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 出港6日目。

 午前4時40分、「ひりゅう」は津軽海峡を通過した。

 台風は予想通りそれたが、小雨混じりの強風が吹いていた。軍事上の要衝である津軽海峡は領海の幅が通常12海里まで許されるところ3海里と定められ、外国艦船の通過も可能な特定海域とされている。実際に、核兵器を搭載した外国の軍艦が通過することもある。

 潮流は西から東に流れ、ところによって時速7キロになるほど速くなる。また、下北半島の先端にある大間岬の沖で大きく湾曲する。

 この海峡を潜航したまま安全に通航するためには、潮流に押し流されて浅い海底に衝突しないよう、時おり露頂して艦位を確認する必要がある。

 露頂している間は行き交う船や操業中の漁船に見つからないよう、潜望鏡は白波を立てない程度に低くして速力を落とさなければならない。東から西に向かう航路は潮流に逆らうことになる、そのために電池の消耗も甚だしくなり、一層骨の折れる作業になる。

 沖田艦長は海峡の難所においては、必要な指示を出した。まずは津軽海峡の東口、尻屋岬沖の浅所にさしかかる前から大間岬を過ぎるまで操艦を執った。比較的平穏なところに入ると、後は副長の山中に委ねて艦長室に戻った。仮眠を取るためである。

 次の難所に当たる西側の白神岬と竜飛崎の間の狭い海峡を通過する際、沖田は再び発令所で指示を出した。仮眠はわずか1時間取れただけだった。沖田は白み始めた海上の目標を自ら潜望鏡で確認したりした。多くを語らずとも、その存在だけで発令所に詰める哨戒員たちに気合いが入る。

「ひりゅう」が半日以上かけて津軽海峡を西に抜けた時、横殴りの雨は上がっていた。薄墨色の空が茜色に染まり、陽が上がり始めた。その神々しい光は深く潜航した「ひりゅう」には届かない。

 その頃、本条は浅い眠りの中で自分の軌跡を思い出していた。

 本条が横須賀市の防衛大学校に着任したのは、今から9年前の4月だった。防大を卒業後、今度は広島県江田島の海上自衛隊幹部候補生学校に入校した。1年間の教育を受けた後、練習艦隊勤務となって国内巡航、次いで北米、中南米への遠洋航海に参加した。24歳で護衛艦の通信士になり、25歳で呉の潜水艦教育訓練隊幹部潜水艦課程に入校が認められた。

 この「潜訓」で半年間、本条は座学と実習をみっちりと叩き込まれた。課程を修了した後は、横須賀を母港とする「ひりゅう」の実習幹部として配属された。

「ひりゅう」では幹部や多くの海曹たちから船体の構造、トリムの遠隔操作、油圧、電気系統、魚雷と発射管、ソナー、レーダー、通信機器など艦内のあらゆる装置の操作を教えられた。非常時の対応、関連する規則も身につけた。実習幹部の育成に責任のある艦長は本条の顔を見る度に、ありとあらゆる質問を投げてくる。この期間に、本条は徹底的に鍛えられた。

 こうした試練を乗り越え、潜水隊司令による最終審査に合格した実習修了の日のことは生涯、忘れられない。しかし、それはより険しい道程の始まりに過ぎなかった。本条は自分自身を1人前の潜水艦乗りサブマリナーと名乗るには、まだ程遠いという風に感じていた。

 士官室係に起こされる前に、本条は眼を覚ました。音を立てないよう、三段ベッドの段梯子をそっと下りる。さすがに今日は洗面した。壁に取り付けられた半球型の折りたたみ洗面台を引き出し、わずかに水を溜めて顔を洗う。

 潜水艦では、真水は海水を蒸留して作る。その熱源である電池の消耗を少しでも抑えるため、シャワーの回数も3日に1回で我慢しなければならない。そんな生活がもう当たり前のようになっていた。

 本条は食堂に向かった。リノリウム張りの床を音も立てずに歩くにもコツが要る。海の忍者である潜水艦自ら音を発するのは厳禁である。

 平時における潜水艦は警戒監視が最大の任務である。静かに深く潜航して、不審な音を数十キロ以上離れた場所からでも察知し、そこに忍び寄って音源を確認する。それが国家に危害を加える危険性のある艦船などであれば、上級司令部に報告する。

 日本の周辺海域では、諸外国の不審船が出没する頻度が年々高まりつつある。太平洋、オホーツク海、日本海から東シナ海に至る日本周辺の広範囲の海に長期間潜り、警戒している潜水艦は海上自衛隊が擁する全十六隻に過ぎない。

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