幕間二 ドラミング・ナイト

第366話 ドラミング・ナイト

 ――市街区。

 とある宿の一室で、ボルドはベッドに腰を掛けて嘆息していた。

 時刻は、夜の九時を回っている。


「……これは困りましたね」


 ボルドは、自分の右手首を押さえていた。

 脈がかなり速い。体温も高かった。

 だが、これは、別に年齢による不調ではない。

 昼間、あの少年の瑞々しい闘気にあてられた結果だ。

 その不完全燃焼が、今も尾を引いているのである。


「クラインさんの弟。侮っていましたね」


 まさか、あれほどとは……。

 あの少年の力量に、年甲斐もなく血が騒いでしまった。

 その結果が、このヤバい不整脈だとは、何ともヤバかった。


(どうにかして、興奮を発散させないとヤバいですね)


 何というか、このままだと不整脈で翌日死体になっていそうだ。

 ――《九妖星》の一角。田舎の宿にて死亡。死因は心不全。

 しかも、部下である秘書と同室だ。

 絶対に『腹上死』だと噂されるに決まっている。


(それだけは御免です)


 ボルドは、ブルブルと頭を振った。

 身内に対してだけは、清廉潔白を信条にしているボルドにとっては最悪の死だ。

 それだけは、本当に勘弁して欲しい。


「……仕方がありませんね」


 ボルドは立ち上がる。

 この興奮を抑える方法は二つ。一つは戦闘だ。

 しかし、ここは異国の地。

 第5支部なら訓練所にでも行けば相手は幾らでもいるが、ここにはいない。


「本当に久方ぶりなのですが……」


 ならば、もう一つに頼るしかない。

 ――女だ。

 女を抱くしかない。

 だが、当然、カテリーナは論外だ。

 秘書を手籠めになど出来ない。ガレックでもあるまいし。


「この規模の街ならば、裏通りにでも行けば、娼館ぐらいあるでしょう」


 幸い、カテリーナは現在、留守にしている。

 この宿にある共同風呂に行っているのである。

 今の内に出かけてしまえば問題ない。後でどこに行っていたのかを問われても、散策していたとでも言えば、確認しようもないだろう。

 ボルドは決断した。


「善は急げです。行きますか」


 そして急ぎ出口に向かって、ドアを開いた瞬間だった。


「あら。お出かけですか? ボルドさま」


 最悪なことに、カテリーナとばったり遭遇してしまった。


(う、ぐ! これは!)


 ボルドは息を呑む。

 ――そう。最悪なことだった。

 風呂上りのために火照った肢体。

 そして醸し出される女性特有のフェロモン。

 娼婦を抱くつもりだったボルドは、モロにそれを嗅いでしまったのだ。

 しかも、


「……ふふ。似合っているでしょうか?」


 カテリーナの姿は、出かける前と違っていた。

 赤い眼鏡に、頭頂部で団子状に結いだ髪型は同じだ。

 ただ、服装が違う。

 彼女は、鎖骨や胸元が大きく開けた独特な衣装を纏っていた。

 淡い青色の、涼やかな衣装である。


「宿の女将が貸してくれました。アロンの衣装で『浴衣』というそうです」


 カテリーナがクスッと笑う。

 ちなみに、


『新婚さんなんだろ? いつもと違う格好で旦那を誘惑しちまいな』


 というのが女将の弁だ。

 カテリーナとしてはダメ元の格好である。

 しかし、それは彼女も予期しないほどに効果絶大だった。


(う、うお)


 スレンダーな彼女の体には本当によく似合っている。妖艶ささえ感じる。

 その上、あの美しい鎖骨に、わずかに汗が伝う胸元。

 加え、ダメ押しとばかりに漂う女のフェロモン。


(ま、まずい!)


「カ、カテリーナさん。実は私は――」


 用事があって。

 そう続けようとした時だった。


【――おいおい、おめえは馬鹿か?】


 突如、脳内に響いた声に、ボルドは絶句する。

 それは昔の……まるで獣のようだった時代の、ボルド自身の声だった。


【――このレベルの女を前にして、今更娼館かよ?】


 かつて《外道狸》と呼ばれていた若き日の自分の声は、くつくつと笑う。


【――娼婦なんぞが、この女の代わりになると思ってんのかよ。見ろよ、この無防備ぶり。とっとと部屋に連れ込んで喰っちまえよ】


(な、何を馬鹿なことを……)


 二十数年かけて培ってきた理性が、獣性を否定する。

 だが、そんな理性を破壊したのは彼女自身の行為だった。


「……? どうかされましたか? ボルドさま?」


 カテリーナは、片手で髪を押さえて身を乗り出してきたのだ。

 背が自分より低いボルドと視線を合わせるためだ。

 しかし、それによって、彼女の胸元まで強調されてしまう。

 その上で間近で発せられるフェロモン。


(……ああ、これはもう)


 ボルドは目を閉じた。

 頭の奥で若き日の自分が「グフフ」と笑っていた。

 カテリーナのことは、娘のように思っていた。

 さらに言えば、優秀な人材でもある。

 順当に行けば、近い将来、重要なポストを担うだけの才はあった。

 それも踏まえて、彼女のことは大切に育ててきたつもりだ。

 だが、結局のところ、自分は欲望の徒だった。

 加えて今、彼は切実な欲望を抱いていた。

 それを否定など出来ない。

 たとえ、彼女の精神と体をここで壊すことになっても、だ。


(仕方がありませんね)


 ボルドは、大きく溜息をついた。

 結局、これが自分という男だ。

 そうして、


「カテリーナさん」


 彼女の腕を掴む。

 まるでどこにも逃がさないように。


「とりあえず部屋に。湯冷めしてしまいますよ」


「あ、はい。そうですね」


 言って、カテリーナは扉をくぐった。

 そして少し駆け足になって窓際に立つ。

 カテリーナは呟いた。


「ああ、今夜は月が綺麗です。良い夜ですね。ボルドさま」


「……ええ」


 ボルドは自分の本性を苦々しく感じつつも。


「きっと、私にとっては良い夜になることでしょう」


 そう言って、ドアノブに手を掛けた。


「ボルドさま?」


 カテリーナは、無垢にも見える表情で振り向いた。

 ギイィ、と音が響き。

 ――パタン。

 部屋のドアが閉められる。

 なお、そのドアは翌日の朝まで開かれることはなかった。


 そうしてケダモノ腹太鼓ドラムを叩く。

 ドラミング・ナイト。

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