第八章 月下の巨獣
第185話 月下の巨獣①
(…………くそ)
わずかに雲のかかる月夜の下。
黒き魔獣と、漆黒の鎧機兵は静かに対峙していた。
互いに牽制しているのと、アッシュが未だわずかに動揺していたための静寂だ。
結局、あの男から何一つ聞き出せなった。
その無念が、アッシュの心に強い苛立ちを抱かせていた。
こうなっては仕方がない。戦闘に集中するだけだ。
普段ならば、そんな風にすぐさま下せる判断を躊躇させていた。
明らかに常時とは違う反応。
当然、アッシュの後ろにいるオトハは、その異変に気付いていた。
(………クライン)
オトハは、キュッと下唇を噛んだ。
アッシュが動揺し始めたのは、あの男が発した名前を聞いてからだ。
トウヤ=ヒラサカ。
オトハには聞き覚えのない名だった。
しかし、オトハはアッシュの過去を概ね知っている。
彼の今の名前――『アッシュ=クライン』が本名でないことも聞いていた。
従って会話の前後から、内容を推測するのは簡単だった。
恐らく、この名前こそがアッシュの――。
(……本当の名前か)
オトハは、その名を心に刻みつける。
先程までのアッシュの剣幕を鑑みるに、この名前はきっと愛娘であるユーリィにさえ教えていないのだろう。誰も知らないはずの名前に違いない。
だというのに、あの男は知っていた。
アッシュの動揺は理解できる。しかし、今はその件は置いておくしかなかった。
相手は固有種の魔獣。
気が散っているような精神状態で挑んでいい相手ではないのだ。
だが、彼女の愛する青年は、表面上は冷静さを取り戻しているように見えるが、内心ではまだかなり動揺している。
(……む、むう。これは仕方がないな)
それが分かったからこそ、オトハは緊張しつつも行動を起こした。
すっと両腕をアッシュの腰から胸板に移動させ、それから自分の体温を預けるように身体全体を押し当てた。豊かな双丘がアッシュの背中でぎゅむうと押し潰される。
それに、ギョッとしたのはアッシュだった。
「オ、オト……?」
アッシュは唖然とした声を上げた。
それに対し、オトハは一度緊張を吐き出すように呼吸してから――。
「……な、なあ、クライン」
まだ少し緊張が残る声で語りかける。
「お前の動揺の理由は何となく分かる。だが、今は目の前の魔獣に集中してくれ。こいつを他の市街区に行かせる訳にはいかないだろ。それに――」
そこで、さらに両腕に力を込めつつ、オトハは小さく唇を動かして告げた。
「そ、その、お、お前は、私を守ってくれるのだろう?」
ギュウゥゥ……と。
アッシュの背中を抱きしめながら。
最も付き合いの長い旧友が、まるで無垢な少女のような声でそう尋ねてくる。
アッシュは、少し目を丸くした。
こんな甘えるような態度を示すオトハは初めてだったからだ。
(オ、オト……?)
正直、アッシュは、かなり呆気に取られていた。
そしてその間も、オトハは彼の背中をギュウゥと抱きしめている。
――が、自分でも恥ずかしい台詞だったのか、オトハの細い肩は震えていた。
アッシュは、少しだけ意識を背後に向けた。
彼女の微かな息づかいが、背中越しに聞こえてくる。
そして、オトハの温もりと柔らかさを間近で感じ取ったアッシュは――。
(……やれやれ。俺って奴は)
内心で小さく嘆息した後、ようやく心を落ち着かせた。
恐らくオトハの意図は、予想外の行動を見せて、アッシュの精神状態を一度リセットさせるつもりだったのだろう。
手法としては、アッシュがサーシャにしたことと同じである。
とは言え、何ともオトハらしくない荒療治だった。
しかし、おかげで先程までの苛立ちがかなり収まっている。
そしてアッシュは、改めて現状を整理し始めた。
(まあ、まず問題はこの魔獣もどきだよな)
「ぐるうるううううう……」
と、威嚇を繰り返しながら、目の前に立ち塞がる巨大な熊型の魔獣。
元は人間だが、この魔獣はすでに人の意識を持っていないように思える。
ここで仕留めなければ街に被害――いや、死傷者が出るのは確実だ。
絶対に、ここで食い止めなければならなかった。
この国はアッシュの第二の故郷。すでに多くの友人や知人がいる。
当然ながら、この地で暮らす友人達を失いたくはない。
そして何よりも。
最も守るべきは、守ると誓ったのは、確かな温もりを感じる彼女だ。
今ここにいるオトハだ。
アッシュは苦笑を浮かべながら、改めて思う。
以前のように過去に引きずられて大切な者を失い、後悔するなど二度と御免だった。
「……悪りいな、オト。気ィ使わせて」
アッシュは、両手でグッと操縦棍を握り直した。
「もう大丈夫だ。あの熊は俺が倒す。お前は俺が守って見せるさ」
「う、うむ。そうか。頼むぞクライン」
どうにか声だけは平静さを装っていたが、実際のところ、自分の大胆すぎる行動に、うなじまで真っ赤になっているオトハがそう答える。
彼女は少しだけ名残惜しそうに身体を離し、両腕をアッシュの腰に戻した。
これであらゆる意味で準備万端だった。
ズシン、と。
漆黒の鎧機兵が一歩踏み出した。
対する黒い巨獣も、前傾になって臨戦態勢を取る。
そして――。
「ごおおおおおおおおおおお――ッ!!」
魔獣は咆哮を上げた。
それを見据え、《朱天》は両の拳を胸板の前で叩きつける!
『――さあ、遊ぼうか。でっかいクマさんよ!』
そんな風に嘯いて。
本来の調子を取り戻したアッシュは《朱天》の中で不敵に笑った。
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