第5話

 と、思ったけど一時間もしない内に目が覚める。いや、起こされたと言った方がいいのか。

 携帯が鳴った。固定データのパターン5が部屋に響き渡る。バイブ機能も付けているので机の上で暴れている。

 と、観察してるのもいいけど、そろそろ出ないと切れるかもしれないので、携帯を手に取る。

「はい、もしもし」

『あっ、やっと出た。もう、メールも返信しないで何をしてたのよ!』

 声の主は清水さんだった。若干、怒り気味である。

『全然、音沙汰なかったから心配して電話しちゃったじゃない』

「ごめんなさい。寝てたから、気付かなかった」

『えっ? 山田君ってこの時間には寝ているの? だったら悪い事しちゃったかな』

 急に声のトーンが下がる。

「そんなこと無いよ。ちょっと風邪気味だったから寝てただけ」

『そうだったの。だったら無理させちゃったかな。いきなり怒鳴ったりしてごめんなさい』

「大丈夫だよ、気分も落ち着いたし。それで何だっけ? えーっと、そうだ。日曜の打ち合わせだっけ?」

『うん、そうそう』

「それで調理実習で何を作るの? その練習がしたいんでしょう」

『えーっと、ホットケーキなんだけど』

「そんな簡単な物でいいの?」

『うわっ。今の言葉は思った以上に私には深く突き刺さるものがある』

「どうしたの? 呻き声なんか上げて」

『何でもないよ。ただ、ホットケーキをバカにするものはホットケーキに泣かされると言う事を山田君に伝えないと思って』

「はあ、そんなに難しいとは思わないけど」

『甘いね。シンプルなものほど奥深く、難しいものは無いと言う事をまだ知らないんだよ、山田君は』

「そんなに知ってるなら僕に教わることはないんじゃないかな」

『いやいや、その極意を山田君に教わろうかと』

「僕は別にホットケーキを極めてないよ」

 まあ、けど教わりたいと言うのだから無下に断る訳にはいかないよな。乗りかかった船だし、この際だから面倒は見よう。

「分かった。品目はホットケーキね。じゃあ、時間は何時頃にする?」

『そうね。出来ればお昼前が良いかな』

「じゃあ、十一時に学校の校門で待ち合わせでいいかな?」

『えっ? 何で学校に集合なの?』

「買い物もしなくちゃいけないから。僕の家に向かう途中に済ませようかと」

『なるほど。分かった』

「ちなみに買い物代は折半っと言う事で」

『意外としっかりしてるのね。なんか、そう言う所が山田君らしくて少しがっかりする』

「えっ? 何か変な事を言った?」

『うんうん。女の子の一意見を述べただけ。とりあえず、その方向で』

「分かった。じゃあ、そろそろ良いかな。電話代が気になってきたんで」

『本当にがっかりだよ、山田君!』

「ど、どうした。急に大きな声を上げて」

『私との会話より、電話代を気にするとかあり得ないと思うんですけど!』

「そうだけど。見たところ、僕の携帯と清水さんの携帯は会社違うでしょう。僕のプランだと他社同士の通話は安くならないんだよ」

『がっかりの極まりだよ。なんか怒るのバカらしくなってきた』

「ごめん、他に用件が無かったら電話を切るよ」

『山田君は私がどんな覚悟で電話をしてるか分からないのかな?』

「やっぱり、九時以降は無料にならないからね。結構覚悟はいるよね」

『もういい。今は話が合わないみたいだから。明日埋め合わせしてもらうから』

「何の埋め合わせ?」

『と・に・か・く! 今日はこれで終わりにします。言いたい事は明日直接言います。じゃあ、おやすみなさい。また明日学校で』

「うん、おやすみなさい」

 そう言って電話を切る。

 まさか翌日、教室で床に正座させられて、クラスメートの視線が飛び交う中、清水さんに説教をされるとは今の僕には思いもしなかっただろう。

「あっ。明日の弁当の準備をしないと」

 すっかり忘れていた。別にしなくてもいいけど、出来る事は今日中にしておくのが僕の主義である。

 自室を出て一階へ降りて、リビングに入る。

「あっ、こーちゃん。お風呂上がったから次どうぞ」

 リビングにはパジャマに着替えた姉さんが缶ビールを片手に、ソファーに寄りかかりながらテレビを見ていた。

「後ではいるよ」

 僕はキッチンに向かい、冷蔵庫と相談する。

 とりあえず、鳥の手羽先が百グラム九十八円がある。これも今日のタームセールで買ったものである。じゃあ、これを煮て置くかな。

 鍋に肉が浸る位の水を張り、肉を入れて火にかける。後は灰汁を取りながら柔らかくなるまで煮ること四十分で出来上がり。味付けは醤油、砂糖、酢、酒。後は臭い消しと風味付けでニンニクと生姜を千切りにして入れておく。これで一晩置いておけば味も馴染むだろう。

