い当たらなかった。最後に話したのは、昨日の昼間、アパートに掛かってきた電話。演奏会に行くよう軽口をたたいた明るい声しか浮かばない。航海科員から声をかけられる。士官室でブリーフィングが開かれます―。

 士官室に集まった幹部は艦長以下、わずかに8名。

 沖田は普段の訓練とさして変わらぬ様子で話し始める。「ひりゅう」の任務は海上警備命令に基づく、尖閣諸島の周辺海域における阻止哨戒。まず本艦が阻止哨戒を実施し、その後は「せいりゅう」と交代する。指定海域で潜水艦救難母艦「ちよだ」と合流して補給を受けた後、再び所定配備に着くこともある。

『敵艦の撃沈も止むなし』という言葉に幹部の誰しもが小さく息を吐いた。しかし、士官室に起こった小波はすぐに止んだ。ブリーフィングの終了と同時に、沖田はただちに「ひりゅう」の出港準備に入るよう命じた。

 夜明け前、沖田艦長は「ひりゅう」の乗組員に対して「直出入港」配置を命じた。主機のディーゼル・エンジンが心地よい振動とともに稼働を始める。信号員の合図により、前部と後部の曳航索が外された。「ひりゅう」は前進微速でゆっくりと進み出した。

 艦橋には艦長、副長、信号員、電話員が並んでいる。

「艦長。『ちよだ』艦長より信号。『航海の無事を祈る』です」

「ちよだ」の旗甲板に双眼鏡を向けた信号員が言った。

「信号員、返信せよ」沖田は言った。「『了解。貴艦の無事も祈る』だ」

「あっ、艦長。潜水艦桟橋の『せいりゅう』からも発光信号です。『せいりゅうよりひりゅう。航海の安全を祈願する』です」

 暗い雲に覆われた空の下、「ひりゅう」は外洋へ沈んでいった。

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