第176話 深く静かに③

(な、なんで、こうなったんだろ……?)


 琥珀の瞳を少し泳がせつつ、サーシャはかなり緊張していた。

 どうしても落ち込む気分を引き締めるため、オトハに稽古をお願いしたのだが、まさかこんな展開に繋がるとは予想もしていなかった。

 彼女の隣には今、想い人がいる。

 庭園の道を歩く今の状況は、まるでデートのようだった。


「本当に綺麗な庭だな」


 その時、アッシュが語り出した。


「は、はいっ! そ、その、綺麗ですねっ!」


 両指をズボンの前で組んでいたサーシャは、ビクンと背筋を伸ばして答える。

 何やら過剰な反応をするサーシャに、アッシュはキョトンとした。


「どうしたんだ? なんか緊張してねえか、メットさん?」


「い、いえ、そそ、そんな、ことないですよっ!」


 と、挙動不審な様子で、サーシャは首をぶんぶんと振る。

 アッシュは一瞬だけ訝しそうな顔をするが、「ん。そっか」と言うと、そのまま庭園を歩き続けた。しばし二人の間に沈黙が訪れる。

 そうして庭園を進むこと五分。

 アッシュは、ポツリと語り出した。


「……怖いか? サーシャ」


「……えっ?」


 サーシャは足を止め、唖然とした声を零す。

 アッシュも立ち止まり、彼女の琥珀色の瞳を見据えた。


「相手の実力に拘わらず本気の殺意や敵意を向けられるってのは怖いもんだ。それは当然のことだぞ。恥じるようなことじゃねえ」


「せ、先生……」


 呆然と呟くサーシャに、アッシュは優しい笑みを見せる。


「だから無理すんなよ。怖いなら怖いって素直に言っていいんだぞ」


 アッシュの言葉に、サーシャは何も答えられなかった。

 そんな少女に対し、アッシュはすっと目を細めた。

 サーシャは常日頃、戦闘訓練を受けている騎士候補生だ。

 将来的は犯罪者相手に、大立ち回りをすることも充分あり得る。しかし、それでも普段は普通の少女と変わりない。それもユーリィと二つしか違わない女の子だ。

 犯罪者に狙われていると聞いて、恐怖を感じない訳がないのだ。


「なあ、サーシャ」


 アッシュは言う。


「勇気を持つことは大切だ。けど、それは恐怖を一切拒絶すんのとは少し違うんだぞ。戦闘において恐怖だって大切な感情なんだ」


「…………」


 サーシャは未だ何もしゃべらない。

 真面目なこの少女は騎士の鑑たらんことを常に意識している。恐らくアンディ=ジラールに、要は『敵』に恐怖を抱いているということが受け入れ難いのだろう。

 しかし、ここで恐怖を受けいれておかないと、もしあの男と本当に戦闘になった時、恐怖は彼女の心に牙を剥く可能性がある。

 アッシュはやむを得ず、少々荒療治をすることにした。


「サーシャ」


 彼女の名を呟き、グイッと手を取って強引に引き寄せる。

 続けて、目を丸くする少女の肩を両手で強く抑えた。


「え? せ、先生……?」


 サーシャが困惑した声を上げる。

 唐突なことで、サーシャの心に一瞬隙が出来るのを、アッシュは感じ取った。


「なあ、サーシャ」


 そこで、すかさずアッシュは語りかける。


「ゆっくりと息をするんだ。そして自分の心を素直に見つめ直すんだ」


「……み、見つめ直す?」


 アッシュの黒い瞳を見つめながら、サーシャは反芻する。


「そうだ。お前は今の状況をどう思ってんだ?」


 その言葉に、サーシャは硬直した。

 アッシュは静かに待つ。そしてそのまま数秒が経ち……。


「……わ、私……また、あの男が現れるなんて思ってなかった……」


 ポツポツ、とサーシャは語り出した。


「ホ、ホントは凄く怖くて、あの黄金竜の鎧機兵はもうないけど、ジラールはまたあの機体で襲ってくるんじゃないかって……」


 それがサーシャの本音だった。

 あの時の黄金竜の鎧機兵は、彼女の心に恐怖そのものとして焼き付いている。


「……そっか」


 ようやく不安を吐露したサーシャの頭を、アッシュはポンポンと叩く。


「うん。あの時は本当に無茶をさせたもんな。ごめんなサーシャ。けどな。お前はあの時とはもう違うんだぞ」


 そう告げて、今度はサーシャの銀の髪を撫でる。


「お前はずっと強くなった。それに仲間も得た。お前は一人じゃないんだ」


 幾度も髪に触れる青年の暖かい手。

 サーシャは心にこびりついた澱みのような感情が、ほぐれていくのを感じた。


「恐怖は上手く受け入れるんだ。完全に拒絶してしまえば、恐怖はここぞという時に容赦なく牙を剥く。お前の心に喰らいついてくる」


 アッシュは再び彼女の両肩を、グッと掴んで告げる。


「けど、上手く扱えば恐怖は味方になってくれる。危険を教えてくれるはずだ。お前はもっと強くなれるはずだ」


