第15話 いつか少女の前から少年は消える
潮風が前方から心地よく吹いている。
その日。
咲川章子が新世界で二度目の朝を迎えたのは、陸上ではなく海上だった。
現在の章子は、学校の廊下の二倍ほどは幅のある船の甲板上にいた。
大型の白い帆船の上で、章子は顎を乗せた腕から手摺にもたれかかり、舷側から青い海と白い雲の狭間にある水平線を一直線に眺めている。
船旅など一度もしたことが無い章子が飽きもせずつぶさに水平線を眺める傍らには、やはり同じ手摺に背を預け木目の甲板に尻を落としてへたり込んでいる半野木昇の姿があった。
「もう音を上げたの?」
腕に乗せていた顎を今度は頬に変えて、章子は昇を伺い視た。
昇は今も天高く輝く太陽から栄養を補給するかのように、目を瞑ったまま空を仰いでいる。
「咲川さんはすごいよね。
ぼくはあんなの一時間も無理だよ」
項垂れる昇は弱音を吐いた。
この午前中、一杯。
章子と昇は真理やオリルの講師の下、リ・クァミスの必要最低限の知識の習得に割かれていた。
それらは章子が中学校や小学校で学んできた学術の段取りとも、さして違いはなく。
教科別で言えば、英、数、理、社、国の延長線上の事でしかない。
要はそれを教授してくれる側が、科学技術的に進んでいいようと劣っていようと、結局基本的なことを覚えさせられていることに変わりはないのだからだ。
むしろ章子にとっては、すぐに魔法など実利に結びつく点で学校の授業などよりもよほど、向上心満載で聞き耳を立てるほどだった。
それなのにこの少年とくれば、そんな貴重な機会を地球の教育課程と同等に嫌悪感を顕わにして拒絶している。
「勿体ないことをしてると思うよ。
半野木くんは……」
止まない潮風に髪を撒かせながら章子はこの大海原が呑み込んでくれるだろう大きなため息を吐く。
あの船内の講義中、勉学を強要される昇の半泣き状態を見たら、誰もが昇に愛想をつかすことだろう。
室内では、なんの面白みも無いガリ勉風の動きない陰気な髪型となった半野木昇は、椅子に猫背丸出しで座り込み、ノートと教科書に面と向かい苦手な暗記暗唱の連続から呻き声を断続的にあげつづけたのだから。
それこそ次第に自暴自棄になり、目尻に涙を浮かび溜めて泣きグズリ、
果てには、
「ぼくには出来ない。
ぼくには分からない」
とそんな分からず屋な文句や駄々を何度も捏ね、暴れ回す。
そんな癇癪もちの幼児となんら変わらない行動を見た時の章子と真理とオリルの呆れようと言ったら、それはもう言い表わしようがなかったほどだった。
今までの章子やオリルの、気づかなかったことに気付かせてくれた、先見の明に溢れる少年の聡明さはもはや何処にも存在しなかった。
そこには勉学を苦手とし、それから一生をついて逃げようとする卑屈で怠慢な学習能力に劣るただ一時の楽さだけを求める子供でしかいなかった。
その様は今までのプラスの印象を完全にマイナスに変えることを否が応でも強制してくれる。
そんな醜態に呆れるばかりの章子とオリルは愚か、その一部始終を端から見ていたリ・クァミスの乗組員でさえ、それほど無様で醜悪な少年には嫌悪感しか抱けなかった。
そして現在、
朝一からの講釈が始まってから四時限か五時限が経って今、昇はお払い箱にされたのだ。
外の空気に触れる様に言い渡され。
それを昇も喜々解々と受け入れ、ただペンを動かすだけの勉学行動から逃れられた解放感を満喫している。
「あーあ、ずーっとこの状態が続けばいいのになぁ」
そんな怠けることにしか頭のない少年を心配をしていた自分を章子は激しく悔やんでいた。
「そんなわけにもいかないでしょ。
わたしたちだって、
昇が愚痴ると章子もそう言って窘める。
どうも真理とリ・クァミスとの間ではそういう話で纏まっているようだった。
真理は、章子や昇の世話をリ・クァミスにも見てもらう。
その代わりにリ・クァミスが与えた知識から章子や昇がまた別の方向性の新たな見解を見つければ、それが直ぐにリ・クァミスの現実解釈に伝達される。
それはリ・クァミス側の実利と云っていい。
だから当分の間は、リ・クァミスが求める章子と昇の仕事とは地球にいた頃と変わらない。
『学ぶこと』
これに尽きるのだった。
「でもさ」
だが、この少年は悪びれも無く章子に言ってのける。
「なに?」
「強制される勉強って、全然頭に入って来ないことない?」
「それは昇くんの勉強の仕方が悪いんでしょっ」
章子がぴしゃりと言い放つと、昇も口を尖らせてちぇと格好だけの唾を吐く。
「兄キも同じこと言うんだよね。
お前、効率悪すぎだって」
「そうなの?
お兄さんってたしか高校生でしょ?