 後はこれにほうれん草とさやえんどうをボイルしたのを付ければ良いかな。後は、何か野菜入れておこう。よし、これで明日の弁当の中身は決まったと。

「ねえ、こーちゃん。早くしないとお湯冷めちゃうよ」

 僕が熱心に灰汁を取っていると姉さんが話しかけてくる。

「もう少しだから」

「早くしないとお姉ちゃんの残り香が消えちゃうよ」

「ぶっ!」

 唐突な発言に、なにも口に含んでいないのに噴出してしまう。

「ちょっ、何を変な事を言い出すんだ!」

「へっ? だって私の残り香で処理するんじゃないの?」

「何の処理だよ」

「息子の」

「しないよ! てか、何で実の姉と実の弟がシモの話をしなくちゃいけないんだよ!」

「そうか。今日はしないの」

「今日はとか毎日してるような事を言ってんじゃない!」

「今日は自室で済ませてきたのね。私の全裸を想像しながら」

「してないよ! 姉さんの全裸なんか想像しないっての!」

「別に照れなくても良いのよ。姉弟なんだから」

「姉弟でそんな会話はしないって!」

「なんだったら私が処理してあげたのに。今度からはちゃんと言ってね」

「早く寝ろ、酔っ払い!」

 駄目だ。姉さん完全に酔っ払ってる。

 見れば、テーブルの上には缶ビールの空きが三本ある。姉さん酒は弱いけど顔に出ないから厄介だ。

「うーん。そーする」

 ふらっ、と立ち上がるとキッチンに入ってくる。

「ん?」

 冷蔵庫でも開けるのかと思ったら、僕の方に向かってくる。

「こーちゃん、おやすみのキスー」

「んなっ!」

  首に腕を巻きつけて顔を近づけてくる。

  しまった。灰汁取りに集中していて、この距離まで近づけてしまった。

 今は朝のようにクッションになるようなものがない。て言うか、この距離では間に合わない。

 押し返そうにも酔ってる姉さんは意外と力が強く、両肩を掴んでいてもお構い無しに進んでくる。こんな時に押し返さない非力な自分が情けなく思う。

 顔が息のかかる所まで迫る。酒臭い息である。まさか自分のファーストキスが酒臭い姉とか冗談じゃない。どんだけ、ロマンに欠けてるんだよ。

 僕は顔を背ける。そうだ、こうすれば頬にキスすることになる。まさか、姉さんが弟の唇を奪うなんて暴挙にでるはずが―――

「だーめー」

「むっ!」

 両手で顔を掴み、正面に向ける。

 嘘だろ、おい。本気で奪いに来たよ。僕達、実の姉弟だぜ。何だよ、この状況は。

「大丈夫。私がリードしてあげるから」

「むぅぅぅぅぅっ!?」

 姉さんの顔が間近に来る。肌の温度が感じる位までに。

 蕩ける様な目。酒でほのかに赤くなった頬。潤いのある唇。その全てが僕の心臓を高鳴らせる。

 今までに見たことのない異性の顔。『女』としての面に僕は戸惑いと謎の緊張を覚える。

 堕落の化身。女らしさ皆無と思っていた姉がこんな魅力があったとは。新たな発見。

 じゃなくて! 冷静に実況をしてる場合じゃないだろ、僕! 早く何とかしないと! 何だかんだ言って姉さんの目は真剣になってるんだぞ! こりゃ本気だぜ!

 くそ、このままだと僕の初めてが酒臭い思い出になってしまう。出来ればもっと素敵な感じでしたかったのに。

 てか、姉さんとしたってカウントに入らないだろう。ほら、スキンシップってやつだ。これもその一種なんだよ。アメリカやフランスじゃ挨拶みたいな物だろう。親愛の証だ。だったらカウントに入らないよ。寝る前のキスってやつだろう。アメリカのドラマじゃよく見かけるじゃないか。そうだ、これはキスじゃないんだ。寝る前の挨拶だ。こんなのをキスにカウントするなんて可笑しいな話だ。ノーカンだ、ノーカン。こんなの誰が認めるかっ。

 そうと決めたら、さっさとしてくれ。この顔を掴まれてるの地味に痛いんだから。頬に爪が食い込んで。

 てか、姉さんは何時まで止まってるんだ。焦らしか? 焦らしているのか? この期に及んでまだ僕を弄ぶのか。それとも逆に怖気ついたか? だったら、もうこっちからやってやろうか!

 僕はもう諦めたんだ。今日はこういう日だって。姉に何かと関係を迫られる女難の相がある日だって諦めたんだ。こうなりゃ、とことん難に遭ってやるよ。

 …………。

 あれ? さっきから展開が進まないぞ。如何言う事だ?

 顔を掴まれた時から瞑っていた目を開ける。

「にゃふぅー」

 そこには僕の胸で寝息を立てている姉が居た。

「ふぁうー。こーちゃん、明日も七時に起こしてねぇー。ぐぅー」

 この土壇場で寝やがった。そろそろ怒ってもいいかな。こっちは覚悟を決めたって言うのによ!

「むにゃむにゃ。ぐぅー」

「……はあ。仕方ないな」

 こんなに幸せそうな顔をして眠られたら、起こしようがないじゃないか。

 僕は姉さんを背負い、二階の部屋までに運び、ベットに寝かす。

 結局、僕はまだまだ姉さんに甘いようだ。そんな事を感じさせる一日が、やっと終わる。

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