幕間一 動き出す猟犬
第197話 動き出す猟犬
カリカリカリ……。
ハウル邸の執務室にて筆が走る音が響く。
音の主は言うまでもなくハウル家の現当主、ジルベール=ハウルだ。
「……ふむ」
赤髭の老人は、かなりの速度で筆を滑らせていた。
しかし、文章を考えているのか、時折筆が止まる。が、すぐに再開。
それを繰り返し、ジルベールは一つの書文を仕上げた。
そして最後に、一通り文章に目を通して、
「とりあえずこれでよいか」
筆を置いたジルベールは近くにあった封筒に書文を入れ、封蝋した。
続けて、豪華な椅子に背を深く預けると、
(やれやれだな)
天井を見上げて一服する。
と、その時だった。
――コンコン、と。
重厚な執務室のドアがノックされる。
ジルベールはドアを一瞥し、「入れ」と指示した。
すると、「失礼いたします」という声と共にドアがゆっくりと開かれた。
そこにいたのは薄い茶色の髪を持つ一人の青年だった。
年の頃は二十代後半。くすんだグレイの髪を持つ人物であり、鋭い顔つきに無表情を貼りつけた彼は、黒い執事服を纏っていた。
青年は右腕を前にして、深々とジルベールに頭を垂れた。
「お呼びでしょうか。旦那さま」
「ああ、そういえばお前を呼んでいたな。イアン」
主人に名を呼ばれ、執事服の青年――イアン=ディーンは「はっ」と小さく応えて頭を上げた。ジルベールはそんな従者を一瞥し、
「お前を呼んだのは他でもない」
と、早速本題を切り出す。
「現在行方をくらませている馬鹿娘についてだ」
「……それは、もしやミランシャさまの事でしょうか」
イアンはわずかに眉をひそめて主人に尋ねる。
対し、ジルベールは「そうだ」と不快そうに答えた。
「お前を呼んだのは、あの愚鈍な娘を連れ戻してもらうためだ」
そう告げるジルベールに、イアンはますます疑問を深めた。
「私――いえ、我々『黒犬』がでしょうか?」
思わずそう尋ねる。
ハウル家には、『公式』と『非公式』の私設兵団が二つ存在する。
一つは『白狼兵団』。勇猛さで知られるグレイシア皇国騎士団でさえ顔負けの装備と練度を誇る『表』の兵団だ。
そしてもう一つは『裏』の兵団である『黒犬兵団』。彼らはいわゆる暗部と呼ばれる集団であり、表沙汰にできない仕事を担う兵団であった。
イアンはその部隊長を担う人物なのである。
「我々では手荒になります。最悪の場合、ミランシャさまを多少傷つけてしまう可能性がありますが……」
「構わん。お前達に任せる」
ジルベールは、暗部たる黒犬兵団の部隊長に、淡々と指示を出す。
「あれでも《七星》の一人らしいからな。……フン、今の団長もそうだが、素性も知れん女傭兵といい、女を加えるなど《七星》の格も下がったものだ」
と、独白するように吐き捨てた後、
「だが、家出娘を連れ戻すなどという甘い任務と思うな。容易ではないぞ。恐らくあの娘は今代最強の《七星》の元にいるはずだからな」
「……今代最強、ですと?」
イアンは眉を寄せたが、すぐにハッとする。
「まさか、ミランシャさまは《双金葬守》の元に?」
「ああ、間違いないだろうな」
ジルベールの台詞に、イアンは少し呆気にとられていた。
現在、《七星》の第三座は遥か遠い異国にいるという話だ。まさか公爵令嬢がそんな場所にまで『家出』していようとは……。
「まったく興醒めだな」
ジルベールは引き出しから、葉巻を取り出すと火を点けた。
そしてゆっくりと紫煙を吐き、
「ようやく少しばかりの気概を見せたかと思えば、真っ先に男の元へ逃げ出すとはな。やはり愚鈍な娘は愚鈍なままか」
そう言って、椅子の背もたれに寄りかかる。
イアンは無言で直立していた。
「さて、イアン」
ややあってジルベールが語り出す。
「お前の任務はあの娘を連れ戻す事だ。具体的な手段はお前に任せる。だが十中八九、あの男が邪魔をするだろう」
「…………」
イアンは無言のままだった。
かの《双金葬守》は身内に甘いと聞く。無理やりミランシャを攫おうとすれば、敵対することは火を見るより明らかだろう。
それはすなわち、あの怪物との衝突が避けられない事を意味していた。
しかし、ジルベールは、それを承知の上でイアンに命じる。
「出し抜いて見せろ」
葉巻の火を消し潰しながら、ハウル家の当主は告げる。
「儂の忠実な『犬』どもよ。『獅子』の喉笛を噛み切り、獲物の『鳥』を見事奪い取って儂の元へ届けろ。それが今回の任務だ」
「それは……状況によっては《双金葬守》を殺してもよいと?」
イアンは神妙な声で尋ねる。
果たして騎士団と縁の深い人物を殺めてもいいものだろうか。
「お前達に殺せるのならばな」
しかし、そんなイアンの考えをよそに、ジルベールは苦笑を浮かべて告げる。
「今のはただの言葉のあやにすぎん。お前達『犬』ごときが『獅子』を侮るな。そこまでは期待しておらんわ。別にあの男と遺恨がある訳でもないからな。強いて言うならば、これはあの娘への仕置きといったところか」
「…………」
主人の言葉に、イアンは沈黙で返す。
確かに《双金葬守》はまごうことなき怪物だ。
とは言え、はっきりと劣ると断言されては、わずかにだが苛立ちを覚える。
「………了解いたしました」
だが、そんな感情は顔には出さず、イアンは承諾の意を示した。
ジルベールは「そうか」と静かに頷く。
「あの国に出向く人選もお前に任せる。では行け。朗報を期待しているぞ」
「はっ。失礼いたします」
その場で敬礼するイアン。
続けて執事服の青年はドアの前まで進むと、再度敬礼して部屋を退出した。
ジルベールは音もなく閉じられたドアを、しばしの間見つめていた。
そしてイアンが去って十数秒後、
「フン、どいつもこいつも愚昧だらけだ」
そう言って、ジルベールは皮肉気に笑うのだった。
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