どこの高校だっけ?」
「檜山。
愛知県立檜山高等学校」
それを聞いて章子は目を丸くした。
檜山と云えば名古屋でも屈指の進学校だ。
その
章子や他のクラスの数少ない委員長級の生徒たちも、その進学先には憧れを持って第一志望として視野に入れている高校である
「何よ。
お兄さん凄く頭いいじゃない。
コツを教えて貰えばいいでしょ」
そう言うと昇は首を振る。
「ダメだよ。
お前、他人に教える気ないだろ?って言われるもん」
「え?」
「兄キや、父さんもそうなんだけどさ。
ウチの家族って、物を教える時は、教えられたら誰かにも教えることってスタンスなんだよね。
それが我が家の家訓なんだ。
だから父さんに色々教えてもらった兄キも最初はぼくにコツとか教えてくれてたんだけどさ……」
半野木昇にはもう一人、下に弟がいる。
その弟に、昇は何が何でも教えようとはしなかったのだと言うのだ。
「それでカッチン来ちゃったらしいんだよね。
もう父さんも公認でさ。
それ以来、何を聞きに行っても自分で考えろの一点張り」
宙で両手を放った昇はどこか投槍気味だ。
「だったらきみも、
弟くんに教えてあげればいいじゃない」
「えー?
やだよ。めんどくさい。
それに分からなくてあたふたしてる様子を見るのが面白いんじゃないか」
カラカラと言い放つ昇に、章子は意表を突かれ開いた口が塞がらなかった。
なぜ、あの時、世界がヒヨコから始まったと言うことができるほど心の優しさを見せた少年が、
裏では、そこまで実の弟を苛め抜くことが出来るのかが理解できない。
本当にこの目の前の少年は、
あの昨日まで確実に実在した、0が自転していることを見抜き
0が自ら動きだす仕組みを看破し、
この世界の原初をヒヨコであると優しく断じた少年と同一人物なのだろうか。
章子にはそれら二つの像をどうしても合致させることができなかった。
「だから兄キは今、
父さんも同じだ。
よく比較されるよ。
要はぼくと違って素直ないい子だってさ」
そしてそこで、章子の不成立だった肖像が遂に一致する。
「だったら要がここに来れば良かったんだって、思っても……。
アイツまだ小学生だからなぁ。
小学生に……。
ちょっとこの旅は酷だよね……」
章子はそのふとした少年の目に心を鷲掴みにされた。
その目だ。
その命を見つめる、先を据えた目が章子やオリルを惹きつけるのだ。
昇は弟に悪さをする遠慮が無い。
だがその弟を思いやる兄の心が同時に介在もしている。
なんでこんな少年なのだろう。
章子は心底そう思った。
勉強は嫌だと泣きじゃくり、物に当たっては他所様の視線も気にせずに自分には出来ないことをこれ以上も無く態度で表現しきってみせた陰気で醜悪な少年と、
今のこの自分よりも優秀だろう弟の身を果てない地から案じている何気ない少年の態度。
さらにその今の少年の髪と表情は、船内で講義を聞いていた時よりも遥かに潮風に当たり、爽快な印象を章子に植え付けている。
床越しからやつれ気味た顔で片膝に腕を乗せて海を見つめる少年と、
先ほどまでの悪態をついていた無心な少年の記憶の像。
その二つが章子の思考の中で何処までも結びつき、そして結びつかない。
それはきっとオリルも真理も同じだろう。
だから三人の少女は一人のこの少年に惹きつけられる。
どこまで醜悪な姿を見せられても、それをまたこの目と態度が帳消しにする。
章子はそんな自分が悔しかった。
しかし、それでも分かることは一つだけある。
「きっと。
みんな心配してるよ……」
「へ?」
「みんな昇くんが突然いなくなって、
心配して寂しがってる。
分かるもん」
なぜなら章子がそうだからだ。
今ここで、この半野木昇にいなくなられたら。
章子にはとても耐えられない。
きっと真理やなんでも使って、半野木昇を探そうとするだろう。
だからまた負け惜しみを言わせてもらうのだ。
こうやって。
「だって半野木くんってさ……」
「うん?」
「蛾だもんね」
「は、
はあ?」
「蛾だよ。
半野木くんは」
「蛾?
蛾って、あの蛾?」
「そうあの蛾」
電灯の回りで舞いまわる蛾を表わすように、章子は人差し指で円を描く。
そしてそれを完全に断言する少女の発言に、少年は相当にショックを受けたようだった。
「蛾?
ぼくが……蛾?」
「何?
何か文句でもあるの?」
今までの行動から見下げ果てた章子の視線に昇も何かを言い返そうとするが、その意思は蝋燭の炎のように直ぐに尻すぼみになる
章子はその様子を見て少しだけ笑った。
章子は最後まで言わなかった。
蛾は蛾でも、昇は単なる蛾のままでいる少年ではない。
ちょっとした切っ掛けで蛾になったり蝶になったりする少年だ。
とても醜い蛾であり、同時にとても綺麗な蝶でもある少年、半野木昇。
だからその
しかし、それはまだ秘密にしておこうと思った。
なぜなら、蝶は自分が蛾ではなく蝶だと気づいた途端に、どこか遠くへ消えてしまうのだから。
だからまだ、章子は困惑している昇を見つめるだけだった……。
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