第5部 『火の魔星』
プロローグ
第132話 プロローグ
「……やれやれ」
少し温くなったコーヒーを呑み干し、彼は一息ついた。
全身を黒服で統一した四十代の男。小柄な体と細い眼が特徴的な人物。
――ボルド=グレッグ。
セラ大陸において最大規模の犯罪組織である《黒陽社》。
その支部の一つ――人身売買部門を担う第5支部の長を務める男である。
「……これでようやく一段階つきましたか」
執務机を埋め尽くす報告書を一瞥し、ボルドはコキコキと首を鳴らす。
そこは第5支部・支部長室。
ボルドは休暇中に溜めこんだ仕事を、ようやく整理し終えたところだった。
「……ふう……。あまり長期休暇は取るものではないですね」
と言って、目がしらをきつく押さえるボルド。
中々実りのある休暇ではあったが、こうも仕事が滞ってしまうのも問題だ。
「……今後はもっと計画的に休暇を取りますか。これでは逆に疲れてしまいます」
片手で額を覆いつつ、ボルドは自嘲気味に呟く。と、
「ええ、そうですね。それがよろしいかと思います」
不意にそんな声を掛けられた。
「おや、カテリーナさん」
ボルドが目をやると、トレイにコーヒーカップを乗せた黒服の女性がいた。
年齢は二十代半ば。亜麻色の髪を頭頂部で団子状に結ったスレンダーな美女だ。
彼女の名は、カテリーナ=ハリス。
ボルドが最も信頼する部下であり、彼の右腕とも呼べる秘書であった。
「ははは、耳が痛くなるような言葉ですね。気をつけますよ」
ボルドは苦笑を浮かべながら、カテリーナからコーヒーカップを受け取った。
対し、カテリーナは艶然と笑う。
「ええ、計画は早めにお願いします。私も休暇を取るには準備がありますので」
「はは、そうですね……ん? カテリーナさん? 今の台詞、変ではありませんか?」
彼女の台詞に違和感を覚え、尋ねるボルド。
すると、カテリーナは小首を傾げて。
「何がです? 私にも業務がありますから、即休暇とはいきません」
「ええ、それは分かりますが、今話していたのは私の休暇のことですよ? それだとまるでカテリーナさんが休暇を取るような感じですし」
と、訝しげに眉を寄せるボルドに、カテリーナは呆れたような表情を見せた。
「……まったく。何を仰っているのですかボルド様。ボルド様が休暇を取るのなら、私も休暇を取るに決まっているじゃないですか」
「…………え?」
ボルドは唖然とした。
「え、いや、ちょっと待って下さいよカテリーナさん? 何故そうなるんです?」
「その理由は前回もお伝えしましたが? ボルト様はお一人にすると不安ですので。当然私もついて行きます」
「いやいや、私はもう四十七なんですよ? 子供じゃあるまいし、毎回休暇についてこなくても……。それと、その『ボルド様』はやめて下さいよ」
「お断りします」
「なんで拒否なんです!? あのですね、カテリーナさん。最近、部下達の間では変な噂が立っているんですよ……」
ボルドはこの上なく情けない顔でそう告げる。
(……はあ……。どうしてこんなことに……)
思わず深い溜息もこぼれてしまう。
――彼が仕事に復帰したのは、今から一週間ほど前のことだった。
復帰した時は、有能なボスの帰還に、部下達はとても喜んでくれたものだ。
しかし、それはすぐに困惑に変わった。
ボスの付き添いという名目で一緒に休暇を取っていたカテリーナ。
長い休暇を終えた後、あのお堅いことで有名な美人秘書が、人目も憚らずボスを『支部長』ではなく名前で呼んでいるではないか。
何かあったのだと勘ぐるのは自然な流れだった。
最近は「あ~あ、結局支部長もうちの副部長や第2支部長と同類かよ」「いいよなあ、ハリスって全支部でも一、二を争う美人なんだぜ。俺も出世したいよ」などと、陰口を叩かれている。ボルドとしては極めて不本意な状況であった。
「……はあ……。私の清廉潔白なイメージが……」
執務机に両肘をつき頭を抱えるボルド。
それを見て、カテリーナは呆れたように口角を緩めた。
「我々は犯罪組織ですよ。流石に清廉潔白のイメージは無理があるでは?」
ある意味、真っ当な意見を述べるカテリーナ。
しかし、ボルドはかぶりを振った。
「それでも身内には筋を通すべきなんですよ。ましてや女性関係となればね。少なくとも私は貴方みたいな悪名は背負いたくないですから」
「……え」
ボルドの言葉が自分ではなく、他の誰かに向けられていることに気付き、カテリーナは弾けるように振り返った。
「おいおい、そんなひでえ事言うなよ。ボルド」
――いつの間にか、そこには一人の男がいた。
ボルドやカテリーナと同じ黒い服。体格のいい四十代前半の総髪の男だ。一体どうやって入室したのか、その男は来客用のソファーにふんぞり返っていた。
「だ、第2支部・支部長……」
カテリーナが震える声で、その男の役職名を口にする。
すると、総髪の男はニカッと相好を崩した。
「よう! カテリーナ。いつ見てもいい女だな。けどよ俺の事はガレックでいいぜ」
とても親しげな笑顔。だが、それは表面上だけだ。
その舐め回すような視線にカテリーナは言葉もなく後ずさった。
「い、いえ、支部長を名で呼ぶなど……」
「――あン? ボルドの事は『様』付けしてんのにか? そりゃあつれねえなあ」
言って、総髪の男はゆっくりとソファーから立ち上がる。
カテリーナが怯える少女のように肩を震わせた。
「ち、違います! その、支部長とはそれほど親交もなく……」