「せ、先生……」


 サーシャはしばし考え込んだ後、こくんと頷いた。

 裡に溜めこんだ不安を吐き出して、どこか心が軽くなったような気がした。

 それからサーシャは少し迷うが、今は自分の気持ちに素直になろうと決断した。

 サーシャは思い切って、アッシュに抱きついた。

 そして細い両腕を彼の背に回し、ギュッと力を込める。


「お、おい? サーシャ?」


 困惑するアッシュ。しかし、サーシャは何も答えず彼の胸の中に顔を埋めた。

 青年の力強い鼓動が、彼女の耳に届く。

 愛しい人の心の音を間近に感じ取り、サーシャは改めて思う。

 やっぱり自分は彼の事が誰もよりも好きなのだ、と。


(……ありがとう。アッシュ)


 トクントクン、と自身の鼓動が高鳴った。

 そして、サーシャはアッシュの顔を見上げて――。


「はい。先生。頑張ってみます」


 銀髪の少女は、微かな笑みを見せてそう言った。



 ――と、そんな二人の様子を密かに窺う男の姿があった。


「ぬぬぬぬ……」


 思わず呻き声が漏れる。

 そこはフラム邸の四階。当主の執務室だ。

 当然、その部屋にいるのはフラム家当主――アラン=フラムである。

 アランは今、執務室の窓から庭園の様子を窺っていた。

 彼は第一騎士団所属の上級騎士。多くの部下もいる責任ある立場であり、本来ならば建国祭に向けて多忙な身なのだが、今回の脱獄の一件でローグとガハルドが気を利かし、今はサーシャの護衛隊の指揮を執っているのだ。


 しかし、まさかこのような場面に出くわそうとは――。


「あ、あの野郎……ッ!」 


 ギシギシ、と歯を軋ませるアラン。


「私の……私の可愛いサーシャに何をしやがるッ!」


 その顔は、まるで血涙を流しそうな鬼の形相だった。

 額には青筋まで浮かびあがっている。


「……旦那さま」


 その時、執務室に控えていたフラム家最古参の使用人――ナターシャ=グラハムが、呆れたように嘆息した。


「別に良いではありませんか。サーシャお嬢さまも恋を経験するお歳です」


「だ、だがな、ナターシャさん。サーシャはまだ十七歳だぞ! まだまだ子供だし、それにあの男は二十代前半ぐらいじゃないか!」


 歳が離れすぎていると、絶叫するアラン。

 それに対し、ナターシャはやれやれと嘆息し、


「いえ旦那さま。十七歳ならすでに結婚している者もいます。それに、あれぐらいの歳の差程度ならば充分許容範囲だと思いますが……」


 と、この王国での一般論を説く。

 しかし、そんな言葉などアランの耳には届いていないのだろう。

 アランは、グググッと拳を握りしめた。

 サーシャはアランの宝だ。心底愛した妻の大切な忘れ形見だ。


「み、認めんぞ……」


 アランは血を吐くように呟く。


「私は、絶ッ対に認めんからな――ッ!」


 子供のように駄々をこねる主に、ナターシャは深い溜息をつくのだった。

 そんな騒がしきフラム邸。


 だが、その一方で――……。



       ◆



「……どうだ。あのガキはおもちゃを気にいったか?」


 市街区。廃墟が立ち並ぶ区間にて。

 寂れた屋敷の地下室で、ハンは部下の一人に問うた。

 対する部下は「はい」と頷き、


「《四腕餓者しわんがじゃ》にも少しは慣れたようです。随分とはしゃいでますよ」


 と、皮肉気な笑みを浮かべて答える。

 すると、ハンの近くで控えていた別の部下が舌打ちした。


「……ふん。よりにもよって俺達の所有する機体でも最強のモノを選ぶとはな。隊長。あんな使い捨てのガキに与える代物ではないと思うんだが?」


 筋肉質な体躯を持つ彼は、九人の中で唯一の鎧機兵の職人だった。

 手掛けた自慢の機体が、あんな未熟な小僧に使われるのが納得いかないのだ。


「まあ、そう言うな」


 ハンは苦笑を浮かべる。


「陽動は出来るだけ派手な方がいい。あのガキには我らのために頑張ってもらわなければならんのだ。これぐらいの出費は仕方がないだろう」


「クヒ。ならばいよいよですな。クヒヒ」


 と、また別の男が進み出る。やけに猫背の薄気味悪い四十代の男だ。

 彼もまた九人の中で唯一の特殊な技能を持つ者だった。

 楽しみで仕方がないといった笑い方をするその部下に、ハンは密かに嘆息した。

 が、すぐに面持ちを改めて、八人の部下を順に見やり、


「……そうだな。いよいよだ」


 一拍置いて、ハンは宣言する。


「明日、作戦を決行する。我らの秘宝を取り戻すぞ」

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