第30話 八月の雨
今年の夏は毎日が楽しくて、充実していて、生まれてこんなに楽しい夏は久しぶりだった。それは、純ちゃんが帰って来てくれたから……。
今年の春に東京の学校を卒業した純ちゃんは家業の酒屋を継ぐ為にこの街に帰って来た。嬉しくて駅まで迎えに行ったっけ。ドキドキしながら約束の時間に改札口で待っていると、純ちゃんが降りて来た。
大きな鞄を持って降りて来るのかと思ったら、小さなバッグひとつだけ肩から下げていただけだった。後から聞いたら大きな荷持は送ったのだそうだ。当たり前だよね……。
手にはシャンパンゴールドのiPhoneを持っていて、なんとなく都会的な感じで、私の白のiPhoneより何だか素敵に見えた。
「おかえり! 純ちゃん」
そう声を掛けると、少し嬉しそうな、それでいて精一杯背伸びをした顔をして
「おう、ただいま。また宜しくな」
そう言ってiPhoneを持った左手を上げた。
「うん、こちらこそね」
私は何だかそれが妙に嬉しくて嬉しくて……。
兄貴の車で来ていたので、純ちゃんを乗せて家まで送って行く事にする。
「やっぱり他には誰も駅に来てなんかいなかったな。でも、お前が来てくれたたからいいや!」 」
サイドシートでタバコを咥えながらつぶやく純ちゃんは少し遠い目をしていた。
「俺も向こうで免許取ったのだけど、ペーパーでね。練習しなくちゃな」
そうなのだ、この街では車が無いと何も出来ない。それに酒屋さんは配達もする。
「ゆっくり練習すればいいじゃない!」
「ああ、そうだな」
純ちゃんの吐く紫煙が車の窓から流れて行きやがて消えて行く。それをバックミラーで見ながら繁華街の交差点をゆっくりと右に曲がる。交差点に煙の消えかけが残された。
翌日から私が純ちゃんの運転の練習の講師になった。車は純ちゃんのお店の軽トラ。免許を取ってから数回しか運転したことのない純ちゃんの運転する車のサイドシートに乗るのは正直怖かったけど、自分から「手伝う」と言った手前、そんな顔は出来なかった。
初めは空いた道ばかりを選んで走って行く。純ちゃんは最初こそ恐々という感じだったけど、段々慣れて来て、何とかまともに走れるようになった。
そんな練習を暫くしただろうか、季節は夏になっていた。ある日純ちゃんは
「街の外れにある公園まで俺の運転で練習がてらドライブしないか?」
無論嫌な訳は無かった。純ちゃんは適応能力が高いのか、ここ暫くで、とても上手になっていた。元々免許を持っているのだから当たり前と言えばそうなのだが……。
当日、純ちゃんは赤いお洒落な小型車に乗って私の家にやって来た。
「綺麗な車だね」
「姉貴のなんだ。今日は特別な日だから、貸してくれたんだ」
私は純ちゃんが言うまで正直忘れていた。今日が二人にとって特別な日だと言う事を……」
「なあに?」
すっかり忘れている私に純ちゃんは呆れながら
「五年前の今日、忘れたか? 高校の屋上で……」
そこまで言われて思い出した。高校三年生の今日……。
「俺は、東京に行く事を決意して、お前に『帰って来るまで待っていて欲しい』って頼んだ日だぞ」
そうだっだ! だから私は待っていたのだ。でも、私の記憶では卒業式の後となっている。それを言うと
「まあ、その時も言ったけどな……」
やはり、その時に記憶がすり替わったのだと理解した。
「乗れよ」
サイドシートに体を滑り込ませると純ちゃんは静かに車を走り出させた。
「上手くなったろ! もう少ししたら配達も咥えタバコも出来るようになるさ」
配達は兎も角、正直、タバコは止めて欲しい。私は匂いは気にならないけど、体に悪いから出来れば吸って欲しくなかった。
公園の駐車場に車を停める。何の問題もなく順調にここまでやって来られた。確かに上手くなったと思った。公園の奥の誰も来ない場所に行く事にする。だって二人だけになりたかったから……。
平日の昼間。地方の公園の一番奥になんか誰も来ない……ベンチに座ると純ちゃんは私を抱き寄せた。
曇って来た昼間の空の下で、唇を重ねると純ちゃんは小さな声で
「一緒になろう……いいだろう?」
私は小さく頷いてもう一度唇を重ねた……。
「おべんと作って来たんだ」
私は、二人分のお弁当と透明なプラスチック製のコップを二つ取り出した。お茶を入れようとすると
「乾杯しようぜ! アルコールは飲めないけど、ノンアルコールビール買って来るからそれで乾杯しよう」
それも悪くないと思った。
「でも、持って来ていないよ」
「近くのコンビニで買って来るよ。往復十五分もあれば充分さ」
純ちゃんはそう言って走って行ってしまった。空を見上げると真っ黒な雲が出ていて、私は雨になると直感した。
純ちゃんの姿が消えて数分もしないうちに、やはり雨が降って来た。私はお弁当をしまって。ベンチの傍にある東屋に逃げ込んだ。その時、うっかりしてベンチに純ちゃんの為に用意したプラスチック製のコップを置きっぱなしにしてしまった事に気がついた。
取りに行こうとしたその瞬間、前が見えなくなるほどの雨が降って来た。車軸を流すような雨だった。
ベンチの上に忘れて来たコップにも雨が降り注ぎ、たちまちコップを満たして行く。やがて、雨はコップから溢れだし、ベンチに降った雨と一緒に流れて行く。
最初は、早く帰って来れば良いと思っていたが、この雨の中を純ちゃんは運転して行ってしまったのだろうか? それとも、何処かで停まって雨宿りしているのだろうか?
もし、運転していたら、純ちゃんはこの雨の中をちゃんと走る事が出来るのだろうか? 不安が少しずつ増して行く。ベンチのコップからは滔々と雨水が流れ出して行く。それは私の心と同じだった。
出来れば何処かで休んでいて欲しい。そして運悪く走っていたら、どうか無事でいて欲しい。
想う事はそれだけだった。純ちゃんさえ無事だったら後は何も要らないと想った。ベンチのコップは横倒しになり、いっぱいになっていた水が全て流れ出してしまっていた。私の心も不安で溢れてしまって……公園の脇の道を救急車がサイレンを鳴らして走って行く。まさか純ちゃんじゃ無いよね。
もう、まともに公園の風景も目に入って来なかった。あの救急車に純ちゃんが乗っていたのかも知れないと考えてしまった。
どのくらい経ったろうか、雨が小降りになって来ていた。時計を見るともう三十分以上経っている。何処かで休んでいてくれれば、このくらいの時間は掛かると思うし、何もなかったと想いたかった。
くだらない事を考えてしまう自分に嫌気を持ちながらも心の不安が消えない。目を瞑って純ちゃんの無事だけを祈った。
もう一度時計を見ると四十五分経っていた。幾ら何でも遅すぎる。目の前が真っ暗になる気がした。やはり何かあったのだと覚悟をしようとした時だった……。
真っ暗な私の心と耳に純ちゃんの声が聞こえて来た。
「悪い悪い、すっかり遅くなってしまって……近くのコンビニが売り切れでさあ、遠くまで買いに行っていたんだよ」
「雨は?」
「ああ、車を停めて小降りになるまで待っていたよ。もう自分だけの体じゃ無いんだ。お前の事を考えたさ」
それを聞いて思い切り抱きついた。普段そんな事はしないので純ちゃんが驚いていたっけ。その後乾杯したノンアルコールビールの味は僅かにしょっぱかった。
<了>
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