[3]

 ヘレーネは薄暗いキッチンで、分厚い医学書に眼を通していた。日が暮れてからすでに1時間ほど経っていたが、部屋はひどく暑い。額から汗が流れる。ヘレーネはハンカチで顔の汗を拭った。メモを取り、本に眼を戻す。文字が視界でゆらゆらと揺れた。なんとか集中しようとするが、だめだった。

 本を閉じて顔をこすった。ストレスがかなり溜まっているようだ。ジョセフは一週間も気を失ったままだというのに、ヘレーネには治療法どころか、原因も分かっていない。

 あの恐ろしい晩のことは毎晩、悪夢となってヘレーネの眠りをさまたげている。ライフルを手にハイエナを追っていったオラトゥンジは翌朝、ルイスの遺体を抱えて村に戻ってきた。亡骸に首は無かった。ハイエナに喰われたのだろうか。ギデオンはエヴァソに逃げるように行ってしまい、シスター・アンは開校をあきらめ、ジョセフはヘレーネの病院に今も入院している。

 床を何かが擦る音がする。

 ヘレーネは病室に続く入口に眼をやった。影が滑るように横切る。ふっと腐った肉の臭いが鼻を突いた。全身に戦慄が走る。

 ハイエナ?

 必死に勇気を奮い起こして椅子からそっと立ち上がった。机の上から外科用メスを手に取る。大した武器とはいえないが、何もないよりはマシだ。音を立てずにドアに忍び寄り、そっと病室を覗いた。

 暗がりに何かの影が見える。病室に入った。心臓の鼓動が耳元で大きく響いている。次第に暗がりに眼が慣れ、ヘレーネは病室を見回した。ハイエナの姿は見えない。

 ジョセフのベッドが空になっている。胸騒ぎがする。ベッドのシーツと毛布がクシャクシャに丸まっている。点滴の管は床に落ちていた。針の先から薬が漏れている。ベッドの反対側で何かが動いた。思い切ってベッドの向こう側に歩を進めた。

 ジョセフがいた。こちらに背を向け、床に坐っている。膝に毛布がかかり、手が毛布の中でゆっくりと動いている。何かを撫でているような仕草。上体を揺らし、小さな声で何かを歌っている。

「ジョセフ?」

 ヘレーネはそっと呼びかけた。

「何してるの?」

 ジョセフは答えない。ヘレーネは毛布が血で汚れていることに気づいた。床に屈み、毛布を引きはがす。血まみれのルイスの頭が転がった。見開いた眼がヘレーネを見上げている。額にくっきりと歯型の跡が残っている。

「ぼくのだよ」ジョセフは言った。「これはもう、ぼくのだ」

 ヘレーネはベッドから飛び起きた。心臓が早鐘のように鳴っている。また悪い夢を見ていたようだ。眼が覚めても、悪夢は手を伸ばせば触れそうなくらいに生々しい。ため息をついて寝返りを打つ。眼の前にモーガンの顔があった。

 あっと悲鳴を上げる。ヘレーネは慌てて壁際まで身を引いた。モーガンはベッドの脇にひざまずき、じっとヘレーネの顔を覗き込んでいたようだった。

「なんで、捨てた!?」

 モーガンの手に聖ヨセフのメダルがゆらゆらと揺れている。

「ゴミみたいに捨てやがって」

「出てって!」

 ヘレーネは怒鳴った。毛布を首まで引き上げる。

「外に転がってた。なんで、捨てた!?」

「捨ててないわ」

 なんとかモーガンから離れようとするが、背中が壁に当たった。もう逃げ場はない。背筋がぞっと寒くなる。

「嘘だ!」

 ヘレーネは震えた。必死に部屋を見回した。何か身を守る物はないか。ベッドサイドのテーブルに空になった夕食の皿とナイフが置いてある。ヘレーネはナイフを取ろうと身構えた。モーガンはベッドに上がってくる。重みでバネがギシギシと鳴る。

「そんなに俺が嫌いなのか?」

 顔にモーガンの唾がかかった。

「この顔さえ治してくれりゃ、俺だってあのガキに負けない色男なんだぜ」

 その瞬間、悲鳴が空気を切り裂いた。モーガンが後ろを振り向いた。ドアのそばにジョセフが立っていた。汗まみれのパジャマを着て眼を大きく見開き、震える指でモーガンを指した。

「あいつが来る・・・」

 ジョセフは押し殺した声で言った。

「何だと?」

 モーガンは喘ぐように言った。明らかに落ち着きを失くしている。

「あいつが来る。あんたのところに。あんたを掴まえに来る!」

 ジョセフの声は激しい咆哮のように響いた。モーガンはベッドから飛び降り、転げるように部屋を飛び出した。ヘレーネはどんな細かい兆候も逃すまいと、じっとジョセフを観察した。足許は裸足。白目は黄色く濁っている。

「ジョセフ」ヘレーネは両腕を広げた。「眼が覚めたのね!」

「怖い夢を見たんだ」

 ジョセフはヘレーネの胸に抱きついた。涙が頬を伝っている。

「すごく怖かった」

 ヘレーネは泣きじゃくるジョセフをしっかり抱きしめる。その時に初めてジョセフの身体が赤くただれていることに気づいた。

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