「ははっ! なら、これから親交を深めようじゃねえか!」
言質を得たとばかりに笑みを深める総髪の男。
そして、硬直するカテリーナに近付こうとして――。
「うちの秘書をからかうのはそれぐらいにしてもらえませんか。ガレック」
執務席に座ったボルドが、優しく窘めるように声を上げた。
――ただし、その眼差しは異様なまでに鋭かったが。
「……けっ。冗談だよ。そんなおっかねえ目をすんなよボルド」
ボルドの視線を前にして、白けた表情を見せる総髪の男。
――ガレック=オージス。
それが総髪の男の名前だった。
兵器開発及び供給を担う第2支部の長を務める人物。ボルドと同格の人間だ。
ガレックは再びソファーにふてぶてしく座った。
「…………はあァ……はあァ……」
同時にカテリーナは肩の力が抜け、大きく息をついていた。
秘書の様子を一瞥してから、ボルドは同僚に尋ねる。
「それでガレック。今日は何か用でもあるのですか?」
「はン。いきなりだな。少しは世間話でもしようぜ」
そう言って肩をすくめるガレックに、ボルドは呆れるような視線を向けた。
「私もあなたもそう暇でもないでしょうに。早く本題に入りなさい」
「……けっ、相変わらず仕事人間だな、お前は」
ボリボリと頭をかくガレック。
「まあ、実は念願の計画がようやく通ってな。たまたま近くまで来たから、お前にも教えてやろうかと思ったのさ」
「……念願の計画? もしや第2支部が推奨していたあれですか?」
「おう、それよ。実はな――……」
そう切り出して、ガレックは企画の内容を語り出した。
そして――数分が経ち。
ボルドとカテリーナは眉をしかめていた。
「……まさか、そんなことになっていようとは……」
ボルドが何とも言えない表情で呟く。
ガレックが語った内容は、かなり予想外のものだった。
「まあ、第2支部は、ずっとこの計画を上に挙げ続けていたからな。数年かけて綿密に下調べした結果なんだよ」
「そういえばあなたの部下もあの国に出向いていましたね。それも調査の一環で?」
以前、この部屋に訪れたガレックの部下達を思い出し、ボルドが問う。
すると、皮肉気な笑みをこぼしつつ、ガレックはあごをさすった。
「まあな。あいつらの本当の役目は現地調査ってやつだったのさ。まあ、どうやらとんでもねえ不運に見合われたみてえだが……」
「……確かに。彼らは不運でしたねぇ」
ボルドもまた苦笑を浮かべた。
が、すぐに表情を改めて同僚に尋ねる。
「それでどうするつもりです? ガレック。計画を通したと言うことは、今さら候補地を変える気はないのでしょう?」
「もちろんだ。あの国ほど条件のいい場所はねえ。ここは押し通させてもらうぜ」
自信ありげにそう語るガレック。ボルドは目を細めた。
この男ならば、こう告げるに違いないと思っていたのだ。
「……やはりそうですか。では、あなた自身が出向くということですね」
「おうよ。それであの国に詳しいカテリーナを貸してもらいてえだが」
ガレックは再び、カテリーナに視線を向けた。
「……ッ!」
カテリーナは息を呑み、肩を震わせた。
まるで巨大な大蛇に狙われたような気分だ。
この男と一緒に行動するなど考えたくもなかった。
(ボ、ボルド様……)
そして思わずボルドに助けを求める視線を送る。と、
「申し訳ありませんが、お断りします。カテリーナさんがいなくなってしまっては仕事が滞って私が過労死してしまいますからね」
「……ボルド様ァ……」
愛しげに自分の名を呼ぶ部下をよそに、ボルドは言葉を続ける。
「あなたの事だ。すでに現地には部下を送っているのでしょう。下手な口実を作らないで下さい。ましてやカテリーナさんに手を出す気ならば私にも考えがありますよ」
有無を言わせない重圧を込めた声。まさに殺意とも呼べる威圧だ。
しかし、生半可な者ならば呼吸さえ止まりそうな圧力を前にしても、ガレックは大仰に肩をすくめるだけだった。
「……はっ、悪かったよ、ボルド。お前の女に手は出さねえよ。だから、そう殺気立つなって。思わずワクワクしちまうじゃねえか」
「……あなたも大概、戦闘狂ですね」
自身のことは棚に上げ、ボルドは溜息をついた。
それから、ふと思い出したように一言。
「ああ、それとカテリーナさんは私の秘書であって、男女の関係ではありませんよ。あなたまで誤解しないで下さい」
そんなことを告げられ、ガレックは呆気にとられた表情を見せた。
「……はあ? そうなのかカテリーナ?」
そして赤い眼鏡の秘書を見やる。
すると、カテリーナは実に不機嫌そうに眉をしかめていた。
「――かかかッ!」
それだけで状況を察したガレックは呵々大笑する。
「中々お前も苦労してそうだな、カテリーナ。まあ、いいさ。頑張れよ」
言って、第2支部・支部長は立ち上がる。
そしてまるで肉食獣を思わせる泰然とした足取りでドアへと向かった。
そんな同僚の背に、ボルドは目を細めて語りかける。
「……お気をつけて、ガレック。彼は強いですよ」
「はン。そんなの《
そう返すと、ガレックは振り向き、ニヤリと笑う。
「現場から離れちまうと、連中とぶつかることも少なくなってきたからな。実はそいつが一番楽しみなんだよ」
そして、興奮が抑えきれない様子でガレックはこう続けるのだった。
「そのためにもさ、ちょいとド田舎まで出張して来るぜ」
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