第四章 原初の炎
第546話 原初の炎①
「……ふむ」
暗い水面の世界。
水が溢れ出す銀色の杯が中央に鎮座し、その上に浮かぶ淡く輝く球体が周囲を照らす異質の場所にて。
深淵の魔術師・ラクシャは静かに遠見の宝珠を見据えていた。
「一角が消えたか」
その宝珠には倒れた《王馬》が映し出されていた。
「そして」
場面が移る。次なる敵を求める《猿羅》の姿が映された。
「最初の勝者は《猿羅》か」
流石は名立たる固有種同士といったところか。
よはや決着にこれほどの時間がかかるとは思っていなかった。
だが、これでようやく儀式が進捗し始めたようだ。
「……さて」
場面が再び移る。
次に映し出されたのは遺跡を闊歩する《泰君》だ。
どこか不機嫌そうに見えるのは敵に逃げられたためか。
「あの騎士は撤退したか」
ラクシャは双眸を細めた。
「それも当然か。中々に興味深い戦いではあったが、あの騎士に固有種と命を懸けて戦うような理由もないしな」
あの戦いは仲間が安全圏まで撤退するための時間稼ぎ。
目的を果たした騎士は、すでに遠い地にいた。
戦闘に対する脅迫観念を植え付けられている《泰君》としては不完全燃焼でさぞかし不満に感じていることだろう。
事実、しばらくは無意味に遺跡を破壊していたようだ。
「……ふん」
ラクシャは苦笑を零した。
「その鬱憤は次の敵にぶつけるのだな」
現在、《業蛇》と《死蜘蛛》がぶつかっている。
どちらが勝者になるかはまだ分からないが、想定外の事態でも起きない限り、どちらかが生き残ることになるだろう。
儀式をよりスムーズに進めるためには《泰君》には《猿羅》とぶつかって欲しいところではあるが……。
「流石に遠いな……」
二体の位置関係はかなり遠い。
遭遇するには相当時間がかかる。他の魔獣や紛れ込んでいる人間たちと遭遇して一戦する可能性も考えると二体はぶつからないかも知れない。
「これもまた運命か」
ラクシャはふっと笑った。
と、その時だった。
不意にこの世界に侵入する者の気配を感じた。
ラクシャが振り向くと、そこには不肖の弟子がいた。
「お邪魔でしたか? 師よ」
「……構わん」
ラクシャは弟子の腕に目をやった。
「だが、その娘はなんだ?」
侵入した気配は二つだ。
一つは目の前の弟子。
そして、もう一つはその弟子が腕に抱える少女だった。
淡い栗色のショートヘアの奇妙なスーツを着た少女。人の美醜に興味のないラクシャでも美しいと思う娘だ。
「ああ」
弟子は鷹揚に頷く。
「彼女こそが姫君。この国の王女殿下です」
「……なに?
眉をひそめるラクシャ。
「どういうことだ? ウォルター。何故この国の姫がここにいる?」
「いえ。お伝えしたはずですが、我が師よ」
一方、弟子は苦笑を浮かべた。
「この地には美しき姫とその騎士がいると」
そう返すと、ラクシャは珍しく驚いた顔をした。
「……よもや言葉通りの意味だったのか」
てっきり知り合いとやらの女性を『姫』と呼称していただけだと思っていたのだが、まさか本当に姫君だったとは……。
「言葉足らずだ。少しは説明せよ。ウォルター」
そんなことを言われるが、それにはウォルターは渋面を浮かべていた。
貴方がそれを言うのかという話だ。
もし自分が説明不足だとしたら、それは恐らく師譲りである。
ともあれ、
「……この娘は餌でございます」
気を取り直して、ウォルターは説明をする。
「かの騎士に王獣闘争に参戦する理由はありません。他の魔獣と違い、術にもかかっておりませんから命を懸けるなど馬鹿らしいことです。ですが、この姫君を報酬にすればかの騎士の士気も上がりましょう」
「……ふん」
ラクシャは鼻を鳴らした。
「女を人質にか。まるで下衆の手法だな」
手厳しい身も蓋もない台詞を告げてくる。
「ははっ」
しかし、ウォルターは少女を抱えたまま肩を竦めて。
「何を仰いますか。我が師よ」
悪びれることなく堂々とこう返した。
「古来より姫君を守り救うことは騎士の誉れですぞ。私は忠実かつ、真摯に王道を踏襲しているにすぎません」
「……ふん。よく言ったものよ」
樫の杖を突き、ラクシャはウォルターの元へと近づく。
「貴様の趣味に口出しする気はないが、すでに儀式は一段階進んでいる。今更あの騎士に介入してもらう必要性もないのだがな」
「ほう。そうでしたか」
ウォルターは双眸を細めた。
「いささか行動が遅かったですか?」
「そうなるな」
ラクシャは素っ気なく言う。
「だが、我が許可したことだ。止める気もない。貴様の好きに――」
と、言いかけた時だった。
「……な、に?」
間近で少女の顔を見て、ラクシャは瞠目した。
まじまじと少女を凝視する。
「………」
長い沈黙が続く。
ややあって、
「試してみるか」
ラクシャはそう呟くと、おもむろに指先を少女に向けた。
「……師よ?」
唐突な師の仕草に、ウォルターは眉をひそめる。
すると、
「……水弾よ」
そう呟いた。ウォルターは目を見開いた。
師が繰り出したのは初歩の魔術。指先から水弾を撃ち出す魔術だ。
それを眠る無防備な少女に向けて放ったのである。
水弾はウォルターでも使える牽制程度の術だ。直撃しても死ぬことはないが、この至近距離では流石に負傷は免れないだろう。
(……くッ)
表情を険しくするウォルター。
大切な景品を意味もなく傷つけることは彼の主義に反する。
だが、突然すぎてウォルターは対応が遅れてしまった。今から彼女を守ろうとしても攻撃はすでに放たれている。
水弾は彼女の額に直撃する――はずだった。
――パァンッ!
軽い音が響いた。
水弾の直撃音……ではない。
水弾が少女の額に当たる直前に弾け飛んだ音だった。
水弾の飛沫が水面に落ちていく。
「……なんと」
ウォルターは驚いていた。
「……師の魔術を弾いたのですか?」
唖然とした表情のまま、腕の中の少女を見つめる。
彼女は全くの無傷だった。
沈黙が降りる中、
「……低位魔術に対する自動防御か」
ラクシャは独白する。
「この力。やはりこの娘、炎環の加護を……」
「師よ。これはどういうことです?」
眉根を寄せてウォルターが尋ねるが、ラクシャの耳には届かない。
深淵の魔術師は静かに眠る少女を見据えていた。
そして、
「……よはや《悠月の乙女》だというのか?」
ポツリとそう呟いた。
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