僕の姉さんがこんなに残念なはずがない。

ぽこぺん

第1話

 僕の朝は早い。

 起床は午前五時半。正確には二十九分。目覚ましのアラームが鳴る前に起きる。

 カーテンを開けると陽の光が入って来る。今日も快晴、絶好の洗濯日和になりそうだ。

 パジャマを脱ぎ、学生服に着替える。この制服も大分着慣れてきた。

 高校生になって一ヶ月。生活も学校も順調に行っている。

「よし」

 鏡で姿を確認する。

 汚れのない黒の制服。白いワイシャツには皺一つ無く、学年を表す赤いネクタイも曲がってない。

 昨日、授業の準備をしていた鞄と脱いだパジャマを持って二階へと降りる。

 まずは脱衣所に向かう。歯ブラシを取り、歯磨き粉を付けて口の中に入れる。右手で歯ブラシを動かしながら、持ってきたパジャマと昨晩の洗濯物をドラム式洗濯機に入れ、洗剤と柔軟剤を入れてスイッチを押す。

 洗濯機が回るのを確認したら、鏡に向かい寝癖を直す。口を濯いで脱衣所を出て行く。

 次に向かうのはキッチン。制服の上から緑のエプロンを着けて、まずは米櫃を開ける。

 計量カップで三合分の米を取り、ボールで洗米する。軽く水を切り、分量の水を炊飯器に入れて炊飯する。

 次に鍋で湯を沸かし、粉末のカツオだしを入れる。豆腐を賽の目に切り、乾燥ワカメも加える。最後に味噌を溶いて完成。仕上げ用に万能ネギを切って置く。

 ここまで三十分。再び脱衣所に向かう。

 止まった洗濯機から洗濯物を取り出し、二階のベランダに向かう。皺にならない様、しっかりと引き伸ばし一枚一枚丁寧にかつ、手早く終わらせて再びキッチンに戻る。

 冷蔵庫を開け、昨晩のうちに醤油と生姜で下味を付けた鶏肉に片栗粉をまぶし、熱したサラダ油で揚げ、網に置いて油と熱を取る。

 卵を三つ割り、上下に切る様にかき混ぜ、そこに塩と砂糖を加えてさらに混ぜる。薄く油を引いたフライパンに流し込み、半熟のところを手早く巻いていく。後は一cm位の大きさにカットして置く。

