亜人区デスペラードス

裏楽シムニ

第一章 亜人区の番人

■1■ エージェント

 アメリカ合衆国〈亜人区あじんく〉──かつてはマンハッタン区という名のニューヨーク市の中心街だった場所である。

 西暦二〇三四年八月四日正午、その時マンハッタン区にいた全ての人間が突如、人獣混成じんじゅうこんせい突然変異種ミュータント、通称“亜人デミヒューマン”に変貌するという大事件が起こった。

〈デミヒューマン・ショック〉とも呼ばれる当時の大混乱に際して、各国の行政や軍部では武力鎮圧を推す意見が高まったが、一般民衆の間で「彼ら亜人を保護せよ」との声が上がり始め、それは爆発的に数と勢いを増し、仕舞しまいには大々的なデモやストライキ、暴動が引き起こったのだ。

 この民衆の反応を重く受け止めた当時のアメリカ合衆国大統領は同年、急遽きゅうきょ彼らを保護隔離する旨の文を盛り込んだ〈亜人法〉の制定を発表、公布した。

 これを受け、マンハッタン区がそのまま保護隔離地区に選ばれたのだ。

 そもそも、何故、どのようにして動物と人間の合成生物キメラともいえる亜人達が発生したのか。

 専門家を名乗る者達の中には、戦時中に亡国が行っていた非人道的実験の産物であると推測し、またある者はアメリカが極秘裏に研究していた生物兵器に違いないと高らかに叫んだ。

〈亜人区〉は〈亜人法〉により一般社会からは完全に隔離され、一部例外を除き、人や亜人の出入りは厳しく規制された。

 同時に、〈亜人区〉の治安維持の為に〈亜人管理局〉──通称DAB《ディー・エー・ビー》が発足された。彼らには人類よりも強力な存在である亜人に対抗に対抗できるよう、超法規的ともいえる武装、及び活動の自由が許可されていた。

 彼らDABは〈亜人区〉の番人であり、区内の“荒くれ者たちデスペラードス”からは畏怖いふの対象となっている。


〈デミヒューマン・ショック〉から五十年後の二〇八四年、三月。

 どんよりとした重たい雲が空を覆い、今にも雨粒が降ってきそうな天候の中で、〈亜人区〉ハーレム地区にある廃ビルの一室で二人の男が息を潜めていた。

「……おい、撒いたか? お前の耳が頼りなんだぜ」

 剥き出しの鉄骨や配管だらけの無機質な部屋の中、コンクリートの壁が男の声を反響させる。

 男は、硬い鱗で覆われた──比喩ではなくトカゲのような顔を相棒へと向ける。

「ああ、流石にここまで来れば……いや、待ってくれ。静かに」

 もう一人の男はネズミのような耳をしきりに動かしていたが、それをピタリと止め、人差し指を口の前で立てた。

 トカゲ男とネズミ耳の男は、再び息を潜めた。やがて、


 カツン──、カツン──……


 微かな足音が近づいてくるのをトカゲ男も聞き取った。

 二人は同時に生唾を飲み込み、腰のベルトから静かに自動拳銃を抜く。どちらも〈区外〉から持ち込まれたブローニングベビーの粗悪なコピー銃だ。


 カツン──、カツン──……


 足音は着実に近づいて来る。

 顔を青ざめさせて震えるネズミ耳の男をキッと睨むように見据えながら、トカゲ男が口を開く。

「このビルは来年から解体が始まる予定だ。たとえ人ひとり殺しちまったって、死体が見つかるまでにはかなり時間がかかる筈だ。ここまできたらやるしかねえ! 肚を括るんだよ!」

