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 本条は夕食後に「前直」に就いていた機関士の菅澤剛・二等海尉と哨戒長付の申し継ぎを行い、交代を哨戒長の森島に報告した。

 森島は本条にとって頼りがいのある上司である。関西の私立大学で学んでいたが、根がやんちゃな質だったためにある喧嘩が元で勘当になり、3回生の時に海上自衛隊の隊員募集に応募した。大学を卒業すれば、幹部候補生学校の受験資格を得られるからあと1年辛抱したらどうかという面接官の助言も聞かずに、大学を中退して一兵卒からスタートを切った。後に部内選抜されて幹部候補生学校に入学し、ハンモック・ナンバー1番で卒業した。

「船務士はこの直の間、教育のため哨戒長として勤務しろ」

 森島は本条にそう命じた後、周囲に聞こえるように告げた。

「哨戒長、交代する。前進半速、針路五度、深さ100、哨戒無音潜航中」

「哨戒長、戴きました。前進半速、針路五度、深さ100、哨戒無音潜航中」

 本条は緊張しつつ、哨戒長の職務を引き継いだ。

 やがて発令所の蛍光灯が昼光色から、暗い赤灯に変わった。

 外界が日没を迎えたのだ。人の眼は暗闇に慣れるまでに時間がかかる。全没中だから潜望鏡を使うことはできないが、万一、露頂(潜望鏡などを海面上に上げること)することがあった場合、艦内が明るいと、潜望鏡でいきなり暗い海を見ることが困難になるからだ。

 水深100メートルの海の中は静かで、特に変わった気配はない。

 本条は腕時計に眼を落とした。そろそろ充電と艦内の換気を行う時間ではないか。そのことが気になりだしていた。

「ひりゅう」をはじめ海上自衛隊の潜水艦は、全てディーゼル機関と蓄電池による通常動力型潜水艦である。通常動力型潜水艦が潜航を続けるためには時どき露頂してスノーケル・マスト(吸気筒)を海上に出し、外気を取り込む必要がある。再び潜航できる状態にするため、ディーゼル機関を起動してモーターの動力源となる蓄電池を充電する。それと同時に、艦内に新鮮な空気を取り入れる。

 突如、艦首のソナー室から天井のスピーカーを通して緊迫した報告が挙がってきた。

《発令所、ソナー。魚雷音、80度》

 本条はハッとした。「ひりゅう」の現在位置は三陸沖28キロの地点である。まさか敵の魚雷が襲撃してくるような海域ではない。敵の見当がつかず、本条は一層、慌てた。

《魚雷方位変わらず、こちらに向かってくる》

 ソナー室から切羽つまった報告が続いた。

「デコイ(囮魚雷)発射、急げ」

 哨戒長として、本条はとっさに号令をかけた。潜水艦同士の戦いは相手を先に発見した方が圧倒的に有利である。自分に有利な態勢で、相手より先に魚雷を発射できるからだ。攻撃を受けた側はとりあえず、その魚雷を回避せざるを得ない。回避のためのほぼ唯一有効な手段が、デコイである。

 現代の魚雷は自ら目標を捜索する能力を持っている。デコイはこの能力を逆用して、自身に魚雷を引きつけるために、擬似音を発しながら航行する。攻撃してきた魚雷がデコイの擬似音を追いかけている間に、潜水艦は素早く針路を変えて回避できる。

「取舵(左)一杯」

 本条は操舵員に回避方向を指示した。

《魚雷、80度変わらず、距離近づく》

 切迫したソナー員の声が続いている。

「デコイ、発射。針路005度で航行開始」

 デコイが「ひりゅう」の元の針路に沿って、走り始めたようだ。囮に食いついてくれ。本条は祈った。

「針路300度、左回頭中、何度まで回りますか」

 操舵員が聞き返した。本条は予想外の魚雷攻撃に冷静さを失い、とりあえず魚雷から離れる方向に舵を切っただけで、新たな針路を指示することを忘れていた。

「240度、ようそろ」

 本条は脇の下に冷や汗をじっとりとかきながら、下命する。

「240度、ようそろ」

 操舵員は舵を戻した。艦体が反対に舵を切り始める。

《発令所、魚雷音60度、方位急激に変わり始めた。デコイの追尾を始めた模様》

 ソナー員の報告に、本条はほっと胸を下ろす。

《魚雷音、まもなく艦尾に入り、失探する》

 本条は魚雷の動きが確認できなくなることに動揺したが、魚雷から離れる方向に旋回しているのだから仕方ないと思った。

《発令所、新たな魚雷音、艦尾方向、近い》

 思いがけない2発目だった。いったん弛緩した判断力が瞬時に働かない。

「やられるぞ!」

 森島が叫んだ。

「デコイ発射、急げ」

 本条が気を取り直して命じる。ソナー員にその声を遮られる。

《魚雷、近い!突っ込んでくる!》

 ソナー員の叫びが階下のソナー室から聞こえてくる。パニックに陥った本条は四肢を硬直させた。ソナー・レピーター(モニタ画面)を呆然と見つめることしか出来なかった。

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