 キャベツは千切りにして、塩とオリーブオイル、レモン汁と胡椒。隠し味に少量砂糖を加えて揉む様に和える。ついでにプチトマトなんかも半分に切って脇に添える。

 ちょうどご飯が炊けたので、出来たおかずとご飯を弁当箱に詰めて行く。そして蓋を開けてご飯の蒸気を取っておく。

「いけない。もうこんな時間か」

 時計を見ると六時五十分。すぐに朝食の準備に取り掛かる。

 作って置いた味噌汁に火を付ける。

 フライパンにベーコンを四枚乗せて火を付ける。油が溶けてきたら、その上に生卵を二つ落とし、白身が固まってきたら蓋をして一分程蒸らす。

 白身が固まり、黄身が半熟になったら二つに取り分けて皿に移す。

 後は少し残しておいたキャベツのサラダと常備菜のきんぴらごぼうを小鉢に盛って、食卓の上に並べる。味噌汁も沸きあがる前に火を止める。

 時間は七時。僕はエプロンを脱いで、二階へと駆け上がる。

 僕の部屋より一つ奥の部屋。扉には『まゆ』と書かれたウサギのプレートが掛けられている。

「姉さん、起きてる?」

 ノックしながら呼びかける。返事がない。

「真由美姉さん。朝だよ、起きて」

 返事がない。ただの扉のようだ。

「......入るよ」

 ドアノブを回して、部屋の中に入る。

「うわっ」

 薄暗い部屋の中にちょっと引き気味になる風景が広がる。

 まず匂い。部屋は締め切っており、埃が舞いあがる中、様々な香水や芳香剤が混じり合って何か微妙に不快な匂いになっている。

 服や下着は脱ぎっぱなしで床に散らばり、部屋の真ん中に置かれたテーブルにはジュースの空き缶やお菓子の食べ残し、化粧品が散乱している。

 正直、自分が想像している女性の部屋とは思えない光景である。それも慣れたが、何よりも引いたのは一週間前に自分が掃除したばかりになのに、この有様だと言う事である。

「はあ、また掃除しないと」

 溜息をつきながら、窓に隣接しているベットへと向かう。

 その上に。静かに寝息をたてているピンクのパジャマを着た女性。

 布団を丸めて抱き枕のように抱えている気持ち良さそうに寝ているのが、山田真由美。今年二十八才になる僕の姉である。

「姉さん。朝だよ、起きて」

 体を揺さぶる。

「う~~ん。後五分」

 テンプレ通りの回答が返ってくる。

「ほら。準備しないとまた遅刻するよ」

「遅刻? あう、それは駄目。減給になっちゃう」

 そう言うと重そうに体を起こす。

「あー、こーちゃんおはよー」

 寝惚け眼の笑顔で若干遅い朝の挨拶をする姉。

「目覚めのキースー」

 そして抱きついてきて唇を近づけてくる。

「はいはい、分ったから早く起きてね」

「むぎゅ」

 足元に置いてあった枕を近付いてくる顔面に押し付ける。

「もー、こーちゃんのい・け・ずー」

 枕を持ったまま体をくねらせている。

「早く起きてくれるかな。ご飯が冷めるよ」

 僕は脱ぎ散らかった衣類を拾いながら扉に向かう。

「うん。すぐ行くー」

 ベットから降りたのを確認して僕は部屋を出る。

 僕の姉は少しおかしい。やたら抱きついてきたり、べたべたくっついてきたり、キスを迫ったりする。

 端から見れば仲がいい姉弟になるのだろうけど、姉は本気で迫ってくる。こっちとしては対応に困る。何しろ唯一の肉親だから。

 父と母は十年前に他界している。その頃から僕と真由美姉さんは二人で暮らしている。

 姉さんは大学進学を断念して就職。その後十年間は必死に働いてくれて僕を高校まで入学させてくれた。

 僕は姉さんに頭が上がらない。感謝しても仕切れないほどに感謝している。だから、少しでも仕事に専念できるように生活をサポートしている。

 炊事、洗濯、掃除に家計のやりくり。お陰でこの十年で主婦業が板についてきた。

「けど、少し甘やかせ過ぎたかな?」

 どうも最近は度を越してだらしないというか。何か女子力が足らなくなった気がする。昔はこれ程に酷くなかったはずなんだけどな。そんな事を考えながらご飯をよそう。

「お待たせー」

 ドアを開けて姉さんが入ってくる。

 皺のない白いワイシャツに黒のスーツとスカートに身を包み、足にはストッキングを履いている。

「お腹空いたー。ご飯、ご飯♪」

 そんな事を言いながら、にこやかに席に座る。

「はい、どうぞ」

 姉さんの前にご飯と味噌汁を置く。

「では、いただきます」

 両手を合わせて綺麗にお辞儀をした後、味噌汁に口を付ける。

「うーん。やっぱり朝は味噌汁に限るよねー。朝の始まりって感じがするー」

 満面の笑みを浮かべる。そして、箸を手にとっておかずへと伸ばす。

「はあー、今日も朝食が美味しくて幸せだなー」

「それはどうも」

 自分も席に座り、朝食を食べる。

「これで今日も一日働く意欲が湧いてくるよ」

「ゆっくり食べるのは良いけど時間大丈夫なの?」

「あっ、お塩取って」

「聞いてないし」

 自分の近くにあった塩を姉さんに渡す。

「良いの良いの。朝食位はゆっくり食べたいんだから」

 そう言って一口一口美味しそうに食べてくれる。

 本当、幸せそうに食べるな。お陰でこっちも作り甲斐があるよ。

「ごちそうさま」

 食事開始から二十五分後。完食した姉さんは両手を合わせてお辞儀をする。

「おっといけない。もうこんな時間。急がないと」

 駆け足で慌しく脱衣所に向かう。

「だから言ったのに」

 呆れながら食器を洗う。

 僕は蒸気が抜けたお弁当に蓋をして、箸とお絞りを付けてバンダナで包む。

 自分の弁当を鞄に入れて、教科書等の最終チェックを行う。

「ふう、やっと一休みかな」

 時刻は七時四十五分。

 僕はお茶を淹れて、ニュースを見ながらそれを飲む。

 今日も大きな天気の崩れは無さそうだな。

「よしっ、準備OK」

 勢いよくリビングに入ってくる姉さん。

 さっきまで寝癖だらけだった髪型は綺麗にセットされて、栗色の髪は肩にまでに掛かるストレートになっている。

 肌は薄くファンデーションを塗り、アイラインもしっかりと描かれて小さめな目が大きく見える。その上にさらに眼鏡を掛けるのだから普段より一回り大きい。

口紅は控えめピンク色。香水は最近購入した、お気に入りのイヴ・サンローランのベビードール。薔薇の匂いが微かに鼻孔を擽る。

 ものの十分足らずで大変身。あっという間に仕事モードにジョブチェンジである。

 相変わらず早い。世の女性は皆、あんな短時間で変身できるのかと思うと不思議に感じる。

「どう、変な所無い?」

「大丈夫だよ」

「よしっ、じゃあ行ってくるね」

 そう言って玄関に向かってダッシュする。

「あっ、ちょっと待って」

 僕は姉さんの分の弁当を持って玄関へと向かう。

「はい、忘れ物」

「あっ、ごめんごめん」

 お弁当を渡すと、大事そうに鞄の中に入れる。

「じゃあ行ってくるね、こーちゃん。ちゅっ」

 そう言って投げキッスをして、家を出て行く姉さん。

 ヒールで走る危なっかしく見える後姿を見ながら出送る。

「はあー」

 溜息を一つ吐いた後、リビングに戻り、湯飲みを片付け、テレビを消す。

 窓の施錠を確認した後、玄関に向かい、白いスニーカーを履き、家を出る。もちろん玄関には鍵をかけたのを確認して、学校に向かう。

 これが僕の毎朝の風景である。

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