 覚悟を決めたように銃の撃鉄を起こすトカゲ男に対し、ネズミ耳の男は怯えたように歯をカチカチと鳴らしている。

 足音が、二人が潜む部屋の前で止まる。木製の扉を挟んで、二人の亜人は足音の主と対峙した。

 二つの銃口は扉に向けられ、右手の人差し指はトリガーに掛けられている。

 足音の主が動いた。

 猛烈な勢いでドアが蹴破られ、室内に一つの影が滑り込む。

 赤い女だ。

 カーディナル・レッドの生地で誂えられたスーツに包まれた長躯ちょうくおどり、激しい暴力性を宿した双眸が銀縁眼鏡ぎんぶちめがねの奥で光る。

 その左手には黒の革手袋がはめられ、右手にはコルト・ファイヤーアームズ社製の大型リボルバー“マンバ”が握られている。

「クソッタレ!!」

 二人は叫びながら、半ば狂ったように拳銃の引き金を引いた。

 上半身を伏せて射線を躱した女の黒い左拳が、ひねるように内側へ回転しながら、ネズミ耳の男の腹部に炸裂する。

 相手の足が地面から一五センチも浮き上がり、そのまま二メートル後ろにあったコンクリートの壁でバウンドする。

 男は喉奥から込み上げた液を堪える間もなく撒き散らし、もんどり打って倒れる。

 その光景に驚愕しながらも、トカゲ男が銃口を赤い女へと向け直す。だがよりも早く、彼女の右手が恐るべき速さでマンバのトリガーを引いた。

 ドンッと一度だけ重低音がコンクリート造りの部屋に反響し、彼女の掌の中で1200gのステンレスの塊が躍り上がり、手首をしならせる。

 放たれた.44マグナム弾の弾頭は的確に硬い鱗で覆われたトカゲ男の右腕を捉え、その肘から先を自動拳銃ごと吹き飛した。

 ものの数秒で、武装した二人の亜人は完全に制圧された。

 ネズミ耳の男は腹を抑えながら呻きうずくまり、トカゲ男は口汚い単語を交えた悲鳴を上げながらのたうち回っている。

 それを冷ややかに見下ろしながら、赤い女はスーツの胸ポケットから取り出したジタンにオイルライターで火を点け、深く吸い込み紫煙を吐き出す。

「〈亜人法〉第四条及び八条に関しての重大な違反行為だ。“首輪付き”はまぬがれないぞ馬鹿共」

 そう言いながらネズミ耳の男の側に落ちていた銃を蹴り払うと、屈み込んでその髪を掴み、乱暴に顔を上げさせる。

 吐瀉物としゃぶつと涙でぐしゃぐしゃになった顔に煙草の煙を吹きかけながら、赤い女は淡々と、しかし有無を言わさぬ強い口調で質問する。

「ブツの保管場所は?」

「し、知らない……本当だ! 俺らはただの売人で……」

 ネズミ耳の男は腹部の激しい痛みに呼吸を荒くしながら、許しを請うような必死さでそう答える。

「元締めは誰だ?」

 その問いに、ネズミ耳の表情がより一層青ざめる。

「そ、それだけは勘弁してくれ……お願いだ、それを喋っちまったら……こ、殺されちまう」

 その言葉が終わる前に、額にマンバの銃口が押し当てられた。先程トカゲ男の右腕を吹き飛ばしたばかりのその銃身は、まだじんわりと熱を帯びている。

「あたしは別にどっちでもいいんだぞ? お前が喋りたくないなら、そこで愉快に踊ってる爬虫類に同じ質問をするだけだからな。その場合、経費で落とす弾代が一発分増えることになるが、そんなもン、あたしはどっちでもいいんだ・・・・・・・・・

 ガチリと親指が撃鉄を起こす。

 この脅しが余程効いたのか、

「わわわわかった! しゃ、喋る! 喋るから撃たないでくれ!」

 腹部の痛みなど忘れたかのように舌が回り出した男から粗方あらかたの供述を聞き終えたところで、赤い女は流れるようなブロンドのミディアム・ヘアの前髪を手櫛で整え、支給品の携帯端末を取り出し、今頃は別の売人を追っているであろう相棒へとコールする。

 ややあって、通話が繋がった。


 正午過ぎから降り始めた小雨の中を、サウス・ストリートを猛スピードで南に向かって走る二台の自動車があった。

 前を走るジープの二〇メートル後方を、グリーンのアルファロメオ1600スパイダー・デュエットが追走している。

 今の時代、博物館に展示されていてもおかしくない骨董品のような車種だが、整備が行き届いているようで、その走りは新車のようにパワフルだ。

 スパイダー・デュエットのハンドルを握っているのは長身痩躯の男で、その頭部の造形や肌を覆う毛並みから、彼がネコ科の亜人であることがわかる。

 赤褐色せきかっしょくと白の地毛の中、三角形の大きく黒い耳の先端に特徴的な長い房毛ふさげ。この特徴はカラカルという種類のネコのものである。

 彼は首元で鈍く光る金属質の首輪のあたりをわずらわしそうに左手の人差し指で掻きながら、鋭く目を細めた。

「奴ら、どこまで逃げる気だ? 薬をさばくのはハーレムでやっていたくせに、ここはもう背ビレ共の縄張りだぞ。もしもジャスパーが噛んでいるのだとしたら……厄介だな」

 彼が見た目にそぐわぬ低い声でそうひとち、更にアクセルを踏み込もうとした、その時だ。

 ピピピピピピッと彼が着ている黒いトレンチコートのポケットの中で携帯端末が鳴り出した。

 端末を取り出し、数秒の逡巡しゅんじゅんの後、通話に出る。

「ランディだ。今、少し立て込んでいるのだが、急ぎの用か?」

「こちらマーシー。売人を二匹確保。元締めの名前を吐かせたわ」

 スピーカーからは聞き慣れた女の声が返ってくる。いつも通りの苛立たしげな声色こわいろだ。

「……ジャスパーか?」

「いいえ、ステファンという名前のイタチらしいわ。聞いた感じ、新興のマフィアね。もしかしたらボス猿のところの下位組織かぶそしきかも知れないけど、背ビレ共と繋がりがあるとは思えない」

「同感だ。背ビレ共は亜人の中でも同族意識が強い。イタチなんぞと手を組んでいるとは考え難いな」

「あたしはこれから、聞き出したアジトに向かうわ」

「待て、それ以上の単独行動は危険だ。俺もすぐにそちらへ向かう」

「必要ないわ」

 そこで通話は一方的に切られる。

 いつものことではあるのだが、若き相棒の身勝手な振る舞いに対してランディは思わず溜息を漏らし、ハンドルを切って車のハーレム地区へと進路を変えた。

 バックミラーに目をやると、ジープがアッパー・ニューヨーク湾沿いの倉庫街へと消えるのが見えた。

 マーシーからの情報が正しければ、確かにこの件にジャスパー達が関わっているとは思えなかった。だが、ジープの逃げる先がアッパー・ニューヨーク湾方面だったことが、彼の胸に一抹の不安を残しているのも、また確かだ。

 フロントガラスに溜まってきた雨粒をワイパーを作動させて払い除けながら、右手を腰のホルスターに滑らせる。

 長年愛用してきたコルト・ガバメントのグリップに軽く触れながら、彼はこれから起こるであろう荒事を予感し、気持ちが沈むのを感じずはいられなかった。

 同僚達の中でも短気なことで有名なマーシーとコンビを組まされてからというもの、揉め事が話し合いで解決した試しがない。

 気分を変えるために、銃のグリップからカーラジオへと右手を伸ばす。

 スピーカーから流れてきた、鳥類系の亜人ジャズバンド『イーグル・アイ』の『鐘の鳴る夜に』の落ち着いた音色に浸りながら、車は雨の中をハーレム地区へと向かうのだった。

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